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「姫様、お茶をご用意いたしました。」
「ありがとう、これはローズマリーかしら?」
ふうっと吐く息でハーブティーに柔らかい波紋が広がっていく。立ち上がる香りを堪能し、口に含む。コクリとハーブティーを一口堪能し、クスリ、クローディアは蠱惑的に笑った。
「ベリル、わたくしが本に集中していないこと、気付いていたのね?」
ティーカップを支える指先まで優雅なクローディアは、静かに佇む従者のベリルにチラリと視線を送る。
「ローズマリーにレモングラスをブレンドいたしております。集中力が増し、ページをめくる手が動き出すかと思いまして。」
「あら、辛口ね。でも残念ね、ベリル。学園に置かれている本は子どもの頃に読んだものばかりのようよ。ベリル、この本あなた覚えていて?」
「ええ、姫様。手に持たれている哲学書は10歳になられる前には読み終えていらしたものですね。」
「だからね、ベリル。集中して読み進める必要なんてなくてよ。」
ここはブラシオ王国王立学院の図書館。中庭が望める窓際の席で、留学中のクローディアは読書を楽しんでいる。図書館であっても書棚の近くでなければお茶が飲めるため、勉強などで長時間利用する人が多いようだ。
多くの人が利用する図書館だが、ここ最近通い詰めている黒髪の美少女は多くの人の目と心を奪っている。
腰まである豊かな黒髪は波打ち、窓から差し込む光を受けてキラキラとした輝きが神秘的。肌は透けるように白く、睫毛が頬に濃い影を作っている。
高貴さを表すような大きな緑の瞳は目尻が少し上がり、真っ赤な唇は艶やかで、見つめていると思わずゴクリと喉を鳴らしてしまうはずだ。
学院ではその美しさへの信奉者だけではなく、先日の第三王子と砂糖菓子のような男爵令嬢、敵に配役された公爵令嬢の小芝居での高圧的な態度を見たことで、新たな嗜好の扉を開いてしまった子息令嬢たちから暑苦しい視線を集めている。
そばに影のように付き従う従者のベリルは、飛び回る羽虫を追い払うかのように、冷ややかな目で周囲を見回した。
「それでは本を通り越した先に姫様の関心事がございますか?」
「ええ、正解よ、ベリル。ご褒美をあげなくっちゃ。」
その声に聞き耳を立てていた周囲は、勝手な想像で頬を染める。ゴホン、ベリルは大きく咳払いをし、話を続ける。
「お言葉ですが姫様、もう一週間もここで同じように過ごしていらっしゃるのですから私もさすがに気が付きます。」
「そうなの、残念ね。だったらご褒美はやめておこうかしら。せっかくグリーク帝国からあなたの好きなショコラトリーのチョコレートを持ってきたのに。」
「いいえ、姫様。難問でございました。ご褒美下さい。」
淡白な態度に似合わず甘いものに目が無いベリルは、すぐさまに降参してしまう。
いつになく可愛い態度の従者に満足したクローディアは、周りに聞こえない程度の声の大きさを落とし、ベリルに話しかけた。
「わたくしずっと、中庭を見ているの。」
「気になるものがございましたか?」
「とっても不幸そうなご令嬢が一人。」
「それを一週間見続けているとは、姫様も悪趣味でございますね。」
「そうね、悪趣味であることは否定しなくてよ。でも今回はちょっと違う。ベリル、あの不幸そうで可愛らしいご令嬢のこと、どうせ調べているのではなくて?報告して頂戴。」
調べていること前提でクローディアが高飛車に命令すると、ベリルはとろけそうな顔で微笑む。
「ええ、姫様。それはもう、しっかりと調べております。」
そう告げると、図書館の窓から見える不幸で可愛らしいご令嬢の紹介を始めた。
王立学院の中庭、ひっそりとした場所で人目を避けるように過ごしている彼女の名前はミリアーナ。ブラシオ王国でも歴史があるトワイデル伯爵家の長女だ。
栗色の髪にはちみつ色の瞳。目を引きつけられるような圧倒的な美人ではないものの、黒目がちな瞳やふわふわとした絹糸のような髪、小柄なのに柔らかそうな体、庇護欲をそそられるタイプのご令嬢だ。
柔らかな外見に反して内面はしっかり者で芯が強く、頭脳明晰。完璧な令嬢と呼ばれていた。
彼女の"完璧"という評判にひびが入りだしたのは10歳の頃。
ミリアーナの実母が病で亡くなった、伯爵が後妻を連れてきたのはそのたった一か月後、まだ喪も明けない頃だった。後妻とはもともと愛人関係にあり、ミリアーナの二歳年下の異母妹であるライラまで存在した。
最初はミリアーナの置かれた境遇を憐れむ人が多かったが、少しずつ風向きが変わってくる。
「あの”完璧な令嬢”、妹のものを何でも取り上げてしまうのですって。」
