一日目
一応ホラーですが、ロー・ファンタジーの方が近いかもしれません。
目を覚ますと、目の前に知らない天井があった。
自分が、どこかの部屋に寝かされている事を把握したのは、それから数秒後。
それからしばらくして、鼻にツンとした、私には不快な臭いが入ってきた。
それがアルコールの臭いだという事に気づいたのは……巡回で部屋に入ってきた看護師を、視界の隅に捉えた時だった。
「あ、桐谷さん!」
看護師は驚いた顔を一瞬したが、すぐ嬉しそうな顔になり「目を覚ましたんですね、よかった! すぐに先生を呼んできますね!」と言って部屋から出ていった。
「…………桐谷?」
するとそこで、私は違和感を覚えた。
私は桐谷という名前だったのか、と他人に名前を呼ばれて初めて気づいた、自分の存在に気づいたのだ。
普通であれば、ありえない状況。
ベッドに横たわったまま、私は今の自分の状況を分析する。
私の名前は、桐谷………………桐谷、何だ……?
どうも私は、記憶喪失になったらしい。
※
それからしばらくして。
私の担当の先生が先ほどの看護師と病室に入ってきた。
まるでどこかのファストフード店の創設者みたいな顔をした初老の先生だった。
「なるほど。桐谷くんは記憶喪失になったみたいだね」
体調の事を訊いてきたので、正直に、起きたばかりで体がだるい事と……自分の名前とかが思い出せない事を伝えると、先生は少しの間を置いてそう答えた。
やはりそうか、と納得したが、同時に不安にもなった。
自分はいったい何者なのか。
それが分からないだけで、足元、いやそれだけじゃなく、私が認識している全てが崩れるかもしれない不安を覚える。
「だけどまぁ、無理に思い出さない方がいい」
そんな今にも不安に押し潰されそうな私に、先生は信じられない事を言った。
いったい何を言うんだ、と私はつい怒鳴ってやりたくなったが、その前に先生は「君は……交通事故に巻き込まれたんだ」と静かに告げた。
「交通、事故……?」
驚愕と納得が、私の中で起こった。
確かにそれくらいの事が起きたら記憶喪失にもなる。
「嫌な瞬間を今すぐ思い出さなくてもいい。ゆっくり、時間をかけてもいいから、いつ思い出してもいいように、覚悟を決めておきなさい」
ここは、私を慰めたりする場面じゃないかと思ったが、逆を言えば、そう言わなければいけないほど、私は深刻な場面を目撃したのかもしれない。
それから先生は、私は地面に体を打ちつけたりしたものの、特に目立った外傷はないからすぐに退院できる事、そして記憶喪失については……当たり前だけど病院では治しようがないため、退院後に経過観察する事を告げた。
必要事項を全て伝え終えると、先生は看護師と病室から出ていった。
それからの私は、当然だけど退屈だった。
私物と思われる荷物は、先生達が出ていった後、上半身を起こした際に、ベッドの横に設置してある入院患者用の台の上にあるのを発見し、中を物色してみたが、漫画や小説の類は入っていなかった。着替えや洗面用具を始めとする生活用品しかない。
病院でこんな事を思うのは、アレだとは思うけど……このままじゃ、退屈で死にそうだ。もう夢の中にしか、私の退屈を紛らわしてくれるモノは存在しないのか。
そう思い、私は横になり再び寝ようと思った……のだが、
「こんにちは」
という声が、病室のドアが開かれる音と共に耳に入った。
まるで鈴が鳴っているかのような、聞いているだけでとても癒やされる声だ。
視線だけ動かして声がした方を見ると、まずカチューシャをつけた姫カットと、その姫カットの女性を乗せて動く車椅子が見えた。
そして肝心の姫カットの女性だが……まるで漫画などに出てくる病弱なお嬢様をそのまま形にしたかのような、儚い印象を受ける綺麗な人だった。
だがその印象は、すぐに、彼女よりもさらに強烈な存在により上書きされた。
