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彼女の名前はキッカ。
職業は主様の雲雀である。
輝く黒髪にキッカなんかでは一生目にすることもない宝石のような緑の瞳、透けるような肌の白さに蠱惑的な体。
キッカの主様は端的に言って女神である。
一方キッカといえば、エキゾチックな名前を除くと全てが平凡。街を歩くと一瞬で溶け込める、モブ中のモブと言える。
街中で石を投げればキッカに似た女に当たるはず。それほどキッカはありきたりだ。
そんなキッカにも、一つだけ自分の中の唯一の宝物がある。
それは彼女の声だ。
乙女のような黄色い甲高さも、場末の酒場の酌婦のようなハスキーさも無い。とても平凡な声。
けれども不思議とその場に響く、魔法の声を持っている。
この声が彼女の主様の耳に届き、「私の雲雀」と呼んでもらえるようになったのだ。
キッカは久々の仕事に心が浮き立っている。黒髪の女神ことクローディア様のお役に立てることこそが、キッカの幸せだ。
「キッカ、待って。街まででしょう?一緒に行きましょう。」
雲雀の仲間であるサラが、後ろから声をかけた。王城からお仕着せを着た二人が歩いていると、メイドが私用でお出かけしているように見えるだろう。
「サラ。あなたもお買い物?」
目的地の前であっても余計なことは話さない。どこで何を聞かれているか分からないからだ。キッカとサラは親しい同僚の距離感で、乗合馬車へと乗り込んだ。
キッカとサラが目的地である雑貨店に到着したのは、夕方頃。丁度昼間の仕事を終えたメイドたちが、買い物に出かけてくる時間だ。
「ここに来たかったの。良い香りの石鹸が揃っているのですって。」
嬉しそうに笑うサラを演技だと思える人はいないだろう。この雑貨店は上質なものがリーズナブルな価格で手に入ると最近話題のお店だ。王城や貴族家にメイドとして勤める下級貴族の娘たちがメインターゲットとなっている。
二人が揃って店内を覗くと、やはり多くの娘たちが好みのものを物色している。
カランカラン
入口のベルが軽やかに鳴り、キッカとサラは仕事後の開放感を演じながら店内へと足を踏み入れた。
「サラ、石鹸が欲しかったのよね?」
「そう。今使っているものが残り少ないの。」
「あちらの棚にあるみたい。」
二人は談笑しながら雑貨店の中を見回す。キッカの大きくも小さくもない声は、不思議と店内にいる娘たちの耳に入っている。振り向くほどではない、けれどなぜか耳に残る声が響く。
いつもと同じ、多くの人の興味を引いていることに相方のサラは口の端を上げる。
「これこれ!同僚が良いって言ってて。」
サラのその言葉に応じるように、キッカは石鹸の香りを試す。
「確かに、良い香りなのに強すぎない。自然なのが好みかも。」
「でしょ!良いよね。」
周りの視線が石鹸の棚に集まっているのを確認し、キッカは計画を開始する。
「そう言えばこの間、トワイデル伯爵家の使用人から聞いたのだけど。」
しっかりと内緒話をするように声を抑えてキッカが話す。
「え?トワイデル伯爵家ってあの有名なご令嬢の?」
「しー!もう、大きな声出さないでよ。ここだけの話なんだから。」
キッカが石鹸をかごにいれながらそう言うと、周囲は余計に興味を持ったようだ。
「ごめんごめん。トワイデル伯爵家がどうしたの?」
「なんでも、あの噂、嘘らしいよ。」
「え?ご令嬢の姉のほうが妹を虐めているんでしょう?」
サラはみんなが知っていることをわざわざ合間に挟み、キッカの話しをわかりやすく説明する役割だ。
「実は妹の方が姉を嵌めてるみたい。嫌な噂を流したりしてるんですって。」
「ええ?それって本当?今までと真逆じゃない。」
「だっておかしいと思わない?妹が来るまでは完璧って言われたのに。実際に姉が妹を虐めている姿なんて見た人いないらしいし。」
「それが本当なら妹は恐ろしい悪女じゃない。」
キッカとサラの二人は一緒に「怖い怖い。」と言いながら、石鹸の棚から移動する。
「キッカは何が欲しいの?」
「私は保湿クリーム。手荒れが酷くって。」
「水仕事するとどうしてもね。」
そんな話をしながらも、周囲がしっかりと聞き耳を立てていることを確認する。
「さっきの続きなんだけどさ。」
「トワイデル伯爵家?」
「そうそう。姉の方の婚約者、妹が色目使っているらしいわ。」
「ええ?姉の婚約者を?でも噂では、いつも出かける直前に姉の方が我儘を言うとかじゃなかった?」
「でも観劇に街歩き、植物園、あらゆる場所で見かけられているらしいわ。一度ならともかく、何度もとなるとおかしいでしょう?」
「そう言われてみれば。なんで今まで不思議に思わなかったんだろう?」
「それだけ妹のいうことに妙な説得力があるんじゃない?でも冷静に考えてみれば矛盾だらけでしょ。だから私、今回の噂は本当なんじゃないかと思って。」
「それ、本当だったらトワイデル伯爵家の姉の方、可哀そう過ぎるでしょ。」
そこまで話すとキッカとサラは商品の代金を支払い、雑貨屋の外へと出た。退店するまで店内は、二人の会話を聞き洩らさないようにしんとしていた。
今日はキッカとサラ以外にも、王都のあらゆる場所で同じ噂が囁かれている。どこも比較的口が堅そうな、真面目なご令嬢が集まる場所だ。
信じなくても良い。
ただ、心にひっそりと潜む優しい毒であれば良い。
忘れられないその毒は、しばらく後に真実だと確信することになるだろう。
「キッカ、そろそろ帰ろっか?」
「そうね。欲しいものは手に入れたし。」
二人は笑い合い、王城へと戻る乗合馬車へと向かった。