これが理由ですか?part①
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────どれぐらい経っただろうか?
アリエラが満足するまで体を動かし終える頃にはだいぶ時間が経過していたようにも思うし、案外そうでもなかった気もする。
存分に体を動かせたお陰で、アリエラも久しぶりに気持ちよく汗を流すことが出来た。
それでもうっすら額などに汗をかいているくらいで、大して息も上がっていないので、体は言う程は鈍っていなかったようだ。一安心、一安心。
(アルカスもお腹を空かせてるわよね?それなりに体も動かせたし、今日はこの辺で切り上げてそろそろ戻ろう)
アリエラはアルカスの待つ泉の方へ戻ることにし、その前に…と無造作に辺りに散らばってしまっている戦利品を回収せねばと、持ってきていた麻袋にぽいっと雑に投げ入れていく。
かなり量があったので、全てをしまい終えると麻袋はずっしりとした重さに変わっていた。
それを手に来た道を行きと同じく一時間程かけて戻っていくと、私が帰ってきたのに気が付いたアルカスが立ち上がりアリエラを出迎えてくれた。
「アルカスただいまぁ〜!ごめんなさい、お腹すいちゃったでしょ?ご飯にしようか?」
アルカスの体に括りつけていた荷を漁り、中から紙包みを数個取り出した。
ひとつはアルカスの為に持ってきた野菜が包まれたもの。
そして残り二つは自分用の食事だ。
先にここまでアリエラを運んでくれ、更に用事が終わるまで待たせてしまったのでアルカスに包みから出した野菜を手ずから与え、包みの中の野菜が全てなくなったのを確認すると、アリエラも芝生に腰を下ろし、自分の昼食が入った包みを開く。
アリエラ用の包の内のひとつには、蒸した鶏肉と新鮮な野菜がたっぷり挟まれたサンドイッチが二つ入っていた。
そしてもうひとつには、可愛らしい見た目のクッキーが詰められている。
これは朝寝坊して変な時間に朝食を作らせた上に、アリエラが体を動かしに馬で出ると話したら急いでマッシュが用意してくれたものだ。
アリエラとしては流石に朝食だけでも迷惑をかけてしまったので、昼食はどこかで買うか食べてこようかと思っていたのだが、心優しいマッシュはわざわざあの短時間でここまでの物を用意し、出掛けにアリエラへと手渡してくれた。
(うちのシェフが優秀すぎる……)
美味しそうすぎて思わず涎が出てしまいそうになった…危ない。
アルカスしかいないとは言え、これでも令嬢であり女の子だしね。
口から涎を垂らすなんて事は何が何でもできない。
アリエラはギリギリで涎を口内で食い止めると、ここにはいないマッシュに改めて手を合わせて感謝し、いただきますと口いっぱいにサンドイッチを頬張った。
(あ〜……幸せ)
最後のおやつまで楽しんだアリエラは、食後にアルカスとゆっくりと芝生に寝そべり、そのまま目を瞑るだけ…なんて誰に伝えるわけでもないが呟いたくせに、案の定というか…そのままうたた寝までしてしまう。
本来なら、こんな場所の堺で寝るなど頭がおかしいと言われるのだが、今はそんなこと言う人など辺りにはいない。
ストッパー役がいない状態のアリエラは、睡眠欲という抗えない欲望に忠実に従い、それはもうぐっすりと夢の世界を満喫した。
夢の中でも現実でもだらしのない顔でふふふと笑みをこぼすアリエラ。
その姿は、見る人によっては恐怖であっただろう。
人がいなくて幸いだった。
そんな夢がぼんやりとし始めてくると、それは現実での起床を意味していた。
目を覚ましたアリエラはぼーっと目だけを動かして辺りを見回す。
「あれ……うっかりうたた寝しちゃってた?」
ふぁあと誰も見ていないのをいい事に、アリエラは大きな欠伸をしながらアルカスに寄りかかっていた体を起こす。
毛並みもいい私の愛馬は寝心地も最高でした。
アルカスは本当に出来た子で、アリエラがうたた寝している間もどうやら起きていてくれたようだった。
多分危険がないように警戒していてくれたのだろう。
素敵頼もしい"番犬"ならぬ"番馬"だ。
「ごめんねアルカス。私が寝ちゃってたから休めなかったでしょ?」
そのことに気づきしょぼんと肩を落とすと、アルカスは気にしていなさげにこてんと首を傾げていた。平気だよ?とでも言いたげな顔だ。
「もぅっ!アルカスいい子!!」
そんなアルカスの首に手を回し抱き締める。
あ〜、可愛いなぁもうっ!