その強烈な存在とは、何を隠そう、車椅子を後ろから押している、まるで財閥のお嬢様を守るボディガードの如き屈強な男だ。
スーツを着ていても分かる彼の筋骨隆々な肉体、そして全身からにじみ出る威圧感は、仕える相手が持つ儚げな印象を完全にぶち壊している。
この部屋に入ってきたという事は、彼女達は私の知り合いだろうか。
だがお嬢様然とした姫カットの女性と筋骨隆々なボディガードのような男が知り合いなんて……私は記憶を失う前にいったいどんな日常を送っていたのだろうか。
「記憶がないとお聞きしましたけど……元気そうで何よりです、桐谷さん」
女性はニコリと、タレ目を細め、自然に笑いながら言った。
「あ、どうも。……それで、あの……あなたは?」
私は知らないのに、相手は知っている。
そのハンディキャップに、悩まされながらも、それを顔には出さず、上半身だけ起こしつつ訊ねた。
「あ……そうですよね。ごめんなさい、自己紹介が遅れました」
女性は本当に申し訳なさそうに、一度シュンとした後、
「私の名前は柳瀬一美といいます。あなたと同じ大学に通ってて、同じゼミに出ていて……まぁ二、三度話した仲ですけど、それでも心配でお見舞いに来ました」
すぐに表情を明るくしながらそう言った。
「そ、そうなんだ。あ、ありがと……」
私は、柳瀬さんがお見舞いに来てくれた事を嬉しく感じていた。だけど、そんな彼女の事を知らない自分に嫌気が差し、つい適当な返事をしてしまった。
「気にしないでください。同じゼミの仲間じゃないですか」
しかし柳瀬さんは、そんな私の態度を気にしないでくれた。
なんだか物凄く申し訳ない気持ちになるが、その直後に柳瀬さんは、私の気持ちを察してくれたのか、別の話題を振ってきた。
「そういえば、中塚教授……あ、私達が在籍しているゼミの教授の事です。その、中塚教授が嘆いていましたよ?」
そこまで言うと、柳瀬さんはなぜか口をとがらせ、眉間にしわを寄せ「これじゃあ、桐谷くんに借りた夜食代を、まだ返せないじゃないか。記憶喪失というのは、ケースが少ないから確定事項でこそないが……記憶を取り戻した瞬間、記憶がない間の記憶が消えるというじゃあないか。今返しても返した事を忘れられる可能性があるぞ」と、モノマネなのか男性の声にとても近いクオリティの太い声を出した。
「――って」
そして最後に、普通の声に戻した。
するとその時だった。
驚いた事に、彼女の車椅子を押していた、屈強なボディガードがプルプルと体を震わせた。
まさかこの人、笑いをこらえているんだろうか。
普通そういうボディガードって、守っている対象に何かあってはいけないから、隙を作らないものだと思っていたのだけど……意外だ。
いや……まさかだけど、柳瀬さんがモノマネをした中塚教授という人はモノマネの通りに、生徒である私から夜食代を借りるような人なのだろうか。
「ていうか、それって心配してくれてるの?」
金銭のやりとりの事も確かに気になるが、本当に中塚教授がモノマネの通りの事を言っていたとするなら……私の事をあまり心配していないんじゃないかと思い、訊ねた。
「お金を返した事を忘れられる可能性があるって言う事は、いつか必ず、桐谷さんは記憶を取り戻すと信じているって、意味にも取れますよ?」
柳瀬さんは、私とは別の解釈をした。
信じている。確かにその通りの解釈もできるけど、どっちにしろ心配してないんだな、とも思った。
「あぁでも、私用を済ませたらすぐにお見舞いに行くとも言っていました」
「私用?」
記憶喪失の生徒の事より大事な私用があるのか。
「そもそも教授が、桐谷さんが事故に遭って、記憶喪失になった事を知ったのは、イギリスにいるご友人に久しぶりに会いに行っていた時でしたから」
「えっ!? そ、そなんだ」
中塚教授、外国に行ってたのか。
それなら、まぁ……すぐにお見舞いに来れないのも納得かな?