「癇癪を起こすから、使用人たちからの評判も悪いとか。」
「後妻に入られた夫人も悩んでいらしたわ。」
そんな根も葉もない噂が社交界で流れるようになる。ミリアーナ本人が貴族の子息令嬢たちが集まるお茶会などに参加しなくなったこともあり、この評判は誰にも否定されることはなかった。
ミリアーナの評判が良かったからこそ、彼女の価値を落とす噂は多くの人の興味を引いてしまう。
ミリアーナと入れ替わるようにお茶会に参加するようになった妹のライラは、笑顔を振りまく愛嬌のある娘だった。
華やかな赤い髪に宝石のような桃色の瞳。ライラのキラキラとした子どもらしい笑顔が姉の話になると一気に真っ青な顔色に変わる。
「お姉さまは私のことを考えてくださっているのです。」
俯き震えながら、言葉を紡ぐ8歳の少女。ライラの話を疑うなど、誰も考えはしなかった。
「なるほどね。ライラって子、なかなかやるのね。」
「ええ、先日の砂糖菓子のような男爵令嬢さんよりはやり手では?姫様の子どもの頃を考えますと、それでも羽虫のようなものでございますが。」
「ベリルは本当にわたくし贔屓ね。」
クスリと笑い、クローディアはそのまま続ける。
「ミリアーナ嬢は10歳の頃から情報操作されていた、ということね。」
「さようでございます。子どもの頃の評価が正しいものかと。今でも王立学院での成績もトップクラスですし、結婚後のことも考えて政治や領地経営のことまで学んでおられるとか。」
ブラシオ王国では領地経営は基本的に当主である男性がすることが多いが、相談相手となるために学んでおく女性も少数ではあるが存在する。
「そうそう、その婚約者殿はどうなっていて?ヒーローなら不幸で可愛らしいお嬢さんを救ってくれるのではない?」
クローディアはそう言うと、透かし彫りの入った繊細な木の扇子を口元に広げ、続きを促すように目を細めた。
「そこが美しい物語とは違うところでしょうね。」
ベリルはそう言うと、ミリアーナの説明を続けた。
世間の噂やライラの表情。それらはミリアーナの婚約者であったユージーンの心まで動かしていく。
幼いころに政略的な目的で結ばれた婚約者ではあったものの、二人は共に聡明で穏やかな子どもだった。だからこそ、穏やかで理想的な関係を築いていたはずだった。ユージーンは確かに妻となるミリアーナを愛するのだと思っていた。
それでも世間の噂を聞くごとに、ライラの話を聞くごとに、ユージーンの心は揺れ動いていく。
「信じて下さい。」
ミリアーナはそう言うけれど、穏やかな顔で言葉を紡ぐものだからユージーンには熱が伝わってこない。どうしても、自分の前でだけミリアーナが取り繕っているという嫌な想像が頭から離れない。
そんな日々を過ごすうち、ユージーンは流されるようにライラへと気持ちを傾けるようになる。
「ユージーン様が婚約者だなんて、お姉さまは幸せ者ですね。」
「ユージーン様、ちょっとだけお話しましょう。」
「お姉さまには内緒でお茶会をしませんか?二人だけの秘密です。」
ライラのさくらんぼのようなみずみずしい唇から紡がれる言葉。それらはどれも、酷く甘い。疲れたユージーンの脳に、痺れるように染みこんでいく。
「ライラ。君が僕の婚約者だったら良かったのに。」
ぼんやりとした頭でユージーンがそう言った。
「嬉しい!!」
気持ちを体で表すように、ライラはパッとユージーンに飛びつく。それはまるで淑女とは言えない行動ではあったものの、思春期の男の脳を蕩けさせる効果は抜群だった。
両手を腰に回しギュッと縋り付くように抱きつく。ユージーンの胸に顔を埋めたライラは、醜く唇の端を上げていた。
伯爵家の応接間、ライラとユージーンの茶番のようなやり取り、それをミリアーナが聞いていたことをユージーンが知ることは無かった。
一度気持ちを伝えると、後は坂道を転がり落ちるようにユージーンは変わっていった。
婚約者であるミリアーナと会うために訪れているはずの伯爵邸で、お茶をするのはいつもライラ。
街歩きや観劇など、どこへ行くのもライラを伴っているという。
「あらあら、あからさま過ぎではない?それでも悪評は立っていないの?」
呆れたような、それでいて面白がるような表情でクローディアはベリルに問いかける。
「ライラ嬢が『急にお姉さまが行かないってわがままをおっしゃって。』と俯きながら言うと、ついつい信じてしまうようですよ。」
「あら、とんだ悪女ね。安心したわ、ライラ嬢ならどこでも生きていけそう。」
クローディアは、ほっと安心したような声をわざと出した。
「なんとも不穏な言葉でございますね。」
ベリルは目を三日月に細め、ニヤリと笑った。