表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
168/171

【A視点】末永く幸多からんことを

※時系列:『雨宿り◆』から数ヶ月後


・SideA


 春は出会いと別れの季節というが、異動と転勤がつきものの警察官は年中出会いと別れを繰り返している。

 むろん恋愛事情も例外ではない。


「……もう辞めたい」


 寮生が悪態をつきながら、ネットでくるんだ衣類を洗濯機に投げ入れた。

 苛立ちを抑えきれないのか、廊下を蹴散らすように踵を鳴らして自室へ戻っていく。数ヶ月前までの初々しい面影はどこにも残っていない。


 洗濯機の順番待ちの列に並ぶ私達は、一様に無言でいた。

 食堂でさんざん愚痴を聞いたあとなので、いまさら掛ける言葉が見当たらなかった。

 遠距離恋愛中に振られるなど、この世界では珍しくもなんともないのだから。


「運が悪すぎたよね。デートがことごとく潰れるとかさ」

「んーでも、全部の休みが非常招集掛かってたわけじゃないじゃん。疲れてるとはいえ電話もなくLINEの既読すらなかなかつかなかったら……うちだって冷めちゃうかなあ」


 女子の一人が彼氏側に寄り添う意見を述べ、耳の痛い指摘に顔を伏せる。


 互いの時間が重なりづらくなれば、すれ違いが重なりやすくなる。

 ただでさえ恋心は不安と隣合わせなのだから、寂しさに耐えきれなくなった人を責められるわけがない。


「きみはどう? うまくやってる?」

 そこそこ話す仲の女子が振り向いた。

 入学当初からなにかと気にかけてくれている、耳が早いお方である。


「それなりに」

「としか言えないよねー」


 面白みのない返答に、女子が気だるそうに同調する。

 順調、と胸を張れるほどの根拠も自信も持ち合わせていない。

 無いからこそ、過去の例を参考に不足分を埋めていくしかないのだ。


「遠距離恋愛ってもう、電話やメールでリアクション起こしてくしかないんだよね。結局は相手の忍耐力次第になっちゃうけど」

「付き合うようになって、過去の自分がどれだけ相手任せだったのかを思い知ったよ」


 だから、恋人以前に友人関係すら続かなかった。

 日頃からの愛情表現を試される環境に置かれて、ようやく己の悪癖を自覚するとは。


「はは、ダチにも彼氏にもいたわ。LINEも電話も遊ぶ約束も旅館の予約も夜のお誘いも、ぜーんぶ自分からはしない奴らだった」


 自覚しているはずだった欠点を他人の口から言葉にされると、痛みは何倍にもなって刺さってくる。

 開いた傷口をえぐるように、昔の友人たちの顔が思い浮かんで胃をきりきりと締め上げた。


「向こうも無自覚だったみたいでね、急に冷たくなったって詰め寄られたからゲロったらすり寄ってこられてさ……でももう冷めちゃったから遅いんだよね」

「相手の立場になって考えられない自分本意な人間でした誠に申し訳ございませんでした」


 罪悪感に耐えきれず、頭を下げて懺悔する。

 10代の頃は自分ばかりで何も見えていなかったのだ。


 いや子供が未熟なのは当たり前だが、私は人への解像度が周りより1周遅れているのではないだろうか。

 だから、はっきりと口にしてくれるこの方の存在はありがたい。言われるうちが華とはよく言ったものだ。


「誘うってエネルギーつかうし、断られたらどうしようって不安で誘えない側の気持ちもわかるんだけどね? リードしてくれる相手だったら乗っかってたほうが楽だしさ」

「仰る通りの心情でした……」


 人間関係が続かない人の特徴のひとつに『受け身すぎる』が挙げられる。


 自分から発信しなければ、人となりが分かりようもないので興味は持たれづらい。

 結果、浅い関係しか築けない。

 何も返さない人間を相手にしていては、その程度の仲だったのだろうかといずれ疲れ切ってしまう。


