【A視点】ワンオペに正月はない
「あの、お子さんを保護いたしましたので連れてまいりました」
彼女の呼びかけにも女性は聞いているのか聞いていないのか、うつろな目を向けていたが。
「あっ……」
彼女から隠れるようにして出てきた子供を目にした瞬間に、女性は肩を震わせ始めた。
体罰を振るわないか警戒していると、嗚咽が漏れる声が聞こえた。
女性からであった。
「ごめんなさい。ママもう何も言わない。好きにして。だから騒がないで。もう少しだけ寝かせて。悪いけどあっちでそのお姉ちゃんたちと遊んでて」
女性は抑揚のない声で『おとなしく遊んでて』と、何度も何度も涙声を混じらせ子供に懇願する。
「まま、」
子供はひどく動揺していた。当たり前である。
いくら小さい子と言えど、親が元気のないときは教えてもらわずとも読み取ってしまうのだから。
「ごめんね、まーちゃん。いっぱい怒鳴っちゃって。怖かったよね。でもお金がないのはほんとで、猫は無理なの。ごめん。あともうちょっと、もう少しだけ待ってね。そしたらいっぱい遊んであげるから。ね。ママ、ちょっと疲れちゃったんだ。ほんとうに、ごめんなさ、」
言葉の途中で、女性が大きくバランスを崩した。
寝落ちに近い崩れ方であった。
玄関に片足を踏み込んでいたのが幸いした。すぐに抱える動作に入って、女性にしては大柄な体を受け止める。
「…………」
どうしよう、と彼女と見つめ合う。
猫の容態に関しては、ボランティアの方々とアドレスを交換しているので問題ない。いずれは連絡が来るはずだ。
問題は、こちらの親子。
見た感じ子供は放置気味で、母親は明らかに育児ノイローゼの兆候がある。
本来であれば児相か支援センター案件であり、私達が介入する余地はない。
だけど。
こちらを不安そうに見つめる子供の目からは、行かないでと揺れる感情が読み取れてしまう。
「あっちで遊ぼっか。いい?」
私に向かって頷くと、彼女は子供に連れられてひとつの部屋へと向かっていった。
私はぴくりとも動かない母親を抱えて、寝室を探しに回る。
つくづく、鍛えておいてよかったと思った。
「…………」
うすうす気づいていたが、洋間はさらに悲惨であった。
ほとんど手がついていない食事の後、ところどころに飛び散った食べかす。
床に散らかるミニカー、ぐちゃぐちゃに落書きされたクレヨンの痕。
片付ける気力も無いほど、追い詰められているのが見て取れた。
私達の前では普通の子供といった印象であったが、母親の前ではやんちゃな子なのだろうか。
他人の立場といえど、何も見なかったことにはできなかった。
無断ではあったが一通り掃いて、拭く。
敷いた布団に女性を寝かせて、書き置きを残して、私は彼女がいる部屋へと向かった。
子供が寝静まったタイミングで、そろそろお暇しようかと私達は母親の休む洋間へと戻った。
「あ……」
ちょうど母親は起きた頃だったのか、布団から身を起こしていた。今度ははっきりとこちらを見ている。
綺麗に片付いた室内を見渡して、いきなり床に届く勢いで頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。人様にお片付けさせて、お見苦しいところを見せてしまって。子供を保護してくれたお礼も忘れて」
「いいえ、私こそ勝手に人様の家をいじくり回してしまい申し訳ございません。お子さんは今、向こうのお部屋でお休みになりましたので。ご安心ください」
子供が寝入ったことを伝えると、母親の両目から涙がぼろぼろとこぼれ出した。
彼女が近づき、お母さんももう少し休まれますか? それまで見ておりますのでと申し出る。
「いえ、さすがにこれ以上お世話になるわけには……」
女性はそう言うが、明らかにはいそうですかと退散できる精神状態ではない。
やはり、行政に頼るのが第一ではないのか。そう伝えると。
「……児相も、保健センターも。まるで頼りになりませんでした。何度も何度も伝えたんです。このままでは子供に手を上げてしまうと。なのに、”子供に何かしてしまったらお伝え下さい”だの。話していても上の空で。今すぐ話どころか泣き止ませてほしいのに。結局他人事なんだって」
知りたくもなかった現実であった。
すべての施設がそうとは限らないのであろうが、少なくともそういった駆け込みの体を成していない場所もあると言うこと。
であれば、親はどこに助けを求めろというのか。
この女性の深い絶望が伝わってくる。
それまでは幼稚園に預けていたから少し持ち直してきたものの、冬休みに入ったことでぶり返してきてしまったのだという。
「わた、私も結局。こうなるまで育児を甘く見ていたのです。妻からもう限界だと押し付けられたときはなんて責任感がないのだと。怒りの気持ちを抱いておりました。ですが。当事者になってやっと分かりました。なのに満足に育てられないなんて。親失格です」
「……妻?」
どういうことであろう。
育児の話の途中で引っかかる部分があり、私と彼女は同時に首をかしげる。
「あの子は、血のつながった私達の子供なのです」