「だから、中塚教授の事は怒らないであげてくださいね?」
「…………他の……」
教授の事は、まぁいいとして。
「他のゼミの人は……」
――お見舞いに来ないのか?
そう訊こうとして、とっさに口をつぐんだ。
なんだこの質問は。これじゃまるでかまってちゃんじゃないか。
「ああ。中塚教授のゼミは生徒数が少なくて……」
柳瀬さんは斜め上に視線を向けながら苦笑した。
「それに、今は夏休みだから……実家に帰っている生徒が大半なんです」
「…………そっか。夏休みか」
病室は冷暖房完備だから、外が夏だなんて気づかなかった。
「それで私が、いち早く桐谷さんのお見舞いに来たんです」
「……柳瀬さんは、実家に帰らなかったんだ」
かまってちゃんな自分を打ち消すため、私はわざと突き放すような質問をした。
だけど、言ってから後悔した。これじゃあ来てくれた柳瀬さんを不快にさせて、次からは来てくれなくなるじゃないか。
「……記憶喪失でも、桐谷さんは桐谷さんですね」
しかし柳瀬さんは気にした様子もなく、
「どこかツンデレなところがあって、私は可愛いと思います」
「ツンデレじゃねぇよ!」
それどころかとんちんかんな事を言ってきた。
思わずツッコミを入れてしまったじゃないか。
というか……私は記憶を失う前もこんなんだったのか。
かつての自分を忘れ、自分の足元が崩れるかのような不安を抱えていた私には、ちょっと嬉しい事実だった。
「ほら、その照れてツッコむところも以前のあなたと同じ」
「いやだから照れてねぇよ!」
というかリアクションまで同じなのか、記憶を失う前の私。
※
それから私は、柳瀬さんといろいろ話をした。
柳瀬さんとのお喋りは、時間を忘れるくらい楽しかった。
でも残念な事に、その時間は永遠じゃなかった。いつの間にか病室に茜色の西日が差し始め……楽しい時間は、終わりを告げた。
「そろそろ帰らせていただきますね。ルームシェアしている子がおなかを空かせていますでしょうし」
「あ、ああ。またな」
手を振った柳瀬さんに、私も手を振り返す。
「はい。また時間があればお見舞いに来ますね。堅至くん、お願いします」
「はい。お嬢」
今さらながら、柳瀬さんのボディガードの男の名前を知った。
というかお嬢って……金持ちのお嬢様? それともヤーさんのお嬢?
そこのところが、ちょっと気になったけれど……深く追求する事に、少し恐怖を覚え、あえて私は何も言わなかった。
だけど柳瀬さんは、何を思ったのか、病室を出る直前に堅至さんに、止まるよう指示をし、
「そういえば、ここに来る前……病院の近くでパトカーをたくさん見ましたけど、近くで何か事件でもあったのでしょうか?」
私にそう訊ねてきた。
「事件?」
私が眠っていた時だろうか。
それとも先生の診察を受けている時だろうか。
どちらにせよ、私は何も気づかなかったため、その事を柳瀬さんに伝えた。
「そうですか。なんだか物騒だと思いましたので……一応、警戒していてくださいね?」
「ああ。ありがとう」
最後にそう言葉を交わして、柳瀬さん達は今度こそ、病室を出ていった。
※
柳瀬さん達が出ていった後は、誰もお見舞いに来なかった。
大学の関係者については……柳瀬さんの言う通りだとして、私の両親とかはなぜお見舞いに来ないんだ?
まさかとは思うけど、私と勘当してたりして?
いや、もしかして……すでに二人とも死んでいるとか?
