姫様と僕 2
幼少時のベリル視点です。
姫様が離れに住む僕を訪れるようになり、不自由な鳥かごは幸せな箱庭になった。
少しずつ与えられる知識を蓄え、僕は自我を知り、欲を知り、寂しさを知った。
知識が増えるたびに、姫様と僕の間にある大きな距離を実感する。初めての味方、唯一の味方。姫様が約束してくれた、ずっと隣に居るという言葉だけが僕に勇気を与えてくれた。
相変わらず僕の家族である貴族たちからは邪険にされたけれど、大切に思わない人たちからどのような仕打ちを受けたところで、僕の心は反応を示さなくなっていた。
そうやってぬるま湯に浸かるような日が1年も過ぎた頃、姫様は僕を家から連れ出した。
「ベリル、外へ出るわ。着いておいでなさい」
「ディー、でも怒られてしまうよ」
「ここから連れ出すと約束したではないの。今がその時よ」
そう言って手を引いて、彼女は本当に僕を連れ出した。何かとてつもない作戦でもあるのかと、華奢な背中を見つめていた僕は、まさかの力技にただただ呆然としていたのだ。
「庶子を監禁していると報告があったから確認に来たのだけれど、本当のことでわたくしとっても驚いているの。この子は貰っていくわ。文句は受け付けなくてよ」
堂々と宣言した姫様に、父や母もさすがに抵抗はした。けれどもその時には既に証拠も揃っており、言い逃れできるような状況ではなかったのだ。
庶子に酷い扱いをする貴族家は多いようだが、それが許されるのは家の中でだけ。外に話が出れば十分醜聞になってしまう。だから僕の家族である人たちは、姫様の言葉通りに僕を差し出すことで事を荒立てないようにしたようだ。
皇女の従者に男が選ばれるということは珍しい。けれどその時点で優秀であった姫様は、女帝となる可能性があると文官たちから考えられていた。万が一そうなったときのため、将来の側近として僕を育てる目論見もあったようだ。
だから僕は、呆気ないほど簡単に後宮の離宮で姫様の従者となることができた。
「姫様、そろそろご機嫌を直してください」
「ディー」
「姫様」
「ディー」
「…申し訳ございません」
「わたくしはディーよ」
従者となり、僕の言葉遣いは徹底的に矯正された。姫様の世話をする数少ない侍女の一人が「仕える者を一人だけ寵愛するなどなりません。他の者に示しがつかず、彼の身にも危険が迫ります」と言ったのだ。
侍女の言葉は正しいけれど、彼女が姫様を思ってのことではないのは嘲るような表情からも理解できた。侍女たちは姫様や僕を幼いと考えて、表情を誤魔化す手間さえ惜しんでいた。
「わたくしの味方はベリルだけなのに!!」
侍女に指摘をされた時にこの言葉が出なかったのは、ただ姫様の自制心が働いただけだろう。侍女もメイドも誰もかれも、ここでは姫様を敬ってはいない。家庭教師や文官たちは姫様の優秀さを評価するが、後宮という閉ざされた世界ではいつも変わらない。
彼女たちの目には平民の男と駆け落ちした、馬鹿げた女が産んだ娘としか見えていなかった。
「僕はこんなにも素晴らしい姫様が誰かに侮られるのは嫌です」
「ベリルも居なくなるの?」
「いいえ、誰にも隙を見せず、見下されず、簡単に踏みつけられないように致しましょう。僕も最大限努力します。いつだって支えます。そしてそれだけの力を手に入れたら、いつかまた、姫様を愛称で呼ばせてもらえますか?」
姫様はポロポロと泣いていた。涙が無ければ泣いているとは分からないほど静かな泣き方で、それがただただ悲しかった。
「わたくしが立派になれば、またディーと呼んでくれる?」
「もちろんです」
それからは穏やかな日々が続いた。とは言っても毒を盛られるのは日常茶飯事で、姫様のベッドに蛇や虫がいることも多かった。けれども慣れればそれさえも、日常の一部となるのだから人とは不思議なものだ。
そんな死の危険と隣り合わせの穏やかな日々は、あるときよくある暗殺方法で終わりをつげた。
毒を盛られ、急いで離宮へと戻る途中に刺客に襲われたのだ。
姫様を支えながら歩いていたときに、ぐっという声がした。慌てて横を見ると、姫様は背後から腹に剣を突き立てられていた。後宮の中に居た僕たちには護衛もついておらず、だから僕はただ叫んだ。言葉ではない音が喉から出て、獣のように泣き叫んだ。
生命力に満ち溢れた姫様から、血とともに命が零れていくようで、僕はただなりふり構わず助けてくれと懇願した。
気付けば姫様は処置を受け、眠り続ける様子をただベットの横で見続けていた。毒を受け、深く刺されてもまだ、姫様は生きることから逃げなかった。高熱でうなされて、濡れたように汗をかき、痛みに悲鳴を上げながらも生きることにしがみついてくれていた。
5日、6日、7日と目覚めぬまま日が過ぎるたび、医者の顔が曇っていく。目を覚ますのが遅くなればなるほどに、回復が見込めないからだ。
姫様が倒れて8日過ぎた夜遅く、皇帝陛下が近衛を連れてやってきた。
後から思えばこの時僕は、どこかおかしくなっていたのだと思う。
誰より大切だと感じた人を守れもせず、目を離せばその瞬間にでも消えてしまいそう。眠ることが怖くて目を閉じることも出来ない。だからもしかしたら僕は、この時死にたかったのかもしれない。
「陛下、お願いがございます」
庶子で従者でしかない僕が、絶対に声を掛けられない尊き方。近衛が佩く剣に手を伸ばす。少しでも問題があれば斬り捨てられるはずだった。
「良い。申せ」
姫様と同じ艶やかな黒髪に緑の瞳。皇帝陛下は唯の気まぐれか、近衛に控えるように合図をし、言葉を紡ぐことを許された。
「姫様の降嫁を願えるほどの力を手に入れます。どうかその時にはお許しいただきたいのです」
「貴様! 従者の分際で」
今度こそ殺される、そう思った。けれどもそれでも良いと思った。姫様がもしこのまま死んでしまうなら、姫様を強く求める者が居るのだと最後に知って欲しかった。例え聞こえていなくても、僕だけは姫様と共に在る、ただそれだけを伝えたかった。
「下がれと言っている」
陛下の声は静かだけれど、それでもその場を制する迫力で、どうやら僕は助かったようだった。
「これはもう子を成せぬかもしれぬ」
腹を女性が刺された場合、一番心配されることはその点だ。けれども僕にとってはそんなこと、正直どうでも良かったのだ。
「庶子の身でどう身分を手に入れる?」
揶揄うでも怒るでもなく、ただ真面目に陛下は僕に問う。
「出来ることは全て致します」
「口だけであれば何とでも言えるな。まあ考えておく」
そう言うと陛下は背を向けて、もう僕なんて居ないかのように振り返らず歩いて行く。届かないその大きな背中を見つめていると、横からするはずの無い衣擦れの音がした。
「お待ちください、陛下」
姫様の顔は真っ白で、けれども凛としていた。運命の動き出す音が、確かに僕には聞こえていた。