 自責の念から俯き加減になる私を正すように、女子が背中をはたいた。

 痛い。乾いた音が響いて、何人かの女子が何事かとこちらを向く。


「終わったことはどうしようもない。いま気づけてよかったじゃん」

「……そうだな。あともう少し加減してください。痛い」

「罰してほしそうな顔してたからさ。まあ、この痛みを忘れず惚れた子は大事にするんだよ」


 それっぽい言葉で平手打ちを正当化した女子は、逃げるように空いた洗濯機へと速歩きで向かっていった。

 まだひりつく背中をさすりながら、決意を新たに丸まっていた背筋を伸ばす。


 単刀直入に言うと。

 私は、もっと積極的にならなければいけない。



「というわけで、今は独身寮で暮らしておりまして」


 部屋に戻った私は、次の生活拠点の報告のため恋人に電話を掛けていた。


 女性専用寮は数が限られているため、通勤時間が男性と比べて長いのが悩みどころではある。

 民間ではありえない破格値の家賃なので文句は言えない。


『あれ、官舎か賃貸じゃないんだ?』

「配属署がそれなりに大きいところだからかな」


 卒業後は強制的に独身寮行きになるイメージがあるが、女性の場合はその限りでもない。

 中小規模の県警であれば財政的な理由で寮がない場合が多く、官舎、あるいは自宅通勤が一般的である。


 配属先は卒業直前に伝えられたので、どのみち民間で探す余裕はなかったわけだが。


『新生活はどんな感じっすか』

「集団生活であることには変わりないよ。飲んできた非番員に起こされてしまうこともある」

『え、飲酒いいんだ?』

「非番や週休であれば。当直が終わると開放感があるから、はしゃぎたくなる気持ちは分からないでもない」


 警察学校では羽目を外すことは一切不可能であったが、ここではある程度の自由が認められている。

 けれど当直を控えた週休員は早く寝る必要があるため、非番員とのテンション差が激しい。

 恐ろしかった教官も、離れて初めて存在の有り難みを噛みしめることになったわけだ。


 寮生活を営む理由としては、有事には迅速な警備力を確保する必要があるから。

 一極に人員を集中させておくことで、より多くの人命を救う確率を上げるためである。


「申告すれば外出も外出先も自由だから、日帰り旅行も可能だったりする」

『その言い方だとやっぱ門限はある感じかー』

「その門限も零時までに伸びているから……多少は目をつぶってくれている感じなのかな」

『寮つっても待機寮だしね』


 許可が降りる宿泊先は実質、自宅のみだ。

 当然、寮のセキュリティのため友人や恋人を招くことも禁じられている。

 官舎の場合は縛りがなく外部の人間の出入りが自由なため、割り当てられた人が羨ましくなってくる。

 

「こっちにいる間は平日でも携帯電話を持てるようになったから、またいっぱい話そう」

『しゃべろしゃべろ。……て、つっても当直は丸一日勤務じゃなかった?』


 ……あ。

 連絡を取れる時間が増えたことに舞い上がって頭から抜け落ちていた。


「……そ、その日はさすがに出られないのであとで大まかな予定を送っておきます」

『りょ。しっかし三交代制って超しんどいね。8時間労働きっつとか言ってらんねぇな』


 具体的な勤務体制は伝えていなかったはずだが、頻出する専門用語から調べてくれていたらしい。


 相手に興味を持ち、知ろうとしてくれる嬉しさが頬ににじむ。

 本人は処世術だと言っていたが。自分のことですらいっぱいいっぱいな人間からすれば、継続できることが一種の才能だと思う。

 そういった日頃からの意識に人望の差が出るのだろう。


「確かにきついけど、そのぶん医療費や保険料は安くなっている。今は部下に休みを取らせることが考査の評価にも入るから、まとまった休暇も取りやすくなったと先輩から聞いた」