アルカスと熱い抱擁を交わしたあと(一方的にだが)、アリエラはそろそろ屋敷に戻ろうかとアルカスに跨り森の出口を目指した。
来た道を戻っていると、森を抜ける少し手前で突然ぽとりとアリエラの頭に何かが落ちてきたので、片手を使い頭の辺りを探って落ちてきた物体を手で掴む。
ふわりとしていたそれは、大ぶりの淡い紫の色をした花だった。
この辺りにはそんな花をつける植物はないし、ましてや上から落ちてくる事はまずない。
「……ふふっ、今度はそっちにも行きますね〜」
空を見上げるようにして呟いたアリエラは、次の約束をひとつ残してウォルドの森を出ていった。
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生き生きとした緑が鬱蒼と辺りを包む森の奥で、一番大きな大樹の根元にある大きな窪みに一人の男がいた。
神秘的な美貌と中性的な顔立ちを持つその男は、その中でだらりと寛ぎながら目を閉じている。
眠っているのか、目を閉じているだけなのか。
どちらかは分からないが、ただ静かにその中にいた。
そんな彼の元へ、ふらりと舞い戻ってきた者がひょっこりとその窪みを覗き込む。
「アリエラに届けてきましたよ〜♪︎」
上機嫌に戻って来た幼子に一度はその目を開けたが、そうかと素っ気なく返してまた目を閉じてしまった男。
その素っ気ない返事の割には、口元が言葉とは裏腹にふわりと優しい笑みを浮んでいる事から、満足したのだろうと声を掛けてきた幼子もまた笑った。
これを伝えたらもっとこの人は喜ぶのだろうと、それと!と声を弾ませながら男に彼女の伝言を教えてあげれば。
「今度はこっちにも来てくれるみたいです」
「あぁ、聞こえていた。大きな声だったからな」
「なんだぁ〜……聞こえてたのか」
せっかくの朗報だと意気揚々に告げた事が既に把握されていたことに、幼子はつまらないと口先を尖らせる。
明らかに拗ねた表情になっていた。
男は『ここをどこだと思っている?』と言いながら、拗ねた幼子をあやすように頭を数回優しく叩いてやる。
彼にとってこの森は庭のようなものだ。
森の中のことは自分と目となり、手足になってくれる者達のお陰もあって殆どを把握はしている。
元々彼女がこの森に来た時点でそちらへ向けて意識を巡らせていたから、この距離でも難なくアリエラの声は男の耳に届いた。
久しぶりにやって来たというのにこちらではなく、奥の森に出向いたようだったから、大丈夫だろうと思ってはいてもやはり心配は拭いきれず、ずっとアリエラを見守ってもいた。
相変わらずあの子はそつなくこなしていたので特にひやひやすることは起きなかったが、途中うたた寝をしてしまった時は別の意味で心配はした。
それは今度会った時にでも注意しよう。
「……あの子には危機感をもう少し覚えさせた方がいいな」
ぼそりと男は呟いた。
「アリエラ、ぐっすりでしたからね〜」
代わりに花を届けて来た幼子がくすくすと笑う。
奥の森にはあまり近寄りたくないという者も多い中、この者がアリエラがいるならとすぐに飛び出そうとしていたので、男がついでに花を持たせたのが先程アリエラが受け取った花だ。
最近アリエラが好きそうな花が咲いたので丁度見せたかったのだ。
(気に入っただろうか)
喜んでくれていればいいのだがと思いながらも、あの子ならまぁ間違いなく喜ぶかとまた小さく男が笑った。
「アリエラ、次はいつきますかね?明日かな?明後日かな?」
「…………」
それは流石にないのでは?と男が再び目を開ければ、待ちきれなそうにそわそわしている幼子の姿に、随分とせっかちだと呆れながらも、期待を壊すのは良くないと敢えて口を噤むことにした。
幼子に対してせっかちとは思っていても、まぁ早くまた来るといいと男も心中でこっそりと願っていた。
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「……ん?あんなところでどうしたのかな?」
アルカスを走らせながら、アリエラはふと気になるものが視界の端に写り、確認しようと遠くへ目を凝らした。
まだ距離があるが、よく見れば先の方に一台の馬車が止まっているのが見える。
周りには何も無い場所だし、馬車の周りに数人の人影もあった。
