人魚にバラの花束を
満月の下、赤い花が波間に揺れる。波がちゃぽんと音を立てると花は海の中に沈んでいった。海中でゆらゆらと流されながら、花は明るく温かな人魚の国にたどり着く。人魚の国に住むリリーと彼女のおばさんは満月の日になるとどこからか流れて来るこの赤い花を探して国の周りを泳いでいた。
「うふふ、見つけた」
まだ若い少女の人魚リリーはこの花が大好きだった。リリーは嬉しそうに花を手の中へ隠す。しかしそれを厳しいおばさんが見逃すはずもない。
「よく見つけたわね、リリー。さぁ、それをこちらに渡しなさい」
リリーは両手で花を隠しながらおばさんを見上げた。おばさんの眉毛はキッとななめになって青い目がぎらりと光っている。両親のいないリリーにとって親代わりのおばさんの言うことは絶対だった。リリーが花をおばさんへ渡すとおばさんは汚いものでもつまむように身体から離して手に持った。
「ねぇおばさん、こんなきれいな花に悪い力があるなんてやっぱり信じられないわ」
「リリーは分かっていないね。悪いものほど美しく魅力的なんだ。そうやって人の心を惑わすんだよ」
おばさんはそう言うとリリーの目の前で花びらをむしり取り、めちゃくちゃにしてしまった。
「なんだかかわいそうだわ」
「かわいそうだって? 冗談じゃない。これが魔女の手に渡れば魔女はこれを使ってとても恐ろしい魔法を使うんだよ!」
おばさんの言う魔女は国のはずれに一人で住んでいる人魚のことだった。リリーはその魔女を見たことはない。しかし人魚の国の人魚たちはみんな魔女のことを変わり者で恐ろしい人魚だと避けていた。特におばさんは魔女が気に入らないようで魔女が魔法を使わないよういつもピリピリとしていた。
「さぁ、他にも流れてきていないか探しに行くよ!」
リリーはとぼとぼとおばさんの後をついて泳ぐ。ばらばらになった花びらがひらひらとリリーを通り過ぎていった。リリーはおばさんにばれないようにこっそり花びらを1枚手に取ると貝のブレスレットの中へとしまった。
その晩、リリーは自分の部屋で花びらを眺めていた。目が覚めるように真っ赤な花びらはとても美しくいつまでも見ていられた。
「花を愛しく思う私はおかしな人魚なのかしら?」
真っ赤な花は満月の日に決まって流れて来る。しかしおばさんは花が流れ着くたびに一つ残らず処分してしまう。1枚でも花びらを持ち帰ったと知られればただじゃ済まないだろう。
するとコンコンとノックの音がしておばさんの声がした。
「リリー! お客様が来たから挨拶しにいらっしゃい」
リリーはあわてて花びらをブレスレットへ隠すと部屋を出た。リリーが客間へ行くと待っていたのは大きくて立派なウミガメだった。
「ホヌおじさん! 来てくれたのね!」
「やあ、リリー。相変わらずおてんば娘なようだね」
300歳を超えているホヌおじさんは広い海をずっと旅していて、こうして時々人魚の国にも立ち寄った。
「あらいけない。私ったら海藻のお茶を切らしていたわ」
おばさんは空になったお茶入れをのぞき込む。それを聞いたホヌおじさんはわざとらしいほど大げさにため息をついた。
「そうか、それは残念だ。私は君のお茶を飲むのが何より楽しみだったんだよ」
「ホヌおじさんたらお世辞はよしてくださいよ」
「お世辞なんかであるものかね。君の入れてくれるお茶はこの海で一番おいしい。君のお茶を飲むと旅の疲れも忘れてしまうくらいさ」
おじさんの言葉におばさんは目を輝かせた。
「あらまあ! おじさんがそこまで言うのなら急いで海藻を摘んできますわ。ちょっと待っていてくださいな」
おばさんが嬉しそうに家を出て行くとホヌおじさんはリリーにウィンクした。
「さぁ邪魔者はいなくなったね。何の話をしようか」
経験豊かなおじさんはいつもリリーに旅の面白い話をしてくれた。氷で包まれた寒い海のお話、島のように巨大なクジラのお話。そして何より刺激的で楽しいのはホヌおじさんが出会った人間のお話。でもおばさんは人魚の国以外のことにリリーが興味を持つことをとても嫌がる。だからおじさんはおばさんにあんなことを言ったのだった。
「おじさん、旅の話も聞きたいのだけどそれよりもおじさんに聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
リリーはブレスレットの中から花びらを出しておじさんに見せた。おじさんはまん丸の目でじっとリリーの手の平をのぞき込んだ。
「おお、これは花びらかな?」
