【B.A視点】3周年と好感度が1だった頃の話
・SideB
※時系列:第1話から3年後
ノロノロ台風と共に過ぎ去った8月のカレンダーをめくって、とある日付を丸で囲んだ。
季節の移り変わりを何によって感じるかはさまざまだけど、あたしは交際記念日で秋の始まりを実感する。
好きな季節から歩みだした、好きな人との日々。振り返ると、色褪せない記憶が咲き誇るようによみがえってくる。
で、3年めとなる今年はどうするかだ。
1年めは月見バーガー買って、去年は古くからの慣習っぽく月見を祝った。
この先ずーっと続くのだから、毎年趣向を凝らしていればいつかネタ切れするのは目に見えていた。
ああでも、来年からしばらくはできないか。社会人になるわけだし。
大学生活は残り半年ほどとなって、今は卒論に向けてデータの収集中ってところ。
あいつは、第一志望となる警察官の採用試験に見事合格した。
女性警察官の倍率と現役合格難易度ってめっちゃ狭き門だから、本当によく頑張ったと称えたい。
いざ顔を合わせたら感極まって号泣しちまったもんだから、抱きとめる役が逆になってしまったんだけどさ。
警察学校は厳格な規律のもとで生活するため、連絡も外出も簡単に許可は降りない。卒業してからも寮生活は続くみたいだし。
なので、この先数年は一緒に祝えないわけだ。
言語化してしまうと、痛みが胸を刺した。
じわじわと、傷口のように寂寥感が広がっていく。
「やめやめ」
振り払うように声に出した。
まだ今年のぶんも祝ってないのに、今からおセンチぶってどうする。
高校のときは絶対叶わないと思ってたんだし、今でも都合の良い走馬灯を追ってる最中なのかと思うくらいなのに。
知り合った頃から換算すると7年だよ。
7年も続いている仲なんて、もうどの学生時代の友人にもいない。
あたしがそもそも他人に執着する性格じゃないから、長続きする人なんていないと思ってた。けれど今じゃこれだ。
あたしの世界は彼女がすべてを占めていて、まるごと作り変えられてしまった。
どっぷりお惚気に浸かりきった脳で今日もあいつのことを考えて、思考がまとまったあたしはスマホを手に取った。
「いま時間ある?」
『立て込んでる用事はないからどうぞ』
「おけ。要件は単に、今月の例の日なんだけどさ」
『ああ、17日か。大丈夫、ちゃんと空けておいたよ』
ちゃんと覚えてくれている温かい声に、心臓の音が1段階早くなっていく。
今年は前日の夜からあたしの部屋で過ごそうと約束を取り付けて、あとは生産性のないお喋りに興じる。いつもの流れだ。
予定の確認程度、LINEをちょっと打てば終わるのに。現に昔はそうだった。
わざわざ電話を掛ける理由なんて、声が聞きたかったから以外にない。
あの頃よりも顔を合わせている時間は長くなったのにね。
「…………」
当日の朝は静かに訪れた。
ぼんやりと、意識が揺り動かされて肉体の電源が入りだす。
スマホの目覚ましを借りず起きられたのはいつ以来だろう。室内はまだ薄暗く、恋人の規則正しい寝息が耳に流れてくる。
二本の腕はあたしの頭をがっちり抑え込んでいて、簡単に身動きがとれない状況だ。
物理的な束縛に、胸の奥が甘く疼く。
体温と香りにさらに埋もれたくて、ゆっくり上下する胸元へと顔を擦り寄せた。
この季節だからだんだん蒸し暑くなってくるけど、くっついていたい欲には抗えない。
けれどあいつは我慢できなかったみたいで、やがて『暑……』とか細い声が届いて片方の腕がほどけていった。
ぴっと機械音が鳴って、汗ばんだ肌へ冷風が降り注いでいく。
ごめん、起こしちゃったね。
額の汗をぬぐったあいつと、目が合う。
おはようと言おうとして、頬に大きい手のひらが触れた。
「おめでとう、」
お祝いの言葉と、あたしの名前を添えて。優しく細められた眼差しに、吸い込んだ息が止まる。
挨拶よりも早く言ってくるとは思わなかったから、完全に不意打ちだった。
「今年も無事、この日を迎えられてよかった」
「そ、その通りっすね」
もっとムードある台詞なかったのか、あたし。
低く穏やかな声とはにかんだ微笑みに出迎えられたもんだから、脳と喉と舌があっさりバグった。