「まぁ、どうでもいっか」
何にせよ、柳瀬さん達が来てくれただけで、私は嬉しい。
大学で私がどんな立ち位置にいるかは分からないけど、少なくとも柳瀬さんは私の味方になってくれる。
それを知れて、少しだけ……記憶がない不安がなくなったから。
するとその時、再びドアが開いた。
もしかして、両親がお見舞いに来たのか……と思ったが、
「桐谷さ~ん、お食事の時間で~す」
残念ながら、夕食を持ってきてくれた看護師だった。
いや、ちょうど小腹が減ってきていたのでありがたいけど。
※
食事を三十分くらいかけて終え、食器が片づけられると……私は歯みがきをするために起き上がった。
頭がちょっと痛くなった。
交通事故に遭ったって、先生が言っていたから……おそらくその時に打ったんだろうな。
そう思いながら、私は病室内の洗面台の前に立った。
と同時に、私は信じられないモノを見た。
洗面台には当たり前のように設置されている、鏡。
病室の洗面台にも、もちろん設置されているそれは、左右反転した私……そして私の背後にいる何かを映した。
その瞬間。
背筋に電流のようなモノが走る。
脳が危険だと察知する前に、体が反射的に後ろを振り返った。
しかし、すでにそこには……何者もいなかった。
おかしい。
今確かに、頭から血を流した誰かが……。
私しかいない、この病室にいるハズのない、誰かが背後に……。
※
その夜。
私は、当たり前だけど眠る事ができなかった。
歯みがきしようとした時に見た、謎の怪人。
頭から血を流し、青ざめた肌をした……まるで死体のような存在……。
そんな気味の悪いモノを見たから、怖くて眠れないのだ。
もしかすると眠ったら、夢の中にまで出てくるんじゃないかという想像が頭の中に広がる。けど寝ないなら寝ないで、また見るかもしれないという恐怖もあった。
幻覚だ。
私は自分に言い聞かせた。
記憶喪失による不安が見せた幻覚だ。
自分が巻き込まれたという交通事故の被害者を、勝手に想像しているだけだ。
しかし自分自身に強く暗示をかける気でそう言い聞かせても、どうしても眠気がやってこない。
見てはいけない、恐ろしい何かを見てしまった事による興奮が、強引に私の眠気を吹き飛ばす。
でも寝なきゃ。
寝不足で体調が悪くなっては退院が遅れる。
早く元気になって、記憶を取り戻して……元の生活に戻らなくちゃ。
そう思い、目をつぶった。
と同時に、私は異変に気づいた。
気配を感じた。
それも、真正面――天井の方から。
まさか、また血だらけの怪人が現れたのか。
だとしたら、もう見ない。絶対になんとしても見ない。
だけど、そう強く思うのと同じくらい……私は、目の前にいったい何者がいるのか、とても気になった。
――まさか、別の病室の患者が……寝ぼけて私の部屋に来たんじゃ?
思わずそんな、ありえなくはないだろうけど、それならそれでなんで足音しないのか、とかの疑問が残る憶測が、頭に思い浮かんだ。
――でももし本当にそうだとしたら、その患者は間違って私の布団の中に入ってくるかもしれない。今の内に確認・注意せねば。
最終的にそんな結論を出してしまい、私は目を開け……見開いた。
天井に……例の死体のような怪人が張りついていた。
まるで天井の方が重力の正しい方向だと言いたげに、それは天井に……眠るように張りついていた。
月明かりは多少入ってくるが、それでも薄暗いため、全体像が把握できない。
もしも相手が幻覚だとしたら、もしかすると……全体像が見えれば、恐怖の正体さえ詳しく知れば、消えてくれるんじゃないか。
正体不明の怪人を目にして。
恐怖のあまり混乱する頭で……私は、目の前の恐怖をどうにかしたいあまり……そう結論を出した。
そして目の前の怪人を、さらによく観察しようとした瞬間。
突然、天井に眠るように張りついていたその怪人が目を開けた。
右目がなくなって、できた穴と。
奥で繋がっているが、外に飛び出している左目が見えて――。
※
――私は、夜中に目を覚ました。
今のは、夢だったのか。
だとしたら、どこから夢だったんだ?
私は混乱した。
そしてそのせいで、その夜……私は眠れなかった。