「ええ、満月になるとどこからか流れて来るの。でもおばさんは魔女が恐ろしい魔法に使うと言っていつも散らしてしまうのよ。この花にどんな恐ろしい力があるのか、おじさんなら知っているでしょ?」
「満月の夜にねぇ……」
おじさんはそう呟くとリリーににっこりと微笑みかけた。
「リリー。君はその魔女に会ったことがあるかね?」
「いいえ、ないわ」
「それならばこの花びらを持って会いに行くといい。そうすればおばさんが何を恐れているのか分かるだろう」
おじさんの提案にリリーはとても驚いた。何故ならおばさんに魔女の住む近くに行くことは厳しく禁じられていたからだ。少し考えこんでからリリーは決心した。
「そうね。よく考えれば理由もなく恐れているなんておかしな話だわ。私、自分の目で確かめて来る」
ホヌおじさんはうんうんと頷いていた。そうしているうちにおばさんが家に帰って来た。
「急いでお茶をいれますからね」
おばさんはリリーの考えていることに気付きもせずに上機嫌で台所に向かった。
リリーはおばさんがおじさんとの話に夢中になっている隙に、こっそり魔女の住む岩穴へと向かった。岩穴までの道は深い海藻の森に覆われてとても暗い。リリーは心細さと不安に負けないようにブレスレットを握りしめ前へと進んだ。するとぽっかりと陽の差す場所に出た。ピンク色のサンゴやオレンジのイソギンチャクは明るく色鮮やかでその明るさに惹きつけられるように魚たちも集まっていた。
そしてサンゴに囲まれた白い岩穴に貝がらを繋げたカーテンが垂れ下がっているのが見えた。カーテンがしゃらんと鳴り、そこから一人の人魚が出てきた。
『あれが魔女だわ』
リリーが慌てて海藻に隠れると魔女は慣れた手つきで魚たちにエサをあげていた。おばさんよりも少し若いくらいの魔女は恐ろしいどころか優し気な貴婦人だった。魚たちはリリーもエサをくれると思い隠れている彼女の元へも集まってくる。
「ちょっと、こっちに来ちゃダメよ。私は何も持っていないわ」
しかし魚たちはおかまいなしにリリーの身体をつついてエサをせがんだ。それがあまりにくすぐったくて小さな笑い声を上げると、とうとう魔女がリリーのことに気付いた。
「誰かいるの?」
魔女の声はとてもやわらかだった。魔女に呼ばれたリリーは仕方なくおずおずと海藻から出てきた。
「のぞいてしまってごめんなさい」
すると魔女は優しい笑みを浮かべた。
「謝ることなんてないわ。ここにはお客様が来ることなんて滅多にないの。だから来てくれてとても嬉しいのよ。さぁこっちへ来て」
魔女はそう言って手招きをしたがリリーはおばさんのことが頭に浮かんで、なかなか魔女のそばにいくことが出来なかった。
「でもあなた魔女なんでしょう?」
すると魔女は少し哀しそうな顔をして微笑む。
「そうね、人魚の国の人たちは私のことを魔女と呼ぶわ。でも私は陸の世界にほんの少し詳しいだけなのよ」
そう言うと魔女は岩穴へ戻り古そうなぶ厚い1冊の本を持ってきた。
「それは?」
「本よ」
リリーは本を見ることも初めてだった。魔女への恐怖も本への興味には勝てなかった。リリーが魔女に近寄ると彼女は本をペラペラとめくった。するとそこには見たこともない生き物や建物がたくさん描かれていた。
「私は少しだけ陸の世界に住んでいたの。知らない世界を知っている私のことが怖いからみんなは私を魔女と呼ぶんだわ」
「じゃあ魔法は使わないの?」
リリーが聞くと魔女はにっこりと笑う。
「魔法は知っているわ。でもその魔法使うにはあるモノが必要なのよ」
「あるモノ?」
「そう陸にあって海にはないモノ……それは美しい花、バラよ」
ローザは分厚い本のあるページを開きリリーに見せた。そこにはリリーがよく知っているあの花が描かれていた。
「バラ? この花はバラというの?」
「そうよ。この絵はもう色あせてしまっているけれど赤いバラの花は息をのむほど美しいのよ」
ローザは切なく懐かしむようにため息をついた。もちろんリリーにはバラの美しさがどんなものかよくわかっていた。
「バラを使ってどんな魔法を使うの?」
リリーはどんな恐ろしい魔法を使うのかとドキドキとしながら聞いた。すると魔女はお茶目な笑顔を見せて唇に指をあてた。
「それは秘密よ」
リリーはがっかりしたけれど不思議と嫌な気持ちにはならない。彼女は美しくとても魅力的な人魚だった。
『悪いものほど美しく魅力的なんだ』
リリーはおばさんの言葉を思い出し、魔女がどんな魔法を使うのか知るまではまだ花のことを黙っておくことにした。リリーが思わずブレスレットに手を触れているとブレスレットはしゃらりと小さな音を立てた。
「素敵なブレスレットね。よく見せて」