記念日の朝が、恋人から始まる。今日が特別な日なのだと意識させる高揚感が胸に響いて、つま先まで熱を帯びていく。
手を伸ばして、髪を梳いた。
さっきこの子がしてくれたように指を頬へとなぞらせ、手のひらを押し当てる。
あったかい。
へへっと、自然に笑声が弾けた。
どうかしたかと聞いてくるあいつに『生きてる』と答える。
「あんたと密着していると、いつもそう思う」
他人に触れて生命を感じるって、なかなか伝わりづらいことを言ってるもんだ。
死んだことがないから実際どうかは知らんけど、自分が死んでも気づかない人は多いっていうよね。
肉体がないから、生理的欲求が意識に伝わらない。なかなか夢の中で夢だと自覚できないみたいに。
こうしてあいつを感じるたびに、あたしは生と幸せを噛みしめることができる。
そもそも他人に触れること自体が、よほど親密な仲になっていないとできないことだから。
「……生きててよかったと、今初めて思った」
頬を紅潮させたあいつがなかなか凄いことをつぶやく。
お互い、寝起きのテンションだから普段よりも大胆になってるのかもしれない。
「長生きしてくれないと困りますからね」
「それは、私も、大いに困る」
「お互い安全意識と健康意識は忘れないで生きていこーぜ」
照れが入ってきて茶化す言い方になってしまったけど、言ってることは本気だ。
まあ人生なにがあるかわからんもんだけどさ、後悔しないためにやれることはやっておきたい。そのためにはまず、規則正しい生活習慣からだ。
薄い毛布から這い出て、あたしは大きく伸びの姿勢をとった。
「てわけで、今日は朝ランご一緒してもいい」
「もちろん。準備体操はしっかりするように」
「りょーかいです」
そんな感じで、特別な日の特別ではない時間が流れていく。
筋トレと軽めの走り込みを終えて、一緒に作った朝食を済ませて。食器を洗い終えたあたしは、ジャージから着替えることにした。
「これからジャージ洗濯するけど、他に干すもんある?」
「いや、特には……」
朝の情報番組を眺めていたあいつが振り返って、声が途切れた。
目を丸くして、ぽかんと池の鯉みたいに口が開いてる。
「きれい……」
「ね。いいセンスしてるよねこのブランド」
「すごく、たいへん、きれいで、きれいすぎて…………すまない、とても美しい以外の言葉が出てこなくて」
放心しててもちゃんと感想を伝えてくれる律儀さがこの子らしい。
ありがとよーと決めポーズを添えて返すと呻いて心臓を押さえだした。たまに漫画的なリアクションするよね君。
こっちもオータムコーデレポしたかったんだけど、今畳み掛けたらガチで倒れそうだから後にしよ。
「今日、どこかに出かける予定だった?」
「んーん、おうちデートから変更なしよ」
回復したあいつからごもっともなツッコミを受ける。これからパーティーにでも出席するんかって感じのフォーマルな服装だからなあたし。
実際に参加するんだったらこんなにめかし込んではいかないけどね。
周りがほっといてくれないのは、これまでの経験で嫌というほど身にしみている。
ナンパに絡まれるわ、同性と遊んでいてもやっかまれるわで。
前者は他の誰かに取られる前に射止めたい本能、後者は狙っている相手を横取りされてしまうかもしれない本能からくるものだからわからなくもない。
けどさ、それに配慮していたらなりたい自分はどこで出せってんだろうね。自分のためにお洒落してるだけなのにさ。
『いいよ。私といるときは、遠慮せず好きな格好をしたらいい』
『いやいや、君よりあたしのが目立ってどうするよ。家でファッションショーするだけで満足だから』
『妬んだって綺麗になるわけではないし、ナンパ目的でお洒落をしているわけではないことくらい、これまでの行動で分かっている。それに』
『それに?』
『……服や化粧品を選んでいるときのあなたは、とても楽しそうだから。本当に心から好きなんだろう。友達として、その楽しみを奪いたくない。共有したいんだ』
『…………』
『ご、ごめん。調子に乗って偉そうに言ってしまった』
