【A視点】あわてないで
・SideA
旅館に戻ったあとは、夕飯まで二人でゆっくり過ごすことにした。
テレビを眺めたり、本を読んだり、軽くストレッチをしたり。
やっていることは半同棲生活のルーチンワークとほとんど変わらない。
違いは、一線を越える営みを控えているということ。
経験者からすれば大げさとも取れるだろうが、する側からしてもされる側からしても緊張はしないわけがない。
海辺から旅館に近づくにつれてどんどん会話が途切れていって、今はお互い目も合わせられなくなるほどには意識するようになってしまった。
「…………」
静謐な室内には、爪を切る音だけがやけに大きく耳に届く。
壁時計の秒針と重なりあって、ぱちぱちと。
器具やら保護具やらを揃えておきながら、肝心の爪の手入れを怠っていたのは迂闊であった。
洒落ではないがツメの甘さに落ちかけた気分を抑えて、今はやるべきことに集中する。
どれくらいの長さがいいのだろう。
調べたところでは、自身の肌を引っ掻いても尖る感触がない程度とあったが。
ある程度切って、やすりをかけて角を削っていく。
指からほとんどはみ出していない爪へと、ジェルネイルを施していく。
……切りすぎた。白爪の部分がほとんど見えない。
初めてであれば、やり過ぎくらいで丁度いいのかもしれないが。
腕で試してみたところ、爪でひっかかる感触はほとんど覚えなくなった。
さらに保護具や潤滑油でカバーすることで、少しでも苦痛を減らす手助けになればいいのだが。
「…………」
テーブルを挟んで向かいへ座る彼女から、視線がそそがれているのを感じる。
顔を向けると逸らされてしまうため、声だけをかけた。
「こんな感じでどうだろうか」
丁寧に整えた手の甲を見せるように、片腕をテーブルへと投げ出す。
「おぉう」
素っ頓狂な声をあげて、そこで彼女の反応が止まる。
予防接種待ちの患者みたいに腕を置いたままの私へとどうすればいいのか、困惑している様子が伝わってきた。
「し、失礼いたしまする」
やがておそるおそる、指へと触れる感触を覚え始める。
指の一本をつまんで、親指と挟んだり。数度指圧を繰り返して、それを一本一本へと施していったり。
さらには指全体を堪能するように、頬へ当ててさすり始めた。
爪の長さの感想を聞きたかったのだが、なぜか指がいじくり回されている。
丹念に。それはもう、磨くように。
きめ細やかな肌を持つしなやかな手に撫でられるのは、こちらとしても悪い気はしない。
何がそこまで彼女を取り憑かせているのであろうか。
「ごっ、ごめん」
ゆっくりと首を回転ドアのごとく向けると、我に返ったように彼女が動きを止めた。
それでいてなお、手は離れる気配がない。
「爪、だったよね。うん。いいと思う、これなら」
「よかった」
遠回しに触れられてもいいと気に入られた旨を伝えられたことに、またも意識して視線をお互いそらしてしまう。
明後日の方向を見つめながらそんなに気に入ったのか、と聞いてみると。
「なんつーんだろね。この指がかーって。これからあたしを好きにするんだなーって思うと、ね。どんな感触か確かめたくなっちゃったと言いますか」
……こう直接口にされると、ますます触れていることがいやらしさに変換されてしまう。
それは彼女も同じだったのか、その後に絞り出された声は言語の形をとどめておらず。あわわわわと螺子が外れた調子がかすれ出るのみとなって。
焦れったい空気が増長の一途をたどる中、時間は待ってはくれない。
せっかくの豪華な夕食もほとんど無言で機械的に咀嚼を繰り返し、味わうどころか単なる摂取に終わってしまった。
こんなむず痒い思いを、初夜を迎えた恋人たちは経験してきたのだろうか。
「お風呂いただきましたー」
先に入浴を済ませた彼女が大浴場から戻ってきた。
さすがに旅館の温泉は湯浴み着での入浴は許可されていないため、別々に済ませることにしたのだ。
正直互いに意識しすぎて、のんびりと一緒に入れる状態でもなかったため。
「すぐ戻るよ」
ほーいと彼女が頷いて、ドライヤーを取り出した。
目安としては20分から30分か。入浴には十分な時間といえる。
はやる気持ちを押し留めて、私は足早に部屋を後にした。
念入りに髪と身体を洗って、上がる際に寝間着ではなく旅館浴衣をまとう。
冬場なので湯冷めしないため、羽織も忘れずに。
こういった格好をする機会なんて一生ないと思っていたが、雰囲気重視で行為に備えて着ることになるとは。いつ機会が訪れるか分からないものだと思う。
「あがったよ」
「おかえりー」
すでに敷いてある布団へと正座して、目をつむり、瞑想でもするように彼女がイヤホンをつけていた。
心身を落ち着かせるために音楽でも聴いていたのであろうか。
そして、格好は私と同じく旅館浴衣。
亜麻色の、風呂上がりだから癖のゆるい長い髪がしっとり背中を流れ落ちて、いつもとは違った印象を与える。
最低限の衣類をまとい、髪も下ろして梳かしたのみといった姿が。
夜の営みに備えて待っているのだと、生々しい色気を覚えてしまう。
「のぼせてたりしない?」
「大丈夫」
そわそわと手をすり合わせながら、少しかしこまった声で彼女が話しかけてくる。
無理もないのだが、固い。緊張が仕草から現れている。
こういうときはどうすればいいだろう。
がちがちに力んでいると痛みを誘発してしまうので、なんとか緊張をほぐしたいものだが……
最初の夜に緊張して頭が真っ白だった私をリラックスさせてくれたように、今度はこちらから返してあげたい。
いきなり抱擁するというのも今日は逆効果になりそうだから、何かそれ以外でないものかとしばし考えを巡らせる。
ああ。これなら、どうだろうか。
「もし、よかったら」
私は一つの提案を申し出た。
「マッサージ、どうですか」