10
その日、トワイデル伯爵家のタウンハウスは二度揺れた。
一度目はグリーク帝国の封蝋が押された明らかに格の違う先触れの手紙が届いた朝。
二度目は最高級の装飾が施された、グリーク帝国の紋章が入った馬車がタウンハウスの前に止まった昼。
「姫様、なにやら楽しそうですね。」
「ええ。だってミリアーナ様を虐げてきたお馬鹿さんたちと直接会うことが出来るのですもの。」
機嫌良く陶器のような美しい肌を桃色に染めながら、クローディアはお気に入りの白蝶貝の扇子を広げ、クスリと笑う。
馬車の窓から入る光はクローディアの髪をキラキラと輝かせ、睫毛が作り出す影をより濃くする。
「本日も変わらずお綺麗でございます。」
ベリルが賛辞するクローディアの装いはブルーグレー。銀糸で縦に刺繍が入ったドレスで、普段使いしやすいようにボリュームは抑えられている。
胸元を覆うフィシューは先日王太子との話題にもなっていた比較的安価な綿モスリンのものだ。ただ布端から中央に向かって施されている繊細な草花モチーフの刺繍によって、一気に華やかな印象になっている。
「フィシューはこの間話題になったものですか?」
「ええ、帝国でお仕事をしてくれている針子たちから送られてきたのよ。繊細な刺繍。あの子たち、また上手になったのではなくて?」
胸元の刺繍に目をやり、そうして窓からはるか遠い祖国、グリーク帝国を眺めるような遠い目をする。
「彼らも姫様のことを敬愛しておりますから。知っておりますか?出立前、帝国にある姫様の離宮でかなり文句を言われたのです。」
「嫉妬をするあの子たちも可愛いものね。」
クローディアのその声は普段よりもぐっと柔らかく、包み込むような母性が感じられる。
「彼らの元へ早く帰るためにも、今日は何も問題を起こさないようにお願いいたします。」
柔らかい美しさに目を奪われながらも、ベリルはクローディアに釘をさすことは忘れない。
「刺激的なことが好きだからと言って、目的を見誤ることは無くてよ。今日は王家が懇願してミリアーナ様の婚約者を変えてもらうという目的があるのだから。」
「穏便に辺境伯との婚約を結びなおしておくのですよね。」
「ええ、後は適当な理由をつけてミリアーナ様を高位貴族に養子に出すように仕向けるわ。ミリアーナ様さえ居なければ、トワイデル伯爵家、潰してしまっても良いでしょう。」
白蝶貝の扇子を根本から先まですっと美しく華奢な指先で撫で上げる。遊戯盤で遊ぶように、目をきらめかせてクローディアは笑った。
「トワイデル伯爵、夫人、急な訪問でごめんなさいね。グリーク帝国第二皇女、クローディアですわ。」
「殿下、我が伯爵家まで御足労いただきありがとうございます。」
凡庸な見た目のトワイデル伯爵は、額に汗をかきながら歓迎の気持ちを表すように大きく手を広げて挨拶をする。
「皇女殿下にお越しいただけるなんて、みんなに自慢できますわ。」
トワイデル伯爵家に後妻として入った夫人は、噂好きで自尊心が高い女性のようだ。夫人が纏うドレスはブラシオ王国の流行を押さえたもの。しかしだからこそ、既婚者の彼女を軽薄そうに見せている。
「殿下に我が娘たちをご紹介させていただけますか?長女のミリアーナと、次女のライラです。」
「ミリアーナ様のことは存じております。学院では仲良くさせていただいております。」
クローディアがそう告げると、夫人が不愉快そうな顔をする。感情を隠しもしない醜い表情を、ベリルが冷めた表情で見つめていた。
「クローディア様。私とも是非仲良くして下さいませ!!」
クローディアから声をかけようとしたその瞬間、満面の笑顔で媚びるようにライラが言い放つ。背後に立つベリルから漂う不機嫌なオーラが増すのを感じ、チラリと肩越しに従者をなだめた。
「我が娘は皇女殿下にお会いすることが出来て舞い上がっているようでして。」
冷や汗で前髪がぐっしょりと濡れるほどになっているけれど、クローディアはそのまま温度の無い表情で伯爵のみを見つめた。
「ご無礼を働き大変申し訳ございません。娘にはきつく言って叱りますので、どうか。」
失神するのではないかと思うほど、トワイデル伯爵は顔を青くして謝罪の言葉を重ねていく。
「姉妹で随分と性格が違うようですわね。」
くすりと笑ってクローディア様がそう話すと、トワイデル伯爵は下を向き、うなだれてしまった。
ライラは何が悪かったのか分かっていない様子ではあるものの、侮辱はしっかりと受け止め奥歯を噛みしめている。
「そうそう、今日の本題はこちらです。陛下よりトワイデル伯爵に書状を預かってまいりました。」
ベリルからそのままトワイデル伯爵へと預かっている書状を渡す。中身はミリアーナとユージーンの婚約解消と、新しく辺境伯と婚姻を結ぶという内容だ。