『ちゃうって、もう。せっかくかっけーと思ったんだから自信持ちなよ』
ところで今日は偶然にも、中秋の名月が懸かる日らしい。
でも、今夜の主役となるであろう月にだって今昇っている太陽にだって、誰にも今のあたしは見せてやんない。
そのためのおうちデートだから。
見ていいのは、目の前のたった一人だけだ。
きっとこの子も、かつてなにを言ったかってとっくに忘れてんだろうな。
ほんと、無自覚なんだからさ。
「んじゃ、次はあんたの番だからお掛けくださいな」
あいつを三面鏡の前に座らせて、あたしは化粧道具を広げた。
今更あたしの手を借りるまでもないくらいこの子のメイク技術も大したもんになったけど、それと恋人を飾り付けたいと思う欲はまた別だ。
けっこう髪が伸びてきたから、ヘアアレンジの幅が広がって楽しいんだよね。
さて、今日はどんなテーマで行こうかね。
「いいコスメとヘアアクセ買ったから、ばっちり仕上げてあげる」
「楽しみにしているよ」
これはどうかあれ試してみないかってあいつと話し合いながら、あたしは手を動かしていく。
相変わらずきれいやかわいいって褒め言葉には慣れないのか毎回赤くなってるけど、その反応も含めてあたしは褒めちぎってるので。
この後もいっぱい甘えさせて甘えまくる予定だ。
「さっき言い忘れたけど、美意識もずっと持ち続けたいね」
「いくつになっても身だしなみを整えて損はないからな……」
「それもあるけど、君の前ではずっときれいでいたいからさ」
以前は老いが怖くて、三十路過ぎたらとっとと逝ってもいいかなーなんて思った時期もあった。
ボケるかもしれんし、体はあちこち悪くなるし、よぼよぼに萎れてくだけだし。老人になるメリットなんてほとんどない。
今は違う。
恋人と長く一緒にいたいって思う気持ちが上回ってからは、歳を重ねるのが楽しみになってきた。ほんとだよ。
楽しそうなおじいちゃんおばあちゃんの顔って可愛いんだよね。笑いジワがいっぱい刻まれててさ。
そういう者に、あたしもなりたいもんだ。
ほんと、呆れるくらいこの子に自分は生かされているなって思う。
「あの……終わったら、なんだが」
「なんでしょ」
「写真……撮りたいなと。一緒に。あと記念に」
「いいねー。ちょうどあたしも撮りたいと思ってたとこ」
最近はこうしてツーショットをお願いされることもあるから、あいつとの思い出が物理的に増えていっている。
あの頃からは想像もつかなかった変化がわかる立場にいることが、素直に、本当に、嬉しい。梳かしている髪を撫で回しそうになったくらいには。
あたしの1年でもっとも好きな季節は、記念日とともに始まる。
澄み渡った心へと想いが満ちて、鮮やかに色づいていくのを感じた。
・SideA
※時系列:高校時代
小中学生の頃、給食の時間が苦痛だった。
給食自体に不満があったわけではなく、横と前後の席で4人1組の班を強制的に作らされる謎ルールにある。
飲食店の4人掛けテーブルみたいに机を対面させる。
仲の良い子同士なら憩いのひとときだったのかもしれないが、そうでない人間には息の詰まる時間でしかない。
露骨に机を離す子と席替えで当たったときは、毎日胃薬のお世話になっていた。
高校へと進学し、学校給食法の範囲外となった教室では自由な昼食が許されるようになった。
ずっと夢見ていた、授業のままの並びで食事に集中できる開放感。
クラス全体の雰囲気も和やかで、男女で対立することが多かった中学時代と比べると別世界のように感じた。
けれど、心の平穏を保てていたのは最初の数日間だけで。
明るくフレンドリーなクラスメイトばかりだったから、1週間も経てばほぼほぼ仲良しグループは固まっていた。
入学して日が浅いため適当な場所で弁当を広げる勇気もなく、次の週からは学食で済ませるようになった。
「ありがとうございましたー」
きつねうどんの丼が乗ったトレーを受け取り、空いていた6人掛けテーブルのパイプ椅子へと腰掛ける。
食堂自体も固まっている男女は見かけるものの、場所が広く席数が多いからか教室ほどの疎外感は覚えない。
しかしここ、日当たりが悪いのかけっこう寒い。