(盗賊や人狩り…ではないよね、多分)
全くないとは言いきれないが、争っている雰囲気でもなさそうに見える。
何かトラブルでもあったのだろうか?と、アリエラは手綱を操り、アルカスに進行方向を変えさせた。
念の為、左手は腰に下げているものに添えたまま、警戒して近付けば、やはり盗賊や人狩りが馬車を襲っているわけではなさそうだった。
アリエラはアルカスに速度を緩めさせると、馬車まで近づいてその人集りに声を掛けた。
「突然すみません、失礼ですが何かあったのですか?」
「……へ?あ、あぁ、馬車の魔力装置に不具合が出てしまって……どうやらそのせいで魔石の魔力が過度に消費されていたみたいなんだ。お陰で魔力が底をついてしまって。予備の魔石も使い切ってしまって、立ち往生していたんだ」
突然現れた少女に、馬車の周りにいた人達が驚いた顔をして振り向いた。
困惑しつつも事情を話してくれるので、アリエラはそれに耳を傾けながら相手を観察した。
身なりは旅向けの動きやすい格好をしているが、よく相手を見れば身体付きやその立ち姿はただの旅人ではない気がする。
既視感を覚えたのは、自分がよく見慣れている人達にどちらかといえば近いからだろう。
もし予想通りなのであれば、そうする理由として考えうる事も数パターン思い付く。
敢えてそう見えないように扮装しているということだろうから、わざわざそれを暴く必要もない。
少なくとも害があるようにはアリエラには見えないし、アリエラは自身の観察眼には自信を持っている。
だから、アリエラは警戒することをやめた。
「……それは大変でしたね」
そして、警戒の必要がなくなってから改めて馬車の周りにいた三人をよく見れば、この三人…なかなかの顔面偏差値だった。
特に事情を話してくれた、この中では一番年上そうな青年は、グレーアッシュの髪にアイスブルーの瞳がキリッとしていて、整った風貌も相まって一見冷たい印象に見える美男子だ。
声ももう声変わりが済んでいるのか、少しハスキーめの落ち着いた声で、少しばかり色気も感じてしまう声色だ。
これはまた、女子にモテそうだな。
うんうんと、アリエラは内心で呟いた。
それに…とその後ろをちらりと見遣れば、その他の二人も随分と整った顔立ちをしている。
一人は柔らかそうな金髪に琥珀色をした猫目の青年。
何何?とこちらに混ざりたそうにしている。
もう一人は具合が悪そうなので顔色があまり良くないが、薄紫の髪にエメラルドのように綺麗な瞳をちらりとこちらに向けていた。
(これはなんとまぁ……ご馳走様です!立ち寄って良かった!)
アリエラが思わず思考を持っていかれていると、説明をしてくれていた青年が続きを話してくれる。
「今馬で同行していた者に魔石を買ってくるよう街へ向かわせているんだが、戻るまでここから動けなくてな」
その美声のおかげで、完全に別方向に意識が持ってかれそうにはなっていたアリエラはなんとか意識を戻すことが出来た。
言われて見てみれば、見た所この馬車はどうやら長旅用の軽量化型だった。
軽量化型の馬車は、箱と御者台の部分に浮遊魔法が掛けられており、代えの馬を用意しなくとも二頭の馬でも長距離を走れるように、負担を軽減する造りになっているのだ。
それでもちらりと見れば、馬達も疲れを滲ませているので、相当な距離を走ってきたのだろう。
このまま装置を使用せずこの二頭で無理に馬車を引かせれば街まではたどり着けるかもしれないが…。
(こんな大きな馬車を疲労している二頭で引くなんて……それはあまりにも可哀想だわ。それに、馬だけじゃなく、この人達もそうとう疲れてそう。顔色が悪い人もいるし)
う〜んと、アリエラは首を傾げて悩んだが、すぐにあっ!と声をあげた。
その声にびくりと肩を跳ねさせた三人の視線がアリエラに集まったが、アリエラは別の事に気を取られていてそれに気付くことなくアルカスから一度降りた。
アルカスに括りつけている荷物の中をがさごそと漁り出すアリエラは、中から先程大量に得た戦利品を詰め込んでいた麻袋を取り出す。
ずっしりとした重みのある袋を手に持つと、一番年上そうなグレーアッシュの髪の青年の元まで歩み寄る。
「あの、良かったらこれ使って下さい」
「え?何だ?……うわっ!?」