『まじ? ほっとんど休めないイメージあったけど』

「平成までは。そもそも少子化でどこも若手の人材確保に苦労しているから、職場環境を見直して定着率を上げようということなのかな」


 この仕事を選んだ理由のひとつに、安定した雇用だからというのがある。

 景気はずっと低迷していて、大企業でもいつ傾くかわからない。

 なのに物価は上がり続けるばかりで、生きているだけで出ていくものが多すぎるのだ。


 終身雇用制が崩壊しつつある現在においても決して消えることはなく、手当が厚く、かかる費用も免除されている。

 パートナーを支えていくためにゆとりを持って老後の蓄えができる。

 それが叶う立場に就けたのだから、相応の責任が伸し掛かってくるのは当然と言えた。


「なので、気軽に掛けて構わない」

『令和の常識にアプデされてるっぽいから安心したけど、非番って言っても待機状態なわけでしょ』


 電話は夕方以降にするからちゃんと休め、と彼女が念を押す。

 そのどっしりと構えた喋り方に、肩に手を置いて言い聞かせる母親の姿が重なった。

 掴みどころがない軽やかな返事からずいぶん変わったものだ。


 一般企業とはあまりに異なる常識にも不満一つこぼさず、理解を示すパートナーの存在は貴重だ。

 思いやりの強さは、我慢強いということでもあり。

 多少は解像度が上がった今、胸に湧く温かさと苦しさを同時に覚える。


「ありがとう。もちろん、体も労る。……けど、」

『どした?』

「当直明けに……こちらから電話してもいいかな」


 酒を呷って労働後の充実感を味わうように、恋人の声を聞いてから眠りにつきたい。

 ささやかな願望を提示すると、『いいねそれ』と弾む声が食いついてきた。


『じゃあ、あたしは週明けにお願いすっかな。月曜をちょっとは前向きにしたいから』

「モーニングコールというもの?」

『それそれ。当直と被る日はいいからさ』


 仕事の始まりと仕事の終わり。それぞれの景気づけに声を掛け合うことを約束する。

 期待に焦がれ、高揚が打ち上がる。せっかちな口元が震えた。

 同僚には死んでも見せられない顔つきになっているだろう。

 寮が個室であることに心の底から安堵した。


『ちなみにあたしは終業5時半だから、6時以降なら大体連絡つく。予定入ってる日は同じく連絡するね』

「わかった。それで次の予定だが……」


 本当は次の週休にでも飛んでいきたい気持ちがあったが、しばらくは勉強に専念して電話のみのやり取りに控えることにした。


 制服に腕を通した瞬間から、市民の前ではベテランも新人も同じ警官だ。

 初任科生だから未熟で当たり前は通用しない。

 とにかく全力で当たってあらゆる経験を積み、頭にも体にも叩き込んでいくしかないのだ。


『暫定で22日ってことで。いい夫婦の日だ、覚えやすいね』

「悪い、ずいぶん先になってしまって」

『大変な現場なんだから勉強優先は当たり前じゃん。定期的に電話くれるだけありがたいわ』


 急に声量が絞られて、内緒話をしているときのような声になった。

 一人暮らしなのだから誰も聞いていないだろうに。


『……そういう、真面目に頑張るとこに惹かれたんだからさ』


 放たれた小声には、いつもの茶目っ気のある調子は含まれていない。

 飾り気のない本心の言葉は不意打ちすぎて、箒で掃いたように思考が片隅へ追いやられていく。

 頭が真っ白のまま天井を見上げる私へと『なんか言えや』と声の手刀が落ちた。


「で、デートの日を楽しみにしながら頑張ります」

『ま、市民目線でしかあたしは言えないけど。君の頑張りはずーっと見てきたから、あんま追い詰めなさんな。抱きつく代わりに愚痴ぶつけておいで』

「ありがとう。こちらも、力になれるよう受け止めたい」

『そんときゃ頼りにするぜー』


 予定を立て終わったので、いつ会話を締めくくっても問題のない段階に移った。

 肩の力を落とし、腹に力を入れる。


 今しか、ない。

 積極性を、示せ。


「あの……」

『なんすか』

 一呼吸おいて、私は喉に保留していた言葉を引っ張り出した。


「……たいへん申し上げづらいであろう不躾なことをお尋ねいたしますが」

『無駄に仰々しいんだけど何を吐かせるのかね』

「その…………生理周期、を確認したく」


 言った。

 予定日を無事迎えるため必要な確認作業なのに、口にした途端に果てしない罪悪感が汗となって吹き出してくる。

 世の恋人たちはどうやって手順の壁を乗り越えているのだろう。


『え、おお……そ、そういう流れっすか…………ですよね?』

「で、です」