外は春の陽気に包まれていたはずだが、注文を待っている間に手足の指は冷え切ってしまっていた。
見渡してもエアコンの類は見当たらず、油が染みつき色褪せた壁が予算の少なさを物語っている。
全学年と教員が利用する場所にしては空席が目立つわけだ。
自分が選んだ学校なのだから、多少の不便は仕方がないと割り切ろう。
理由は単純に、家から通える範囲で誰も通いそうにないところに行きたかっただけの話である。
逃げたかったとも言う。人間関係をまっさらな状態からやり直したかったのだ。
無心でうどんを啜りながら、蓋をしていた黒歴史を掘り起こす。
出る杭は打たれるという言葉通り、目立ってもいいことなどほとんどない。
学生の本分は勉強というが、学校は学業のためだけにある施設ではない。
まわりとの調和を保つ『いい子』に埋没する目的も兼ねていると気づくまでに、私は遅すぎた。
私はことごとく間違い探しに引っかかった。
容姿は言うまでもない。子供が興味を惹かれやすいものにも関心を示さず、趣味を持たないということは共通の話題も当然生まれない。
当時は一人のほうが気楽だと思っていたし、気遣わず放っておいてほしかった。
けれど。集団生活の中ではみ出せば均衡が崩れる不安を生み、やがて排他的思考へと繋がる。
ましてや成長途中の段階では、ちょっとの違いが我慢ならない子供は必ず存在する。『みんなとちがう子』に向ける扱いがどんなものだったかは、もう思い出したくもない。
……そう、経験から分かっていても。
今の私は逃げ回っているだけだ。
べつにクラスメイトを突っぱねているわけではない。
毎日挨拶は誰かしらと交わしているし、会話を振られたら無難な言葉を返す。
グループ班やペアを組む必要があるときは自主的に話しかけるくらいの努力はする。
その程度の関わりを当たり障りのない人間関係を築けているとは言えない。
このままでいれば、いずれはまた浮いてしまうだろう。
「ちっす」
軽快な挨拶が降ってきて、目の前に炒飯が乗ったトレーが置かれる。
うどんに落としていた目線を上げると、一人の女生徒がこちらに向かって手を振っていた。
こうして会話を交わすのは初めてとなるだろうか。
まだ顔と名前が一致しないクラスメイトはいるが、彼女は特徴的な外見のためか早い段階で覚えた方だった。
今どきの10代には珍しい、編んで2つに束ねた髪型とフルリムの眼鏡。
制服を崩さず着こなし、スカートも校則よりだいぶ長い。
真面目そうな姿で固めているのに、髪だけははっきり染めてるとわかるほどの明るい茶色なのが異彩を放っている。
「お嬢さん、ここよろし?」
「……ご自由に」
身構えた言い方になってしまった。
箸を置いて、警戒していない印象を与えるべく口端を緩めて頭を下げる。
名字で呼ぶと『知ってるんだ』と驚いた声が上がった。
「もしや、一度も同じクラスにならなかった中学の同級生だったりする?」
「私のところは一クラスしかなかったから。単に、クラスメイトだから頭に入っているだけだよ」
「へー、まだ入ったばっかなのに記憶力いいね。あたしなんて3年通してフルネームで覚えたの数人なのに」
「……会話のときに困らなかったのか?」
「基本顔かあだ名で覚えてましたからねぇ」
仲の良い数人としか交わさないから最低限の記憶だったのだろうか。
だとするなら、親しくもない私に話しかけてくる理由が見いだせない。
……あ、そうか。
ここは自分とこの人以外座っていない長テーブルなのだから、もっと単純に考えればよかった。
「ところで、これから他の人が来る予定だったり……します?」
「なんでさ」
「いやその、前に委員長たちと食べていなかったか。先に席取ってるのかなと」
「あー。あたしね、とくに所属してるグループって決まってないんだ。ぼっち飯とか普通にするし、いーれてって混ざるときもあるってだけ」
「自由……なんだな」
「そんなとこ。たまたま学食の気分になって、たまたま君を見かけて、まだ話したことない子だったから突撃してみよーってなっただけだから」
勝手に抱いていたお堅いイメージが剥がれていく。
