5 マトンカレーの部屋のチェス美人
茜は、稲葉から一通り、話を聞くと、安子に連れられて洋館の部屋を見てまわることになった。
茜が最初に案内されたのは、一階の奥にある「バターチキンカレーの部屋」と呼ばれている奇妙な部屋だった。ドアを開いて、部屋に入ると正面に、鶏の像が飾られていて、デスクとベッドが並んで置かれている。なんでもここは、ご主人の風間さんの部屋だったらしい。
「ここは主人の部屋でした」
という安子の声には、大した感情がこもっていないように感じられる。しかしそれは不謹慎な推測なので、茜は心の中で自ら打ち消した。
「バターチキンカレーの部屋なんて、ずいぶん変わったネーミングですね」
と茜は正直な感想を述べた。
「そうでしょう。主人は、この洋館のあらゆる部屋にカレーの名前をつけていたんです。ほら、ここは鶏の像も飾ってあるし、壁紙はオレンジがかった茶色でしょう。いかにもバターチキンカレーっていう内装にしてあるんです」
茜は、へえと思った。そう言われてみると、たしかにバターチキンカレーをイメージしているらしきこってりとした内装に仕上がっていた。
(変わった趣味してるなぁ)
と茜は思った。
その後、茜は一階の洗面所と浴室を見てまわった。そこに白いカップが置かれていて、現在も使用されているらしき、歯ブラシが二つ並んでいることに茜は違和感を抱いた。一つは女性もので、もう一つは男性ものだった。真新しい髭の詰まった髭剃りも置かれていた。茜は、安子の目を盗んで、それを調べる。
(これはもしかして……)
茜にはひとつの考えを浮かんだ。
その後、茜は二階に案内されることになった。今度は、羊の像が飾られている部屋で、安子がノックをして入ると、そこに三十歳ぐらいの清楚な印象の女性がソファーでくつろいでいた。ここは「マトンカレーの部屋」というらしかった。
「優子。探偵さんよ。レシピを見つけるために来てもらったの」
「ああ、そうなの」
優子と呼ばれたその女性は、静かに頷くと立ち上がった。
「さあ、柚月さん。部屋の隅々まで調べてくださいな」
と茜は、安子に言われる。このタイミングで、一階から稲葉の安子を呼ぶ声がした。安子は慌てた様子で部屋を出て行ってしまった。茜と優子が二人きりになる。
「ずいぶんお若い探偵さんね」
優子はくすりと笑って言った。
「あ、はい、まだ大学生をしています」
と茜は不器用な調子で答える。
「母からあなたのことは聞いていますよ。なんでも有名な探偵さんだそうで。でも、あの暗号じゃ、なにがなんだか分からないでしょう」
「ええ。でも、この家のどこかにレシピが隠されているということですから、なにか少しでも手がかりがあればと思いまして……」
「それは確かにその通りだと思うわ」
優子は曖昧に笑って、腕組みをする。
「ちょっとお聞きしたいことがあるのですが……」
「なんでしょう」
優子がちらりと茜を見る。
「ご主人が亡くなった今、この洋館に住んでいるのはあなたとお母様だけですか?」
「わたしは住んでいないわ。昨晩、久しぶりに戻ってきたの」
「それじゃ、お母様だけなのですか?」
「稲葉さんが一緒に住んでいるのよ」
茜は、怪しげな空気を感じた。
「母と稲葉さんはもともと不倫関係にあったのよ。そして、そんな中、父が旅行中に渓谷に転落した。おかしいと思わない? 今、母と稲葉さんは梵天堂カレーの味を再現しようと必死になっている。レシピを見つけるために、父の残した暗号を解こうと躍起になっている。父がつくった梵天堂を二人で営業しようとしている」
「まさか、お母様と稲葉さんが……」
「わたしは、あの二人が父を殺したのだと睨んでいます。母が大学生のあなたにこんな依頼をしたのも、おそらく、他の探偵には頼めなかったからよ。こんなことをあなたの前に言うのもなんだけど、大学生のあなたなら万が一の時は、事実を揉み消せると思っているのだと思いますよ」
探偵の茜にとっても、恐ろしい話である。
「稲葉さんが現在、泊まっている部屋を探れば、なにか手がかりが見つかるかもしれない。三階の「サグカレーの部屋」です」
「大体、事情はお察ししました」
「お願いしますね」
そう言うと優子は、ちらりと机の上を見た。そこには白と黒とで四角く塗り分けられたチェスのボードが置かれていた。それはちょうど8×8の盤面だった。
「わたしと父は、よくチェスで遊んだものだわ」
「チェス、ですか?」
「ええ、チェス……」
優子が一体何を言おうとしているのか、茜にはよく分からない。
「それじゃ、わたしからお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「はい、なんでしょう」
「あの暗号をすっかり解き明かして、梵天堂カレーのレシピを母と稲葉に渡すことはあなたの自由よ。それはあなたの仕事だし、母はあなたの依頼人なのだから。でも、そうしたら母と稲葉の思惑通りにシナリオが進むということなのね。でも、あなたに良心があって、もし父の本当に願っていたことを叶えたいと思うのなら、レシピを渡さずに、母と稲葉の犯行の証拠を警察に渡してほしいの」
「やってみます……」
「あなたは正直ないい子ね。じゃあ、これをあなたに託すわ。父があの暗号を作ったその日にわたしにこっそり渡してくれたものなんだけど……」
そう言って、優子は、茜にある紙を手渡した。そこにはこう記されていた。
c8.d1.c6.d6.g5.e8.d8.c5.
e3.f3.d5.f1.b3.a1.a6.a8.
e2.g4.h7.a5.h2.d3.h1.c1.
b1.e5.f8.b5.h5.g1.d2.e1.
f2.c2.f5.a4.c3.d4.h8.c4.
g8.a1.h4.b8.a3.b4.a7.e4.
g3.b7.c7.d7.e7.f7.g7.b6.
g2.h3.e6.f6.g6.h6.b2.f4.