『そっすよね……で、あええと…………カレンダー見るから、から。ちと待て』


 私からまず飛んでこないであろう言葉に向こうも動揺しているらしく、歯切れが途端にあやふやなものへと変わる。

 移動しているのか忙しない音が響き始めて、少しの沈黙の後に早口になった彼女の声が届いた。


『おけ。おけおけ。いつも通りなら2週間前に来てる、かと』

「わ、わかった。こっちも問題ない」


 別の話題に切り替えられる空気でもなくなってしまったので、ここで解散する流れとなった。

 大学時代から数え切れないほど肌を重ねてきたはずなのに、未だに話を振るときは声が上ずってしまう。

 晩酌に誘うくらいの気軽さで雰囲気を出せる日はくるのだろうか。


 通話が切れたスマートフォンを置くと、途端に体の力が抜けた。

 肉体を吊り上げていた気力の糸が切れたらしい。

 土下座でもかますように畳に突伏して、額を擦り付けながら叫びたい衝動を必死に噛み殺す。


 ……さすがに直球すぎただろうか。

 けれど振り返れば彼女側から切り出すことが圧倒的で、ご無沙汰だったのも事実で。

 内心不満は溜まっているのではないかと気がかりなところはあったのだ。

 誘うという行為の中でも、比較にならないほど心理的ハードルは高いものであろうから。


『聞き忘れたけど 今日って非番だっけ』


 伏せていたスマートフォンが通知音に震えて、確認すると彼女からのLINEが届いていた。

 電話ではお誘いの羞恥を引きずって会話にならないだろうから、こちらに切り替えてくれたのかもしれない。


『そう 非番』

『おつ いい夢見られるように送っとくよ』


 さっそく実践してくれたらしい。おやすみなさいの代わりに、1枚の写真が添付された。滅多にしない自撮りだった。


 寝間着姿の彼女が手を振っていて、直視できないのか瞳が恥ずかしげに逸らされている。


 妙に扇状的に映ってしまって、今からそんな目で見るわけにはいかないと緩みかけた頬を思いっきり引っ張った。痛い。

 構図や格好で決めずとも美形はいるだけで絵になってしまうのだから、写真集の商売が成り立つわけだ。


『ロック画面までなら許す』


 何も言っていないのに釘を差された。

 ちなみに現在の壁紙は、未だに最初のクリスマスで撮影したツーショットである。

 譲歩してくれたので、ありがたく撮れたてほやほやの自撮りを設定した。


 気分が盛り上がっているうちに寝てしまおう。

 布団を敷いて、頭から毛布をかぶった。

 眠りに落ちるまでの間、空想に耽ることにする。


 人付き合いは、難しい。

 どういった距離感でどういった接し方が正解なのか、千差万別であろうから未だに最適解がつかめない。


 関係の維持に神経を削るくらいなら、いっそひとりで生きていったほうが気楽なのだろう。

 気ままに過ごしている人に羨望を抱きつつも、自分はすでにそっち側にも行けないことに気づいてしまった。


 私の往く道は、手を引いてくれた彼女によって続いている。

 足取りがおぼつかなくたって、それでも共に進んでいきたいから。



 鼻先に人参をぶら下げて走らされる馬のように。

 待ちわびながら仕事に揉まれるうちに、約束の日を迎えた。


「実家に帰省って言っときゃ外泊できるのに」

「そんな度胸はない」


 同僚が助言してくれたが、たとえ発覚の心配がなかったとしても虚偽申請であることには変わらない。

 後ろめたい気分のままでは、せっかく会える時間が増えても盛り上がれずに終わってしまうだろう。


「真面目か。学生時代サボりとかしなかったでしょ君」

「そうまでしてやりたいことがなかった」

「だから警察学校卒業できたんだろうね」


 盛り上がりすぎて門限破らないでよ、と忠告した女子が握った拳を向けてきた。

 軽く拳を突き合わせて、靴を履く。

 彼女は街の中心部へ、私は最寄り駅に続く沿線へ。それぞれ別方向に歩き出す。


 そういえば、独身寮に来てから初めての外出となるのか。

 雲が取り払われた青空を仰ぎ見る。色も陽射しも目が眩む力強さがあり、真夏の空とはまた違う存在感を放っている。


 歩き続けていると、そのうち暑さを覚え始めた。

 晩秋にふさわしい冷風が吹き付けている中でも、11月末とは思えない暖かさに衣類が包まれている。

 駅についたらコートを脱ごう。


 ともあれ、デートには絶好の気候といえた。



『今、ホームに着いた』

『りょ こっちもさっき店開いたとこ』


 LINEに一言入れて、改札をくぐる。

 待ち合わせ場所は彼女の自宅ではなく、西口を降りてすぐの場所にあるファミリーレストラン。開店時間に合わせて会う予定だ。


