二日目
入院二日目。
正確には私が目を覚ましてから二日目。
記憶はまだ戻らず。
頭痛も相変わらず。
変化したところをしいて挙げるなら、吐き気が追加された事か。
――眠っている間に脳は、記憶の整理などをしている。
なぜかそんな知識が、ふと頭に思い浮かんだ。
おそらく知識記憶を失っていないからだと思うが、とにかくその私の脳は昨夜に見た、夢だか現実だかまったく分からないモノのせいで寝不足に陥り……その性能を著しく低下させていた。
まぁ寝不足ではなかったとしても、記憶を取り戻す何かが脳内で起こるとは限らないけど。とにかく寝不足はつらい。しかし、だからといって寝れば……また怪人を見てしまうかもしれないので容易に眠る事はできない。
私を悩ませるあの血みどろの怪人はいったい何なのか。
まさかとは思うが、私が巻き込まれた交通事故の被害者の幽霊なのか。それとも記憶喪失になったせいで神経質になった私が見ている幻覚なのか。
まぁどちらであろうとも……とにかく私は眠りたかった。
でも、いったいどうすれば解決できるんだろう。
というかそれ以前に……誰に相談すべきなのだろうか。
医者?
霊媒師?
セラピスト?
でも私はその人達に診てもらうための金を払えるだろうか。
というか医者やセラピストはともかく……霊媒師を雇った場合、相手が本物だと証明できるのだろうか。
「桐谷さん、朝の健診の時間で~す」
とそんな事を考えている内に、昨日も私を診た先生が看護師と共に病室に入ってきた。
私は、さっそく昨夜の出来事を話そうかと思ったけど……やめた。
こんな事を言ったところで、絶対バカにされる。
大人なんて、都合の良い事しか頭に入れな……って、あれ?
私、なんでこんな事を大人に対して思ってんだ?
※
結局、私の健診は、昨夜の事を話さないまま終わった。
私の中で急に湧き起こった、大人に対する怒りに従った結果だ。
もしやこの気持ちは、私が記憶を失う前にもあったモノだろうか。
とりあえず医者の先生には、まだ記憶が戻らない事を伝えたが……もしかするとこの気持ちは、私が記憶を取り戻す、キッカケになるんじゃないだろうか。
……なんて思ったけど、だからといって年上の大人と長い間一緒にいると思うと不快指数が上がるので、もし年上の大人が一緒にいないと記憶が戻らないとしても一緒にいたくはない。
というか、私としては……記憶が戻らなくてもいいから、柳瀬さんや他の同級生と一緒にいたい。柳瀬さんのボディガードの人は……まぁいてもいなくてもどっちでもいいかな。
にしても、私はどうしてそこまで大人に対して怒りを覚えているのだろうか。
もしかして、本当に私は、大人を信用できない環境の中で生きてきて。そのせいで……両親と勘当したりしたのか。
とそこまで考えた時だった。
私の病室のドアが開けられた。
「入るわよ」
と同時に、柳瀬さんや看護師ではない女性の声が私の耳に届く。
今度は誰だろうと思い、そのまま顔を向けると……そこには、勝気そうな印象を与えるツリ目と、ウェーブのかかった茶髪が特徴の女性がいた。
なんというか……おしとやかなお嬢様然とした柳瀬さんとは違い、目の前の女性は我儘放題なお嬢様然としている。
まぁ本当に我儘なのかどうかは分からないけど、少なくとも私にはそう感じた。
「思ったより元気そうね。安心したわ」
そう言うなり、彼女は持っていた物をベッド横の台の上に置いた。
いったい何だと顔を向けると、そこには果物の詰まったカゴがあった。お見舞いの品としてはもっとも有名なアレだ。
そして、そのカゴの横には、細い紐で口を縛られた、小さい布袋が置いてある。もしかして……お守り、なのだろうか?
「感謝しなさいよね」
でもってそもそもこのお見舞いの品の正式名称って何だろなー、なんて考えようとした時だった。お見舞いに来た女性が恩着せがましい事を言ってきた。
「この私が、仕事が長引いて朝帰りの私が、朝一で、青果店で買ってきてあげたんだから……粗末にしたら許さないわよ?」
けどそう言われては、ちょっとは感謝したくなった。
というかいきなり名乗りもせず……この人はいったい誰なんだろう?