私のようなクラスカースト下位を除けば、女子高生は群れたがる生き物だと思い込んでいた。
けれど、その日の気分で集団も一人も謳歌している人間に出会ったのは彼女が初めてであった。
「ま、お喋りが立ち寄ったとでも思っといて。とりあえず食べちゃお」
女子とはその後、利用する路線の本数の少なさだの校内の設備の古さだのと、無難な話題を広げて終わった。
答えづらいことは掘り下げず、受け答えには適度にユーモアを交えてくる。
近すぎず遠すぎない距離感を分かっている人特有の雰囲気があった。
その日以降も、女子は定期的に私に話しかけてきた。
「きみ、猫は好きなほう?」
「飼ったことはないけど、可愛いと思うよ」
「んじゃうちの子自慢させて。見てよこの見事な液状化」
興奮気味に女子がスマートフォンを寄こしてくる。
黒ブチ猫が人間の膝で眠っている写真。なのだが、乗っているというよりは垂れ下がっているほうが近い。
背中から下が、そのまま膝から滴り落ちそうなほど曲がりくねっている。骨があるのか疑わしい一枚だ。
「猫って、もっとダンゴムシみたいに丸まっているものかと」
「うちはあんまりやんない。だいたいこんな感じで溶けてるよ」
「本当に液体と形容されるほどの柔軟性なんだな……」
「室内飼いだから野生を忘れたのかもね」
ほんの数言交わして、女子は次の授業の教室へと向かっていった。
彼女との会話は基本こんな感じである。本人が最初に言っていたように、立ち寄る感覚で話題を振っていく。
誰に対しても同じ振る舞いで、深く踏み込むことはしない。
時には女子のトップグループに難なく溶け込み、時には堂々と一人弁当をつつく光景もあった。
その気軽さゆえか、女子から出歩かずとも彼女に話を振る生徒は日に日に増えていった。
……私も例に漏れず、その一人となっていたが。
「お、はよう」
登校してきたタイミングで、私は彼女へと話しかけた。
「今日、お昼の予定とかは」
「あー、一緒に食べる?」
「う、うん」
遠回しな言い方を即座に察してくれるところで、改めて対人スキルの高さを実感する。
一対一で机を囲むことに心理的ハードルはあったものの、いつまでも学食に逃げるわけにもいかない。
教室で食べようと決めて、足早に自分の席へと戻った。
心臓が走りきった後みたいに速く、頬にも熱がこもっている。
人を誘うという行為は、こんなにも勇気がいるものだったのかと己の小心者っぷりを恥じる。
女子は私の理想で、目指すべき姿だった。
人を不快にさせるのが怖くて、最低限の会話でしか関われない自分とは器も格も違う。
用がなくても話したい時に話せる間柄になるというのが、信頼を築く上で必要な人間関係ではないのか。
私は無所属の身という共通点がありながら、人望は雲泥の差にある。
必要性がなければ話しかけない。普段は関わってこない。仲良くなる気がないも同然の振る舞いだ。
独りが嫌だからすり寄ってくる薄情な奴と、仲良くしようと思う聖人がいったいどこの世界にいるというのか。
「……ほ、本日はどうぞよろしくお願いします」
「そんな面接みたいにかしこまんでも。あたし怖くないよ」
緊張が抜けないまま、私は椅子と弁当を持って女子の席へと向かった。
筋肉はがちがちに強張っていて、簡単な挨拶すら浮かんでこない。
喉は食欲が引っ込み塞がりかけていたが、手を付けないのも不自然なので無心で胃に送り込む。
味わうどころではなく、単なる栄養補給の作業と化していた。
「今日は弁当なんだ? 学食ってテイクアウトもできるけど」
「は、初めて知った。いえその、毎日学食だと出費が痛いからで」
「まー、そうだよね。あとメニューのバリエーションそんなにないから飽きてくるよね」
「そ、そう。だから、飽きる前に弁当に切り替えたというわけで……」
まずは軽い雑談で場を温める、はずだったのに温まっている気がしない。拾って打ち返せているかも危うい。
一番話せていると思う人間が相手でもこうなのだから、己のコミュニケーション能力が二重の意味でお話にならないレベルにあることを突きつけられる。
どうしたら、あなたのようになれる?
