12
鏡に映るのはユージーンがいつだって手に取ってキスを贈ってくれる燃えるような赤い髪。そして見つめると誰だって言うことを聞いてくれる桃色の瞳。
いつも通りのはずなのに、鏡ははっきりとライラの目の下にある隈を映している。
「おかしいわ!なんでよ。なんで?いつもうまくいっていたのに。」
抱え込んでいた刺繍が美しいピンクのクッションを気持ちのままに殴りつけるけれど、ポスッと気の抜けるような音を立てるだけ。
美しい金の装飾が施された大きな鏡を両手でがっしりと掴み、可愛らしい顔を歪めたライラはぶつぶつと誰にも届かない言葉を紡いでいる。
カーテンを閉め、灯りと言うには心許ないキャンドルだけを灯し、自室には鍵をかけて噂すら通したくは無いというように閉じこもっている。
ライラ・トワイデルの人生が完璧だったのは8歳までだった。
自分に甘い母親と、夜はどこかへ出かけていく父親。
世界から隔離されたようにポツンと佇む館には、使用人も揃っており不自由さを感じることは無い。
そんな狭い世界がライラの大切なものの全て。
ふかふかで心地よいベッドに美味しい食事、レースやフリルがたっぷりの可愛いドレス。それらが与えられる生活がおくれる自分は、世界で一番幸せなんだと信じていた。
そんなライラの完璧な世界を壊したのは、いつもどこかへ行ってしまう父だった。
「今日から一緒に暮らせるよ。」
平凡な顔をした父は目を細め、嬉しそうにライラの手を引く。
その言葉でようやく、父がどこかへ行ってしまうことが不幸せなことなんだと気付いた。
「これでやっと、私も社交界へ戻れるのね。」
満足そうにニンマリと唇の端を上げる母を見て、これまでの自分たちが日陰者であったことに気が付いた。
トワイデル伯爵家のタウンハウスは、今までライラが暮らしていた館と規模も豪華さも違っていた。美しい庭に細部までこだわって作られた邸宅。飾られている絵画も花瓶も絨毯までが、幼いライラから見ても一級品。
繊細な模様を踏んでも良いのだろうか?そんな風に考えてしまう自分が惨めだった。
「はじめまして。ミリアーナと申します。ライラと呼んでもよろしいかしら?」
ふうわりと笑う姉は一級品の中に囲まれてもなお輝く、ライラとは違う本物だった。
栗色の髪にはちみつ色の瞳。目立たない色のはずなのに、丁寧に手入れされた髪はつやつやと光り輝いて、優し気な瞳にはもっと映り込みたいと思わせる。
日の光を浴びたことのないような透き通る肌にバラ色の頬。
そして何よりも、ライラが一等素敵だと思っていたドレスが普段着に見えてしまうほど、ミリアーナの着ているドレスは完璧だった。
装飾は少ないものの、生地の良さや色など細かい部分までこだわって作られており、思わずうっとりと見つめてしまった。
その時点で、ライラには様々な選択肢があったはずだ。
優しく手を差し伸べるミリアーナを姉と慕う道。
プイとそっぽを向いて、何もかもが気に入らないと子どもらしく拗ねる道。
最初はぎこちなくとも、少しずつ家族となっていく道。
「ええ、お姉さま。こんなに優しそうなお姉さまが出来て、私とっても嬉しいわ。」
一瞬考えたあと、ライラは全ての感情を覆い隠してそう言った。きっと笑顔だって上手に浮かべたはずだ。
(全て奪って私のものにしてやるわ。)
少なくとも、ライラの中で膨れ上がる黒い感情に誰も気が付きはしなかった。
最初は姉の完璧さの前で為す術が無いように思われた。どこへ行っても姉のことを良く言う人ばかりだし、その中でいきなり姉の悪口を言ったところで信じてもらえる訳もない。だからライラは毎晩ベッドの上で考えて、策を練ったのだ。
自分から姉の悪口は言わない。それどころか人に聞かれても言わない。ただ顔色を変え、全身を強張らせる。それだけの反応を長く続けた。最初はただの体調不良と考えられていたものの、回を追うごとに不穏な噂が立つようになる。
「やっぱりあの噂って。」
「完璧なご令嬢だって言われていたのに。」
姉の評判にようやくひびが入ったその日、ライラは俯いて、ニンマリと口の端を吊り上げた。
そこからは全て上手くやってきたはずだ。姉の婚約者であるユージーンだってライラが目を潤ませて訴えれば信じてくれた。友人たちは義憤に駆られて噂を率先して流してくれた。姉を守ろうとする使用人たちは解雇させるように追い込んだ。
姉から奪えるものはほとんどすべて奪ってしまった。
出会った頃はドレスも令嬢としての人気も美しさだって姉が持っていた。けれど全てライラが奪いつくしてやった。
姉の元婚約者と正式に婚約を結んだとき、ようやく姉を追いやれたと思った。
けれどライラの心は不思議と満たされることは無かった。
姉が大切にしていたドレスやネックレス。
姉が守り、守られていた使用人。
姉を大事にする婚約者。
今では全部ライラのものなのに、これっぽっちも満足できない。そんなイライラに拍車をかけるように、今度はライラの悪い噂が流れだす。
どれもこれも、身に覚えがありすぎる内容だ。だって姉を追いやるためには必要だったのだから。
姉と親しい使用人は追い出してしまったし、一体どこから話が漏れているのか分からない。
最近では夜遊びを色々なところで見られてしまっているらしい。確かにプレゼントを送ってくれる男性は何人もいるけれど、人目がある場所で会うなんてそんなバカなことはしていない。
どこで間違えてしまったのか、何をしてしまったのか。
自覚が無いままに足元がガラガラと崩れていくような心細さを感じてしまう。
ゾクッ
寒くもないのに背筋がぞわっとし、体を守るようにクロスした腕には鳥肌が立っている。
「もうおしまいだわ!!」
その時、母の甲高い叫び声が聞こえた。これ以上落ちることなどあるのだろうか。ライラはぼんやりと鏡を見つめたまま、ただその場に座り込んでいた。