「あ、あの……どちら様で?」
朝帰りと聞くと、なんかいやらしさを感じるけど、訊かずにはいられなかった。
「あ、そういえば記憶ないんだったわね」
女性は、今思い出したかのようにそう言うと、
「私の名前は羽澤美緒。アンタと同じゼミの生徒よ。まあ、めったに会わなかったけどね。お互いにいろいろあって」
と自己紹介した。
「あ、そうなんだ。お見舞いありが――」
私は羽澤さんにお礼を言おうとした。
「じゃ、私は帰るから」
だがその前に羽澤さんはそう言った。
「は?」
予想外の事が起き、私の頭は一瞬混乱した。
「ただでさえ本業忙しいのに、アイツに言われて授業も出なきゃいけないから最近疲れがたまって眠いのよ。ここで寝ていいなら寝るけど、迷惑でしょ?」
「………………ま、まぁ……そうだけど」
「じゃあ私帰るから。お見舞いに来てあげたんだから、同級生として、それなりに義理は果たしたわよね? じゃあまた予定が空いたら来るから」
そう言うと、すぐに羽澤さんはスタスタと病室を出ていった。
よくよく思い返してみれば、彼女の目は充血していたような気がする。
朝帰りの影響だろうか。というか学業とは別に本業があるとか言っていたけど、いったい彼女は何の仕事をしてるんだ? というかアイツって?
※
その日は羽澤さん以外、誰もお見舞いに来なかった。
昨日の柳瀬さんの話が事実なら、みんな私のお見舞いに来れるほど暇じゃあないんだろう。
……でも……それでも、みんなに来てほしいと思う。
みんなといろいろ話して、少しでも。
この不安を。寂しさを。やわらげたかった。
でもそれは、私の一方的な我儘。
柳瀬さんや羽澤さんや、他の、同じゼミの同級生の事を、本気で思うならば……強制させてはいけない私のエゴだ。
たとえ、柳瀬さんと羽澤さん以外の人の顔が分からなくても。
……もうこうなったら、また眠ろうか。
暇で暇で。寂しくて寂しくて。私は……昨夜の恐怖体験を頭の中から追い出し、再び夢の中に逃げようと思った。
そして、私は……ベッドに寝転び、目を閉じようとした。
するとその瞬間。
視界の隅に、またあの怪人が映った。
病室のドアの横の辺り。
そこに怪人は……いた。
怪人はただ、私の方を見ている……ように見えた。
顔のほとんどに影が差してるから、表情は分からないけど……なんとか見えた目が――飛び出した左目が――私を見ていた。
私は思わず叫ぼうとした。
しかしそこで私は気づいた。
――自分の体が、一切動かない事に。
まさか、これが俗にいう金縛りというモノだろうか。
だったら私は、頭だけ目覚めて体が眠ってる状態なんだろう。
稀にしか起こらない、手術中に麻酔が切れてしまう事案に近いモノだ。
頭だけ目覚めてるせいか、すぐにそんな知識が頭に浮かぶ。
知識記憶だろうか。でもこの状況じゃどうにもならない知識だ。
そして、そんな事を考えている私に怪人は……どうした事だろうか。近づいたりしてこなかった。
金縛り状態の私には、なんだか都合の良い展開だけど……いったい、怪人はこの病室で何がしたいんだろう。
……まさかとは思うけど、寂しいと思った私の事を心配したのだろうか?
いや、それこそご都合主義だ。
目の前の怪人が、イマジナリーフレンドでもない限り。
というかもしそうだとしたら……怖いどころか、幽霊……かどうかは分からないけど、とにかく幽霊にまで心配されて、とても恥ずかしい。
と、私が恥ずかしさを覚えた時。
私がいる病室のドアが開く音がした。
同時に「よぉ、元気?」と、声がかかる。
まさか、こんな時に訪問者?