 ……”そういう”約束を事前に交わしているからか。二人きりになれるような場所だと意識してしまう。


 するためだけに予定を入れたわけではないけれど、下心というのは案外伝わってしまうものだ。私は外と内の顔を使い分けられるほど器用ではない。

 公共の場であれば意識しづらくなるだろうと判断し、今に至る。


「お一人様でのご来店ですか?」

「いえ。連れが、先に」

「あ……はい。かしこまりました。7番のテーブルにお進みください」


 クラシック音楽が流れる店内を見回すと、ひゅっと見知った顔がソファー席に引っ込んだ。

 入口が見える席でずっと耳を澄ませていたのだろうか。


「おはよ」


 涼しい声と素知らぬ顔に出迎えられた。

 早朝からTVに映るアナウンサーのように、身だしなみは抜け目なく整えられている。

 編み込んで肩にゆるく掛かった髪型は新鮮な姿で、気合の入れように早くも心音が駆け出していく。


「ありがとね、こんな朝早くから」

「構わない。その分長く会えるから」


 可能なら朝食からご一緒したいとのことで、寮の食事は断りを入れている。


「カットフルーツ頼んだからつまんでていいよ。そろそろ来ると思う」

「ありがたく頂きます」


 噂をしていたら配膳ロボットがこちらに滑ってきた。

 果物が盛られた皿を受け取って、畳んだコートとバッグを向かい側のソファーに置いて、彼女の隣へと着席する。


「んえ?」


 二人以上の相席を想定した座り方に彼女が目を丸くする。

 見つめ合ってると食事どころではなくなりそうなくらい綺麗、などと半分建前で本音の言い分を述べた。

 もちろん、感情の機微に聡い相方が額面通りに受け取るはずがない。


「甘えん坊さんめ」


 含みを持たせて笑いかける彼女からメニュー表を受け取った。

 グランドメニューは10時以前は利用できないということで、モーニングメニューのみの写真が並んでいる。

 朝食を飲食店で済ませたことはなかったので、新鮮な気分だ。


「朝食って基本内食だと思っていたから、意外と利用客がいて驚いた」

「モーニングの市場規模増えてきてるからね。朝から用意するのも片付けるのもめんどいし、かといって抜いたら生産性が悪くなるし……そんでいま朝活ブームが来てるわけ」


 彼女もたまに利用するという。だからここに指定したわけか。

 私はパンプディング付きの目玉焼きセット、彼女は焼鮭定食。和洋に分かれた朝食を注文した。

 価格はちょっと高いコンビニ弁当程度に抑えられている。朝の静謐な空間で食事できることも加味すると、なかなかお得感があった。


「そだ。これ」


 彼女が鞄を漁りだし、化粧ポーチを取り出す。

 警察学校時代は化粧を禁止されていたので、彼女に会う日はまず顔面工事を整えてからがお約束となっていた。

 ということを切り出されるまで忘れていた。


「助かる。あと、寮にいる間はナチュラルメイク程度なら可能になったから。髪も肩までであれば伸ばしていいことになった。これ持って帰るよ」

「あー、そっか。現場出るからか。ごめん、もうちょい早く渡しておけばよかった」

「大丈夫、仕事が忙しすぎてノーメイクを気にしている暇すらなかった」


 濃い口紅、マスカラ、アイシャドウをしていた同期は注意されていた。

 化粧に気合を入れることができないぶん、みんな似たような顔ぶれなので気持ちは楽だったと言える。

 今は小学生から化粧をしている女子も増えたから、ルッキズムは私の学生時代より加速しているのだろう。

 いずれ10代からの美容整形も当たり前になっていくのだろうか。


「生の声を聞くと、刑事ドラマがいかにファンタジーかわかりますな」

「映像作品である以上は、ある程度の目の保養が求められるだろうから……」


 守秘義務に反しない程度の職場事情を交わしつつ、運ばれてきた料理を味わう。

 ほどよく焼色のついたパンの切れ端を噛むと、染みたメープルシロップの甘さが広がった。

 食感はいいが、シロップを一気に入れてしまったので口内が甘ったるい。塩気を求めてソーセージを齧る。


「意外。和食にすると思ってたから」

「寮の食事がそんな感じだから、たまにはカロリー度外視の朝食もいいかなと」

「確かに、栄養バランス考えた食事ばっかだとジャンクフード恋しくなるもんね」


 物珍しげに私を見つめる彼女の視線は、ちらちらとパンプディングに向けられている。メープル系のスイーツを好んで食べていたことを思い出した。


「少し食べていいよ」


 正直に言えば少しではなく半分以上引き取っても構わない。

 シロップに侵食された塊は、数口も飲み込んだら味わうには辛くなってきた。甘いものは人並みに食べるはずなのだが。