そればかりを考えて背中は深刻な湿度になっていた。
女子は口下手な私でもついていけるよう、話題を選んでくれている。
このまま彼女の気遣いに甘えていたら、何も得られず終わるだろう。
少なくとも心象が良くなることがないのは目に見えていた。
探せ。作れ。
興味を引く、きっかけを。
「……髪」
「ん?」
「髪、芸能人みたいに綺麗だなって。憧れる」
「そう? ありがと」
汗が前髪から伝いそうなほど考えて、大きく外してないと思いたい話題を振った。
真面目に制服を着ている人は自分を含めそれなりにいる。
けれど、彼女は派手な化粧やアクセサリーで着飾るカースト上位のグループにいても違和感を覚えなかった。
仮に私が混じれば浮きまくるだろう。染めても着崩しても溶け込める気がしない。
観察して分かったことが、髪の艶であった。
彼女の頭部は浮き毛がなく、毛先まで潤いを保った髪束が艷やかに背中を流れ落ちている。
垢抜けた人は、例外なく髪の手入れが行き届いている。
色白は七難隠すとか言うが、美髪のほうがふさわしい気がするのだが。
「……2週間試したらつやつやになる謳い文句に釣られて買ったシャンプーがあるのだが、使い続けても変わらなくて。あなたみたいに綺麗な方が羨ましい」
「それって××ってシャンプー? よくCMでやっているやつの」
「そ、そう。もっと高いものを買ったほうがいいのかな」
「あれ、結構使ってる人多いけど。そんなに効果出ない? 普段どうやってる?」
「どうと聞かれても……普通に洗って乾かしているだけで」
そもそも、元から髪の毛が乾燥気味の自分では限度があった。
髪質だって肌質だって遺伝情報で決まっているのだから、市販の安物でなんとかなるという考え自体が甘かったのだ。
などと内心不貞腐れつつ、洗い方にコツでもあるのかと返答を待っていると。
「…………え?」
女子の表情と声から愛想が抜け落ちた。
……しくじった。一瞬にして冷えた空気に血の気が引いていく。
慌ててごめんと口にしても遅い。
言葉は刃物と同じで、一度出したら取り消せない。彼女の眉間には皺が刻まれたままだ。
箸を置いた女子が、詰め寄るように軽く身を乗り出した。
「ちょっと聞きますが」
「は、はい」
「さっきあたしの髪、芸能人みたいって褒めてくれたよね。ああいう、容姿が売りの人たちってなんで髪があんなに綺麗だと思う?」
「ええと……」
洗って乾かすが間違いであれば、他になにがあると言うのか。
一般人の何倍も洗髪料に金を掛けているくらいしか思い浮かばないので、そう答えた。もともと髪質に恵まれているという前提条件があってこそだろうが。
「あたしも最初はそう思ってたんだけどね。ぶっちゃけ、綺麗に見せているだけっすよアレ」
「えっ」
「撮影時間は仕事によってバラバラだろうから、当然生活は不規則。役に合わせて髪染めたり巻いたりストパの繰り返しだから……下手すると一般人より傷んでるかもね」
絶句する私に、女子は仕組みを詳しく教えてくれた。
髪が艶めいているように見えるのは、キューティクルという鱗のように重なった膜の向きが一定になって光が反射しているから。
よって、向きが整っていれば艶を出すことは可能である。
「なんだけどこいつ、ちょっとの刺激ですぐ剥がれるほどもろいんだよね。その主な原因がパーマやカラーや縮毛矯正、シャンプーやタオルの摩擦、ドライヤーやアイロンによる熱、紫外線」
「打つ手なしでは……?」
「人体って基本、細胞分裂を重ねてるから傷が塞がるわけじゃん。でも髪の細胞ってもとから生きてないから回復できないんだわ。せいぜい生え変わる程度」
