3 茜は女子大生
茜が依頼を受けたのは二月はじめのことで、通っている大学で英語の教員を務めている風間安子という女性に、直接お願いをされたのだった。
茜は、安子が直接、自分にそんな相談をしてきたことに若干の違和感を感じた。というのも、安子と茜はそんなに親しい間柄ではなかったのだから。講義の間、英語が苦手な茜は、気配を消していた。まるでそこに何も存在していないかのような真空の静寂を生み出していた。
安子は、四十代の英語の教師だった。講義が終わったあと、茜が荷物をまとめて教室から出ていこうとすると背後から安子が忍び寄り、話しかけてきた。
「柚月さん」
茜はきょとんとした顔で、安子を見返した。無関係な他者、意識されたこともないはずの人間に、こうして話しかけられると、茜は奇妙な心地になる。
「ちょっと相談があるんだけど、いいかしら」
茜は頷いた。そして安子と大学の食堂へと移動した。そこは非常に騒がしい空間だったが、誰もが自分たちの会話に夢中になり、他人の話など聞いていない。茜は、食堂の端の席に座ると、ここがかえって秘密の相談をするには好都合なことに気がついた。
「柚月さん。お願いがあるんだけど、これから話すことは大学生のあなたではなく、探偵のあなたに依頼することだから、決して他言しないでほしいの」
「はい」
茜は、奇妙な心地を味わいながら、感情のこもらない返事をした。
「梵天堂カレーって知ってる?」
「どこかで聞いたことがあります。たしかカレーライスの有名店ですよね」
「そうなの。わたしの主人の店なんだけどね……」
そして安子は、自分の夫が、梵天堂カレーの店主であり、先日、事故で急死したことを丁寧に説明した。そしてカレーライスの調理法が、一番弟子の稲葉にも教わっておらず、店を存続することができずに困っていることを伝えてきたのである。
そこで安子は、夫が残した暗号を解いて、レシピを見つけてほしいこと、つまり茜が祐介に説明したのと同じことをこの場で告げたのだった。
「レシピの隠し場所を暗号で伝えるなんて、ご主人、とてもユーモアのある方だったんですね」
と茜は素直な感想を述べた。
「そうですね。主人はたしかに風変わりな趣味人でした。これから柚月さんにも来てもらおうと思っていますけど、我が家は、大正時代に建設された建物を改築した洋館で、そこにはインドや東洋趣味のものを飾ってあるんです。それで、そこはカレーライスをモチーフにした部屋がいくつもあるの。それでインドカレー屋敷なんて、地元じゃ呼ばれているんですよ」
相当、変わったご主人だな、と茜は思った。しかしカレーライスをモチーフにした部屋というのは、まったく想像ができなかった。
各部屋の壁紙が、ルーとご飯を連想させる茶色と白で構成されているのだろうか。そして電球は福神漬けの赤。そんな家を想像したところで、茜は苦笑いを浮かべた。
「主人は、もし自分になにかあったらこの暗号を解けば、レシピを見つけられるからね、なんて冗談みたいなことを言っておりました。笑いましたわ。その時は、まさかこんなことになるなんて思っていませんでしたから……」
茜にも、安子の言うことは分かる。
「それで、その暗号って、どんなものなんですか?」
「これなんだけど……」
と安子は、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
神様のみぞ知る
梵天堂の魔のカレーレシピ
今 世に名前 とどめたり
サリーが月夜よりも綺麗
あのカレー 窯 海潜り 真理
「なんだろう、これ……」
茜は、暗号を見るなり、首を傾げた。暗号なのだから意味が分からないのは当然なのであるが、無意味な記号の羅列とは異なり、中途半端に奇妙な内容が読み取れるため、余計に頭が混乱する。
「主人の話では、レシピは、我が家のどこかに隠されているらしいのですが、うちにはこの暗号に書かれているようなサリーなんてありませんし、窯なんてものもありません。そして海からも離れているので、まったく文章の意味が分からないんです」
「そうなんですね」
茜は考える。
「じゃあ、一度ご自宅にうかがってもよろしいでしょうか」
「もちろん。よろしくお願いします。柚月さんは名探偵って評判ですからね。期待していますよ」
と言って、安子は笑った。