はいっと目の前に麻袋ごと掲げたアリエラ。
いきなり差し出された麻袋を片手で咄嗟に受け取った青年は、予想よりも重かったのか慌ててもう片手も使いそれを受け止めた。
そして首を傾げながら、一体何が入ってるんだ?と麻袋を開けると、途端に驚愕した顔をこちらにがばりと向けてくる。
「君、こんなに沢山の魔石をどうしたんだ!?」
「私は今必要ないので差し上げます」
「いや、そうではなくて………というか良いのか?この量ならかなりの値が付くのに、そんなに簡単にあげるなどと……有難いが、あまり関心はしないぞ。悪い奴らに目を付けられたらどうする」
思っていた反応とは違ったが、やはりこの人はいい人なんだろうなぁとアリエラはくすりと笑った。
アリエラが渡した戦利品とは"魔石"の事だった。
彼の言う通り、魔石は色んな用途に使えるし、手に入れるのに手間がかかる為、換金所に持っていけば質や量にもよるがかなりのお金になる。
渡した袋にはそれなりに魔石が入っているので、その総額もまたそれなりに高額になるだろう。
それをどうぞ差しあげますといきなり言われたら驚くのも無理はない。
無償でくれると言うなら有難く貰っておけばいいのに、わざわざ諭すようにお小言を言うなんて。
(もしそのせいでならあげない、と言われたら困ってしまうのは自分なのに…敢えて教えるためにそんな言い方をするなんて、不器用な人なんだろうなぁ)
だけどとてもいい人なのだ、とアリエラは思う。
(私だって誰彼構わずこんな事はしないのに)
やっぱりおかしくて、ふふふと笑いが漏れてしまう。
流石に笑っているのがバレてしまったようで、グレーアッシュの青年に聞いているか?と怪訝な顔を向けられた。
「ご心配なく。私、人を見る目だけはあるんです。貴方方がそうではないと思ったからお渡ししただけで、普段から誰彼構わず手を差し伸べるわけではないので。それともお兄さん達、実は悪党なんですか?」
「それはないが……」
「ならば問題ありません。それにそれは元々私のものですよね?私があげたいと思った人にあげることはいけないことでしょうか?」
アリエラの冗談めかした言葉に違うと答えた。
相変わらず青年は戸惑った様子を見せるので、こちらもなんだか頬が緩んでしまってふふふと会話の中でも笑みが漏れてしまう。
「…正直助かるから、そう言ってくれるのであればこの魔石は有難く頂戴する」
「はい、どうぞ。私もそうして貰えると嬉しいです。馬達の疲労もですが、そちらの方も具合が良くなさそうですから…早く休ませてあげてください」
ちらりと、先程から具合の良くなさそうな薄紫の髪を持つ青年に顔を向けた。
まさか自分が話に出てくるとは思わなかったのだろう。青年はエメラルドのような瞳を大きく見開きぱちぱちと瞬きをしながらも、こちらを見て固まっていた。
「お大事になさってくださいね」
淑女らしく笑みを見せれば、『う、うん…』と戸惑いながらも小さな返事が返ってきた。
顔色も相まって、その声すら儚げに聞こえてしまう。
本当にお大事に……。
さてと…とグレーアッシュの青年に向き直れば、こちらの青年も目を丸くしていた。
何故かしら?とその反応にアリエラは思わず首を傾げる。
よく分からないがもう用事は済んだし、自分がここにいては彼らもいつまでも出発出来ないだろう。
それではと退席しようと別れの挨拶をしたら、待ってくれ!と急に腕を掴まれた。
「その……お言葉に甘えるからには、貴女に我々は礼を尽くさなければならない」
律儀なのかなんなのか。
グレーアッシュの青年は真面目な顔で引き止めてきた。
つまりはお礼がしたいらしい。
なんだそんなことか、とアリエラはすぐに首を横に振る。
「いえ、気にしなくて大丈夫ですよ?」
どうせ運動がてらに得た魔石だ。
特に必要なものではないからあげただけなのだから、別にお礼とかは必要ない。
そう思って伝えたのだが、どうやら相手は納得できないようで。
「貴女が大丈夫でも、そういう訳にはいかない。だが、生憎今は街に行かせた者にかなりの金を預けてしまっていて手持ちが足りなくて。後日改めてお礼を……」
頬をかきながら困ったように言い募られたが、こちらとしても困ってしまう。
(そんなつもりなかったんだけどなぁ……)
まさかお礼という話がでるとは。