だから、髪を頻繁に弄らざるを得ない芸能人は必然的に多くのダメージを与える結果になってしまっているわけか。
そのためトリートメントで表面をコーティングするか、縮毛補正で無理やり固めるしかないということ。
「ダメージを抑えるためのヘアケアはやってるけど、やんないよりはマシって程度。あたしもそれっぽく見せてるだけってことよ」
「な、なるほど……勉強になります」
己がいかに無知だったかを痛感し、羞恥心がどっと胸の中で膨れ上がる。
情けなさから顔を伏せ、膝の上で汗ばんだ拳を握った。
「わり、まだ食べてる途中だったよね。つい話し込んじゃった」
バツが悪そうに女子は咳払いのような笑い声を飛ばして、ぱっと表情を切り替えた。
いつもの、人当たりが良さそうな顔つきへと。
穏やかな空気に戻ったはずなのに、今はどことなく壁を感じてしまう。
女子が何を考えているかは分かりようもない。
非常識な私に内心呆れ返ってるかもしれないし、実際取り繕う余裕もないほど動揺させてしまった。
食べ進めながら、やりとりを振り返る。
先ほどは機嫌を損ねてしまったかもしれないことだけに意識が向いていたが、彼女は一切怒ることも馬鹿にすることもしなかったではないか。
話にならんと受け流すこともできたであろうに、懇切丁寧に向き合ってくれた。
会話ではなく、対話を試みようとしていた。
ならば、今応えなくてどうする。
「……あの、」
逃げるな、踏み込め。歩み寄れ。
言葉が取り消せないのであれば、行動で取り返していくしかない。
喉に力を入れて、その一言を口にする。
「よかったら……もう少し、教えてほしい」
女子が顔を上げた。
何が、と聞かれて『お洒落』と答える。
「そりゃ、どのあたりまで? ヘアケア? スキンケア? トータルコーディネート?」
「すみません初心者すぎて右も左も分からず」
「えっと……化粧はファンデ乗っけてリップ引いたことある……って段階とか?」
「いやそれすら……大人になってからするものでは、とずっと思ってたもので」
「…………」
彼女が再び言葉を失う。
信じられないものを目の前にしたかのようにこちらを凝視し、開いたままの唇が震えていた。文字通りの開いた口が塞がらない状態である。
それくらいの反応が来ることは覚悟していた。
もう、恥を忍んで学ぶしかないのだ。
「ナチュラル風メイクなんて言葉があるように、一見地味に見える女だって顔には何色も塗りたくってお絵描きして日夜ダメージケアに努めてるんだってば。あたしも含めて」
「……はい」
「あと、SNSで映えてる奴らの9割は加工アプリでばちばちいじってんだから真に受けない。芸能人ですら光当てまくったりして毛穴隠してるんだからさ」
「化粧技術のなせる技だとばかり思っていた……」
それからしばらくの間、私は女子から教えを請うた。
お洒落全般の知識が0の私でも飲み込めるように、彼女は十分に噛み砕いた若者の美容事情を矢継ぎ早に説明する。
ただ感情任せに正論をぶつけるのではなく、責め立てないように言葉を選んで、こちらの理解が及んでいるかを探りつつ話を進めていく。
「で、初心者にわかる範囲で教えられそうなとこは以上だけど……」
教えてほしい、という要望通りの時間が終わり、女子が意味深にこちらに目配せをする。
教えるだけでいいのか、と促す目線だ。
情報を流し込まれ続けて多少は処理できるようになった頭で整理すると、お洒落とは金も手間もかかるものである。
髪の手入れだけでも何工程もある他、洗髪剤以外に揃えるものがいくつもある。