「これは......、辺境伯のために娘の婚約を解消せよとのご指示なのですか?」
王家とはいえ、元々家同士で結んでいる契約に介入することを不審に感じたようで、訝しげな顔でクローディアを見つめる。
「辺境伯領は国にとっても要所。だからこそ嫁ぐ女性は厳選されなければならない。以前より優秀なミリアーナ様は魅力的な候補者と考えられておりました。しかしミリアーナ様には幼少の頃より婚約者がいらっしゃったでしょう。」
スムーズに交渉を進めるために、クローディアは嘘を交えながら話していく。そしてふっと一息つき、室内にいる全員の注目を集めた。
「ですが最近様々な場所で、婚約者殿と妹さんが仲睦まじそうに過ごしている様子が目撃されているとか。それであれば、ミリアーナ様は辺境伯の元へ、妹さんの方はその婚約者の方と婚約を結びなおせば良いのではないかと陛下も考えておられます。」
浮気は知っているのだから、婚約を結びなおせという内容をオブラートに包み、クローディアは話す。ライラとユージーンが親しくしていることは伯爵邸では周知の事実らしく、皆が目を泳がせている。
その中で、ライラ一人だけがぱあっと表情を明るくし、望み通りの未来を掴んだことを喜んでいる。
あまりにも分かりやすいその様子に、クローディアは扇子の影でそっと笑う。
「うちのライラも優秀ですのよ。」
突然割り込んできて意味も実も無い、そして真実でもない話をされ、クローディアもベリルもげんなりだ。
「ちょっとお母さー」
「トワイデル伯爵、ずいぶんと自由な家風でございますわね。」
これ以上は一切相手にしない、その意味を込めて、ライラの言葉はあえて遮り夫人へも目線を向けずに伯爵を冷たく見つめる。
黒髪の絶世の美少女の冷ややかな目線は、思わずその場に平伏しそうになるほど威圧的だ。
「そうそう。」
ポンと扇子で掌を打ち、今思い出したかのようにクローディアが話す。
「辺境伯への輿入れの前に、ミリアーナ様には他家へと養子に入っていただきます。トワイデル伯爵家も十分な家柄ではありますが、出来れば陛下は公爵家あたりの、王家とつながりが深い家と辺境伯家を結びつけられたらと考えておりますので。」
「っは、はい。全て王家の御意向に従います。」
伯爵は既に交渉する気力は残っていないようで、俯きながらはいはいと頷くのみだ。
「ではもう婚約まで時間もございませんし、出来ればこのままミリアーナ様をお連れしたいのだけれど。」
「え、このままですか?」
「ええ、だめかしら?」
扇子を口元にあて、さも当然といった雰囲気でクローディアが尋ねる。急すぎる展開について行くことが出来ないトワイデル伯爵は、何と答えたら良いか迷っているようで歯切れが悪い。
「クローディア様、準備出来ておりますので連れていってください。」
重苦しい空気を消し去るように、爽やかで穏やかなミリアーナの声が響く。
「お父さま、お義母さま、ライラ。今までお世話になりました。それでは失礼いたします。」
潔い、簡潔な別れの挨拶は今までのミリアーナが育ってきた環境を表しているようだ。
「ミリアーナ様は本当に優秀ね。それでは後ほど必要な書類などはこちらへ届けさせます。みなさんごきげんよう。」
冷ややかな視線を伯爵家の面々に向けながら、クローディアは踵を返す。
背後でライラや夫人が興奮したように話す声が聞こえたが、それを耳に入れる必要性を誰も感じなかった。
「クローディア様、家族が無礼なことばかり申しましてすみません。」
「あら、”元”家族でしょうに。」
揶揄うようにクスリと笑いながら返事を返すと、ほっと息をつきミリアーナの頬は血の気を取り戻していく。
「ああ、本当にあの家族と離れることができるのですね。何から何までありがとうございます。」
「感謝なんていらないわ。だってこれからわたくしが望む方のところへ嫁いでいただくのだもの。あなたの希望なんて一切考慮もせず。」
吐き捨てるようにそう告げるクローディアの手を、ミリアーナは思わず握りしめる。
「いいえ、いいえ。前にも進めず、後ろにも戻れず、ただ立ち尽くすしかなかった私に、新たな道を作って下さったのはクローディア様です。この後どのような道につながろうとも、私は胸を張って前に進みます。だからお伝えさせて下さいませ。クローディア様、ありがとうございます。」
震える声を搾りだし、ミリアーナは泣いているような、それでいて晴れやかな笑顔で感謝の気持ちを伝えた。
「ミリアーナ様はそのお人好しな性格をどうにかなさい。すぐ騙されてしまってよ。」
ツンと横を向き、明らかに照れている主人を、ベリルは微笑ましいものを見る目で見守っていた。