いったい誰だと思ったが、金縛りのせいで相手の顔を見れない。
でも相手に声をかけないのは失礼なので、私はなんとか頑張って体を動かそうとして……そして事は動いた。
最初に感じたのは、ピリッと空気中に電流が迸ったような……嫌な感じ。
いったい何が起こったのか。
動けない状況で、私は思った。
そして。
今度は病室の台が――動いた。
まるでちゃぶ台をひっくり返すような勢いで、台が宙を舞い、病室の出入口へと飛んでいく。
「わ」と誰かが叫ぶ。
さっき訪問した人の声か。
次に廊下の方から、ドカッと激突音。
台が廊下の壁にぶつかったのかもしれない。
「な、なんだよコレ!?」
訪問者の裏返った声がした。
と同時にキュッキュッと音が聞こえ、その音はいつしか足音に変化した。
もしかすると、訪問者は逃げ出そうとしたけど、腰が抜けて、うまく立ち上がれなくて、靴で何度も廊下をこすって……それでも、なんとか立ち上がって、逃げたのかもしれない。
というか、その訪問者を襲ったのって……まさか、騒霊現象ってヤツなのか?
それも、今も私の視界の隅にいる怪人が起こした……。
でも、なんで今そんな事が起きたんだ?
それも、私にじゃなく、訪問者に攻撃するなんて……。
「おい、どうした!?」
「今、凄い音したけど……」
「え、台ふっ飛んでる?」
そんな事を考えていると、近くにいた病院の先生や看護師が集まってきた。
病室の台が飛ぶ、なんていう異常事態が起きたのだから当然かもしれない。
でも大勢集まったら、この怪人の起こしてる騒霊現象の被害者が、さらに増えるんじゃ……?
私はその事に気づくや否や、慌てて「に、逃げ――」と声を上げて……気づく。
いつの間にやら、私の金縛りが解けている。
まさかと思い、先ほど怪人がいたドアに目を向けた。
……そこにはすでに、何者もいなかった。
※
夜。
面会時間が過ぎた頃。
私はベッドで仰向けになりながら考えていた。
騒霊現象が起きた事から分かる通り、私は怪人……というか幽霊に取り憑かれている。
でもその幽霊は、最初に騒霊現象を引き起こしたっきり、私に対しては何もしてこなかった。
しいて言えば、時々だけど、私を金縛りにして、そんな状態の私をただ見続ける……という、意味が分からない事をしているが。
まさか、私に取り憑いている幽霊がアクションを起こすのは……なんらかの条件が重なった時なのか。
いくら考えても、答えは出ない。
とりあえず分かっているのは、私をすぐ害そうとするほどの敵意が幽霊にない事くらいか。
私に取り憑いてる、蒼白な肌の血だらけの幽霊が喋ってくれれば、そこのところが分かるんだけど……喋らないんじゃどうしようもない。
「はぁ……いったい、お前は誰なんだ?」
幽霊に届くかどうかはともかく、私は呟いてみた。
しかし答えは返ってこない。この場に幽霊がいないのか、それともただ単に喋らないだけかは分からないけど。
でも、敵意がないというのならば。
とりあえずは、普通に眠れるくらい安心できるワケで。
私は眠気に逆らわず……眠る事にした。
※
違和感を覚え、頭だけ覚醒した。
眠気は残ったまま。目はまだ閉じたまま。
でも……その違和感のせいでなかなか寝つけない。
仕方なく、私は、違和感の正体を探ろうと目を開けた。
しかし目の前に広がるのは、暗闇だけ。
夜なのだから仕方ないとは思うけど、それにしては……暗すぎた。
騒霊現象が起きてからしばらくして……私はカーテン、そして廊下へと続くドアを確かに閉じた。
だが夜だろうと、明かりが一切存在しないという事はない。少しくらい隙間から明かりがこぼれ出るハズだった。
なのになんで、こんな……まるで隙間すらない完全な密室に閉じ込められたように暗いんだ?
ワケが分からず、私は、とりあえず動こうとした。
するとそこで私は……気づいた。
私の両腕が、バンザイさせられた状態で、動かない事に。
いや、両腕だけじゃない。
体も、まるで誰かが乗っているかのように重くて動かない。
ま、まさかまた金縛り、なのか?
でもそれにしては、人並みの温かさもあるような……?