さらに化粧品や衣料品にまで気を配るとなると、いったいどれだけの出費が必要なのだろうか。
凡人が努力したって同じく努力している天才秀才には届かないように。
不器量が多少マシになる程度であれば、無駄な努力ではないかと二の足を踏みかけてしまう。
それを女子も察しているからこそ、この先は私のやる気次第だと区切ったのかもしれない。
けれど。
「……興味があるから、やってみたい」
「ほうほう」
「だから、今度の休みに……化粧をお願いしてもいいかな」
頭を下げて、私は休日に女子と会う約束を取り付けた。
平凡に埋没することだってそれなりの努力が必要なのだ。
不潔だと思われない程度に身だしなみを整えることも、孤立しないように人間関係を築くことも。
目の前の、決して一軍女子のように派手ではない彼女は地道な努力を重ねているから馴染めていて、私はそれすら不十分だから今まで浮いてしまっていた。
それだけの話だったのだ。
「異性から注目を浴びたいとかではないんだ。相手を作る気もない。ただ、普通になりたい。悪い意味で目立たなくなれば、それでいい」
ずっと、なりたかった心からの願いがこぼれ落ちる。
もう悪目立ちは嫌だ。みんなと違う目で見られるのが嫌だ。
みんなの同じに近づきたい。どうすればいいか分かっておきながら、今までなにもしてこなかった自分にも嫌気が差す。
だから、まずは。
あなたと、友達になりたい。
すべてを吐き出すと、目の前がちかちかと眩んだ。
たかがこれだけのことで精神が削られている社交性の低さに苦笑いが浮かぶ。
激しい運動を終えたように息を整える私の前で、女子が軽く自身の胸元を叩いた。
「楽しみだね。君、描き甲斐がありそうだし」
「こ、こちらこそ。予定を空けてくれてありがとう」
「期待してて。化粧がなんで化けるって書くのか分かるはずだから」
スマートフォンを取り出した彼女と、LINEの交換をする。
家族にも部活仲間にも属さない、ここに来て初めての友達が登録された。
今度こそ、一時の仲だけで終わりたくない。
仲が深まってないうちからこんなに歩み寄ってきてくれた人と巡り会えたことは、とてつもない幸運だと思う。
この方と並ぶのは相当な努力が必要だろうけど、それは今まで疎遠になってしまった元友人たちだって同じことだった。
家族でも友人でも恋人でも、関係を結んだ時点で仲が永続的に続くわけではない。伝えなければ、伝わらなければ当然情は冷めていく。
せっかく繋いでくれた指だって、ほどけていってしまう。
誰かが握っていてくれるだろうと甘えていないで、自分から繋ぎ止めていくんだ。
よろしくお願いしますと、スタンプと一緒にメッセージをLINE画面に打ち込む。
返事はすぐ、独創的すぎて使い所が不明なスタンプと一緒に返ってきた。
「……っ」
「お、意外とこういうのツボる人なんだ君」
耐えきれず吹き出した私へと、女子も釣られて笑声を漏らした。
今までの取り繕った笑みではなく、歯を見せた気持ちのいい笑い方だった。
冷え切っていた廊下側の席に座っていたのに、今は汗ばむ陽気を錯覚できるほどに熱がこもっている。
けれど決して不快な暑さではなく、高揚にも似た火照りが末端まで広がっていた。全身の血が沸き立っているかのように。
空いた窓から運ばれてきた風が、私たちの間を通り過ぎていく。
熱すぎず冷たすぎない、晴れやかな心地が肌を撫でた。
それが最初の『好き』をみつけた季節の始まりとなった。
高校時代編や馴れ初め編あたりから一部の台詞を抜粋しております