 食べる? だと遠慮しそうなので新しいフォークでパンを突き刺し、さりげなく差し出す。


「え、えっ」

「遠慮せず。自分には甘かったかもしれない」

「……な、なら。もらいます」


 彼女が身を乗り出し、何かに気づいたように顔を引っ込める。

 それから手を伸ばして、押し付ける気まんまんに差し出されたフォークを受け取った。


「勿体ない。こんなに美味しいのに」

「次はシロップなしで食べることにするよ」

「なんだと。トーストからメープルを抜いたら味気ないパンしか残らんやんけ」

「焼くだけで食える側の人間なもので……」


 メープルが好きという記憶は当たっていたようでほっとする。

 結局、残りのパンプディングは彼女の胃袋に収められた。


 あとでお腹空かないかと彼女が心配してきたが、そのぶん昼は多めに食べるよと言っておく。途中で買っておいた飲料ゼリーもあるわけだし。

 と伝えると、なぜか彼女は残念そうにしていた。


 食べ終えて、化粧室へと向かった。

 顔面偏差値を気にしている場合ではない環境にいるので感覚が麻痺していたが、デートであればそうもいかない。

 念入りに塗りたくって席に戻ると、彼女がたどたどしい手つきで鞄から何かを取り出した。

 大事そうに抱えて、私へと差し出してくる。


「来週、誕生日でしょ君」

「ああ……けど、」


 大学までは互いの誕生日に料理を御馳走したりプレゼントをあげていたが、遠距離では難しくなったので贈り物は廃止になったはずだ。

 けれど真剣に見つめる彼女の瞳には譲れない意思が宿っており、口を挟むのは無粋だと判断する。

 礼を言って、リボンがあしらわれた紙袋を受け取った。


「ここで開けていい?」

「ぜ、ぜひ」


 丁寧に高そうな包装紙を剥がしていくと、小さく、固く、光り輝くそれが目に飛び込んできた。


 指輪だった。


 それも、この全周にクリスタルが埋め込まれたデザインには見覚えがある。

 手元と彼女を交互に見つめる私へと、左手がかざされた。


「……宝石じゃなかったら、手が出せる値段だし。同じやつ買っちゃいました」

「あ、そうか、だから今日……」

「そ。ふーふの日だからちょうどいいかなって」


 感情の洪水に呑まれた脳の処理が追いつかない。情緒が中途半端に顔に出た、間抜け面を晒して固まっていた。

 舌が震えてまともに答えられない私の手を取って、彼女が両手と胸元で優しく包み込む。


「勤務中はアクセサリーは禁止なんだよね」

「そ、そう。申し訳ないが……」

「うん。だから、会うときだけつけていてほしいんだ」


 左手が、彼女の滑らかで温かい指に撫でさすられる。

 薬指へとペアリングをしっかりはめて、頬を染めた彼女がはにかんだ笑顔を向けた。


「あたしといるときは、お嫁さんでいてほしい」


 鮮烈で、甘美な囁き。

 視界が灼かれる眩しさを錯覚し、火の側にも似た熱さが頬へとともり始めた。


 頭がふわふわする、と形容できるほど意識が散漫としていて、目も回りかけているように感じる。

 現実に繋ぎ止めていると分かるのは、左手に輝く指輪だけだ。


 もっと現実であることを確かめたい。

 もっと、彼女を感じたい。


「…………一生、大事にする」


 店内であることも忘れて彼女に抱きついていた。

 ようやく絞り出した声は枯れ葉みたいに掠れていて、届いているか不安になる。

 けれどすぐに背中に回される腕の感触があったので、伝わっていた嬉しさからさらに力をこめた。


 彼女に選ばれたことを心から誇りに思う。

 法律婚はまだ遠くても、目に見える相思相愛の象徴がたまらなく嬉しい。


 抱擁から離れても、私達はしばらく互いの左手を重ねて肩を寄せ合っていた。

 そのうち人が増えてきたので、回転数を上げるためにも名残惜しく席を立つ。


「そろそろ場所、変えよっか」

「……ああ」


 その言葉が何を意味しているのか、さすがに察しはつく。

 求め合う熱はどんどん高まっていて、握っている掌から彼女も同じ温度に上がっているのがわかった。

いい婦妻の日用に書いていたのですが遅くなりましたすみません

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
真面目な二人のコツコツ積み上げる関係がとても素敵です! Aさんの不安を解消するため努力がとても真っ直ぐで真剣なのですが、直球すぎて受け止めるBさんの心臓が心配になります(笑)生理周期ワロタ まあそのB…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