「起きたかよ」
するとその時、声が聞こえた。
「よくもあの時、俺を裏切りやがったなこのアバズレが」
怒気が込められた、男の声がする。
その男が、ワケが分からない事を言う。
私に向けて言っている事は、分かった。
だけど記憶がない私には、何の事か分からない。
だから私は、男に、まず誰なのかを訊こうとした……だけど、うまく声を出せなかった。
いったいどうなっているのかと、いまだに何も見えない状態で、自分の体の状態を確認すると……口が、そして目が、布のような物で縛られているのが分かった。
目隠しと猿ぐつわだ。
そしてさっきから気になっていた両腕も……いやよく確認すると両足首も、布のような物で縛られている。
体がなんだか重いのも、声を出した男が私の上に乗っかっているせいか。
私は完全に、身動きができない状態だった。
「俺を散々振り回して、それで好きな男ができたからってすぐに乗り換えやがって……俺がお前にどれだけ尽くしてきたと思ってんだ、あ゛ぁ゛?」
…………い、いったいこの人は……何を言っているんだ?
私が、誰かも分からないお前を振り回して、それで別の男と付き合った?
そ、それは、本当に……私なのか?
記憶を失う前の、私、なのか……?
私が忘れてしまった私を知っている男の発言に、私は動揺した。
もしかして、親に勘当されているんじゃないかと思ったりもしたけど……私は、そんなひどい……勘当されても仕方がないような人間だったのか?
記憶喪失だから、本当の事は分からない。
だからこの男の発言も信用できないかもしれない……けど、私の両親がいつまで経っても来ない事実を前に、私の心は揺れていた。
私は……人を振り回すような、ひどい人間だったのか?
「でも俺は、そんな事で怒らない人間だ。幸運にもあいつは死んだ。だからお前の彼氏と偽って見舞いに来てみりゃ、いきなり物が飛んできてひどい目に遭ったぜ」
…………お前は、まさかあの時の来訪者?
「おかげで尻もちついて、フードが取れて、俺の顔がこの病院に設置されてる監視カメラに映っちまったよどうしてくれんだよぉぉぉぉーーーーッ!」
こ、こいつはいったい何を言っているんだ?
監視カメラに撮られて不都合でも……まさかこの人……犯罪者、なのか?
でもそれなら、ロクでもない私の知り合いというなら……納得かもしれない。
「もう捕まるのも時間の問題だ。でもよぉ、俺はお前が許せなくてよぉ……だからさぁ、捕まる前にせめてお前を思う存分、慰み者にしてやろうと思ったんだぁ」
そして相手がそう言った瞬間。
私の背筋に、冷たいモノが走った。
見ず知らずの相手。
私の知り合いらしい犯罪者。
そいつが私を拘束して、私を襲おうとしている。
その状況をイメージして、私は、貞操もそうだけど……それ以上に命の危機さえ覚えた。
「でもってよぉ、よく分かんねぇけどよぉ……また物が飛んできちゃ敵わねぇからよぉ……今回は神社のお守りを大量に持参したからよぉ……もう幽霊? 的なモノはモーマンタイだぜぇ?」
そう言いながら、そいつは私の着てる入院患者用の服の胸元をまさぐってくる。不快感が胸元を中心に広がった。やめてと言おうとした。でも猿ぐつわをされてるから大きな声が出ない。不快感が胸元から全身に伝わる。まるで虫が全身を這っているような不快感。
……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……嫌だ!!
私は本当に……こんな事をされなければいけないくらいひどい事を、お前にしたのか? 私は……こんな事をされるのが当然のひどい女なのか? 記憶がないからそれは確かめようがない……でも、でもせめて……報いを受けるなら、記憶を取り戻してからがいい!!
お前が刑務所に行くなら、私が記憶を取り戻したら、いくらでも刑務所に謝りに行くから……だから……だから……。
――助けて!!
私は叫んだ。
心の中で。ありったけの思いを込めて。
すると、その願いが天に通じたのだろうか。
急に体が軽くなった。体の上から男がどいたとしか思えないような開放感が全身に行き渡る。
でもいったい、なんで……?
助かった事に安堵しながらも、なぜ助かったのか私は疑問に思った。
「ぐ、あ……がっ……」
とその時。うめき声が聞こえた。
まるで、呼吸困難の人間が出しそうな声だ。
いったい何が起こったのか。私は本気で気になり、暴れた。
そしていくらか暴れれば、目隠しがずれて、下部に五ミリほどの隙間ができた。
すぐに顎を上げ、視線を下に向ける。
すると私の目に、自分で自分の首を押さえた……私を襲っていた男らしきヤツが映り……。
「そこまでです!! それ以上は、もう後戻りできなくなりますよ?」
とその時だった。
今この場にはいないハズの――。
――柳瀬一美さんの声が、病室中に響き渡った。