本当に生真面目な人だ。
アリエラが素直に頷けば済む話なのだろうが、こちらとしても大したことをしていないのにそんな大袈裟にされたくなくて頷くことが出来なかった。
お礼をしたい側とされたくない側。
これでは平行線になってしまう。
どうしたものかと頭を悩ませていると、はっといい案を閃いたアリエラ。
「では、こうしましょう!」
にこやかにアリエラはグレーアッシュの青年に顔をぐいっと近づけた。
アリエラは名案だと興奮した結果の無意識ではあったが、突然距離を詰められて青年は動揺する。
それに気付くことなく、アリエラは先程思い付いた内容を話した。
「もし今後どこかで会うことがあって、その時に私が困っていたらその時助けてください。お礼はそれで大丈夫です」
ね?とアリエラが言えば、青年はぎこちない動きで首を縦に振った。
無事に話も解決したようだし、今度こそお暇しようとアリエラはでは……とそっと自分を留めていた青年の手に触れた。優しくそれをひきはがすと、アリエラは踵を返してアルカスにすぐに股がり、『道中お気を付けて』とだけ声を掛けてその場を立ち去った。
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青年が呆然としている間に、アリエラの後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
その姿を見送っているグレーアッシュの青年に、少し引いたところで二人の会話を見ていた二人が近寄って来る。
猫目の青年はまだ呆然としている青年へと話しかけた。
「ねー、クレイ?」
「……なんだ」
「あのまま行かせちゃってよかったの?」
「??」
「気づいてなさそうだから教えてあげるけど、君さ、彼女の名前すら聞いてなかったよ?」
何が?と一瞬思案していた青年は、言われた言葉を理解すると、はっとして青年はもう黒い点にしか見えない程遠くなった彼女の方をもう一度見た。
ここまで離されていたらもう追いかけるのは難しいだろう。
「気づいてたならなんで引き止めなかった」
「あー…それはごめん。俺もあの時はそこまで頭が回らなくて」
不満を滲ませた声音で猫目の青年をじろりと見ると、その目を向けられた青年もまた、困ったように眉根を寄せた。
ごめんと茶目っ気のある笑みを浮かべる青年に、グレーアッシュの青年…クレイは意外だとばかりに目を丸くする。
この男はこんな風にちゃらけることも多いが、良く周りを見ていて頭の回転も早い。
そんな彼が思考を鈍らせるとは珍しい。
何がそうさせたのか聞きたい気がしたが、クレイははぁと溜息を吐き出すしかできなかった。
……まさか恩人の名前を聞きそびれてしまうとは。
突然の出来事で頭が回らず、彼女から出された提案を思わず受け入れてしまったが、あの様な提案ではその約束が果たされることはほぼないようなもの。
名前も住んでいる場所も知らなければこちらから伺う機会を得れず、ばったり出くわす可能性は運に任せるしかない。
彼女がこの近隣に住んでればこちらとしては少しは探すヒントになるが、自分達がどこに行くのかも知らない彼女にとってはもう会うことはないだろうと思っているはず。
それを分かっていて言ったのだろう。
彼女の様子からお礼を望んでいるようには見えなかったし、かといってこちらが引く様子がなかったので、当たり障りのない言葉で曖昧なお礼を取り付けたのだ。
せめて名前だけでも聞いておけばよかったと、自分の失態に後悔が押し寄せる。
アッシュグレーの髪をぐしゃりと掴みながら深い溜息をもう一度吐き出すと、今まで黙っていた薄紫の髪を持つ青年が不貞腐れたように文句を告げた。
「クレイだけ、ずるい…」
「どういう事だ?」
「………」
不貞腐れた顔を隠す気もなく晒した薄紫の青年はぷいっとそっぽを向いた。
「あぁ、分かる分かる。言いたいことは分かるわぁ」
そんな彼の肩を掴み、猫目の青年からもじと目を向けられた。
「……意味がわからん」
謎の視線を浴びせられながら、クレイはもう一度彼女が去った方を振り向いた。
もうそこには影すら見えない。
「また、会えるといいんだが…」
そう呟く顔には薄らと赤みがさしていることに、本人も後ろで話している二人も気づいていなかった。