【B視点】出発
「きたぞー」
声に反応して、茶トラはくぁぁと口を開ける。
サイレントニャーってやつだ。
ちなみにお嫁さんは警戒心が強くて、ほとんど寄り付かない。
目を凝らすと、階段の上からじーっと見つめているときがあるけど。
背中を撫でると骨が当たるものの、だいぶ肉はついてきたように見える。
ノミもすっかり駆除してもらって、保護当時は毛をかきわけると黒いつぶつぶがのぞいていたのに、今はすっかりさらさらだ。
お腹に手を当てると撫でなさいと言わんばかりに転がって、前足をバンザイポーズでぐぐっと伸ばす。
すぐさま子供が白いお腹に顔をうずめた。
回復しても逃げなくなったね、茶トラも。
呑気にじゃれあう様からは、とても腎臓病末期の子には見えない。
「…………」
あたしはスマホを取り出して、シャッターを構えた。
フォルダはもう、1ページ茶トラのアルバムで埋まっている。
今日は動画を撮っておこう。元気に見えるうちの一瞬を遺しておくために。
少し濁り始めた茶トラの片目に切なさを覚えつつ、あたしは数分に渡るホームビデオみたいなものを撮った。
また、帰ってきたら遊びに行くからね。
そして、旅行当日。
集合場所を決めていなかったことを、あいつの家に向かう途中で思い出した。
「よ」
「ども」
あたしたちは中途半端な場所ではち合わせた。
お互いの家に行こうとしていたので。
「呼びに行こうとしてた」
「同じく」
LINEも電話も忘れて直接行こうとしたのが、まだ正月の同棲期間を引きずっているみたいで自然と笑いがこみ上げてくる。
「忘れ物ない?」
「貴重品、着替え、飲食物、救急セット、よし」
指差し確認は大事なので、その場でお互いチェックし合う。
「おし、行くべ」
と、その前に。
あたしは意味深に前髪をかき上げて、ちょいちょいと指差す。
出発前の大事なお守りだ。
「…………」
そうは言っても、あれは片方だけにする挨拶であって。
今日は一緒に出かけるわけだから。
少し考えて、あいつが顔を寄せる。
互いのおでこが軽くぶつかる。
柔らかいものが、一瞬だけ唇へと触れた。
周囲に誰もいなかったとはいえ、ここ外だったわ。
当たり前のように求めたあたしも、応じたあいつも大概だ。
「これでどうですか」
「花マルあげます」
ちょっと照れ笑いを浮かべて、お互いおずおずと手を突き出す。
「一緒に楽しもう」
「いぇす」
コートのポケットにお互いの手を突っ込んで、そっと中でつないだ。
さあ、行こう。
貯めたお金で、今日から地元を離れる。二人きりで。
小さな旅の始まりだ。
あたしたちの頭上で揺れる梅の木からは、真っ赤な花がほころんで芳しい香りを放っていた。
まだ遠き春の予告を感じさせる、一足先の開花だった。