13
「もうおしまいだわ!!」
トワイデル伯爵家のタウンハウスに夫人の金切り声が響いた。
普段通りの朝、その日常は王家から届いた召喚状によって壊された。
黒い表紙に金の縁取り。その召喚状は王家から貴族へ強制的に出廷するように求める書状だ。平和が続いているブラシオ王国において、黒の召喚状が届けられることはまずない。
だからこそ、それほど大きな事態となっているという証となってしまう。
「あ、あなた。王家からの呼び出しって。」
トワイデル伯爵の執務室に夫人の声が響く。
飾り気のない本棚に政治や経済の本が並ぶ。ソファーは汚れが目立ちにくい濃紺で、執務机や腰壁は無難な渋い木目。
どこまでも普通なトワイデル伯爵の性格を表すような当たり障りのない執務室において、真っ赤な髪を情熱的に揺らす夫人だけが色を持っているようだった。
「黒の召喚状が届けられたんだ。すぐにでも向かわなければ。」
「なぜ王家から!?あなた、何も心配することはないっておっしゃって!」
甲高い妻の声を聞きながら、トワイデル伯爵は凡庸な顔を青ざめさせ、何も言えずに俯いている。
「なんで何も言ってくれないのですか?我が伯爵家は王家に忠誠を誓い、翻意も抱いていない。ならば恐れることは無いはずでしょう?」
責めるような強い口調で夫人は言葉を重ねていく。しかし夫人からの言葉を受け取れば受け取るほど、伯爵の顔は表情を無くしていってしまう。
「ねえ、あなた。私たちの幸せは今まで通り続くのでしょう?せっかく厄介者をよそへやれたのだもの。ねえ、そう言って頂戴。」
もはや縋り付くように、伯爵の上着の胸元を掴みながら真っ赤に塗った唇から言葉を絞り出す。
「不正していた。」
「......え?」
「だから不正してたんだ。もう5年にもなる。」
「あなた、何を言ってー」
「領地の税を勝手に増やしていたし、王家には税収を低く報告していた。」
その言葉の重さにさすがにすぐには反応できず、夫人も口を閉ざしてしまう。平凡な執務室は、いつもと違う重苦しい空気で満たされていく。
「......すまない。」
「王家も気付いているということですか?」
「黒の召喚状だ。十中八九そうだろう。」
二人はどちらも黙りこみ、時計がカチコチと秒針を刻む音のみが響く。
「不正した分をお返ししましょう。そうすればそこまで酷い処罰にはー」
「無いよ。返せるものなんて、そんなものは何もない。」
「なぜですの?そんな、どうして?」
「君とライラのドレスやアクセサリー、劇場のボックス席や頻繁に開くお茶会。そういったものに全て消えたよ。」
伯爵はその平凡な顔をくしゃりと歪め、諦めたようにそう告げる。
「すまない、本当にすまない。君たちに、君とライラに幸せでいてもらいたかった。望みは全て叶えたかった。でもそれは身の程を越えていて、それでもがっかりされたくなかった。」
「ああ、何てこと。」
夫人の体がぐらりと揺れ、その場に崩れ落ちそうになったところで伯爵は受け止めた。そしてそのまま簡素な濃紺のソファーに横たえた。
トワイデル伯爵にとって夫人は生まれて初めて自分が求めたものだった。
伯爵家の嫡男として生まれ、平凡な成績で学院を卒業した。政略結婚として娶った妻は家格が釣り合う娘で、美しく聡明だった。そんな平凡で、それでも周囲から見れば十分に幸せなトワイデル伯爵の人生に、赤く燃えるような髪を持つ情熱的な夫人は突然現れた、
穏やかな心地よい春のような妻との生活は、情熱的な赤い髪の女によって一気に塗り替えられてしまった。
それからの人生は全て、トワイデル伯爵は夫人とその子どものために生きてきた。
前妻との子どものことは無視をして、領民のことも知らないふりをした。
愛する妻に強請られるままにドレスを贈り、アクセサリーを見繕う。
褒めて讃えて愛を乞う。
そんな甘美な生活が、今終わろうとしている。
「ごめんね、地獄までも君を手放せる気がしない。落ちるだけと分かっていても、手を離せない私のことを恨んでくれても構わないよ。」
ソファーに横たわる夫人の赤い髪を指にからめ、キスを落とす。
「妻をこの家から出さないように、頼んだよ。」
執務室からそっと出た伯爵は、家令に一言指示を与える。そうしてトワイデル伯爵は、その凡庸な顔を外向きに整えて王城へと向かった。