「ありがとう。これは母の形見なの。でも、あの……私もう行かなきゃ」
慌ててブレスレットをしている腕を背中に隠すとローザは優しく微笑んでいた。
「そう。せっかく会えたのにもっとお話がしたかったわ。私のことはローザと呼んで。またいつでも遊びにきてね」
こくりと頷くとリリーは急いでおばさんのいる家へと帰った。
家へ帰るとホヌおじさんは帰った後だった。何も知らないおばさんは鼻歌を歌いながら後片付けをしていた。リリーは罪悪感で胸が痛くなったけれど、心はもう一度ローザに会いたいと思っていた。ローザの青い瞳はとても澄んでいて悪いことを考えているようには思えなかった。
「1回会っただけじゃ何もわからなかったわ。おばさんにバレなければ大丈夫よね」
リリーはそう自分に言い聞かせて次の日もローザのところへ行った。するとローザはとても喜んでリリーを迎えてくれた。
「いらっしゃい。さぁどうぞ入って」
ローザの家には陸から持ってきたという見たことのないものがたくさん置いてあった。家に入ってすぐにリリーが気になったのは布でできた小さな靴だった。
「これは何? とってもかわいいわ」
「これは赤ちゃんのファーストシューズよ。人間の世界では赤ちゃんの靴を玄関に置いておくと靴を履きに天使がやってきて幸せが訪れるという言い伝えがあるの」
「陸には素敵な言い伝えがあるのね」
ローザはまるで本当の赤ちゃんを見ているように優しいまなざしで靴を見つめていた。
「ええ、この靴は何度も私に幸せを運んできてくれたわ。こんな素敵なことを考える人間だもの。人間のことを知ればあなたもきっと陸の世界が好きになると思うわ」
ローザは靴の他にもいろいろなものをリリーに見せた。傘に帽子、ガラス細工にランプ。リリーにとってはその一つ一つが驚きで彼女の聞かせてくれる話はとても面白いものだった。それからというものリリーは毎日のようにローザの元へと通った。
ローザといると時間があっという間に過ぎていく。リリーはいつも別れの時間が名残惜しく思っていた。
「ああ、もう帰らなきゃ。でももっとローザといたいわ。私ここに住んでしまいたいくらいなのよ」
ローザはその言葉に真面目な顔をして彼女を見つめた。
「リリー、私もあなたと同じ気持ちよ。あなたが来てくれるようになって毎日がどんなに幸せか……。でも私は自分の幸せに浮かれてあなたのことを考えていなかったわ。だって普通の人魚にとってここは恐ろしい魔女の家なんだもの。あなたの家族はきっとよく思わないわ」
リリーは首を横に振りローザの手を取った。
「ローザは恐ろしい魔女なんかじゃないわ。それに私、普通の人魚じゃないんだと思うの。ローザに会う前はずっと本当の気持ちを隠していた。でもローザといると自分らしくいられるの。今の私はもっといろいろなことが知りたいって毎日ワクワクしているのよ」
ローザは目を細めてリリーの髪を撫でた。
「リリー。あなたは私の若い頃にそっくりだわ」
リリーは少し照れくさくなってうふふと笑った。リリーは何度もローザと会ううちにローザのことが大好きになっていた。
ローザと出会って1か月近くが経ったある日、ローザは元気なく何度もため息をついていた。
「ローザ、どうしたの?」
「今日は満月だわ。満月の日は陸のことを思い出して辛くなってしまうの」
ローザはそう言うともう一つため息をついた。リリーは思い切ってずっと聞きたくても聞けなかったことを口にした。
「ねぇ、こんなにも陸や人間が好きなのに海に戻って来たのは何故? 何か戻らなければいけない理由があったの?」
でもリリーはすぐにそんな質問をするべきではなかったと後悔した。目の前のローザは今にも泣きだしそうになっていた。
「ごめんなさい、ローザ。言いたくなかったら話さなくてもいいの。過去に何があっても私がローザを好きなことに変わりはないんだから」
ローザは陸のことや人間のことを教えてくれても、彼女自身のことは教えてくれることがなかった。彼女は涙が落ちるのも拭わずにリリーの手を取った。リリーのブレスレットが揺れ、ローザは顔を上げた。
「いいえ、あなたにはちゃんと話すべきなんだわ」
リリーはローザの手を固く握り返し、彼女の話に聞き入った。
「幼い頃の私はあなたと同じように陸に興味のあるちょっと変わった女の子だったの。私は家族に見つからないようこっそりと砂浜に遊びに行っては陸の世界をのぞいていたわ。ある時、私はある人間の男の子と友達になったの。彼は陸のこと人間のこと、たくさん私に教えてくれた。そして私たちは大人になり友情はいつしか愛情に変わっていたの。ある満月の夜、彼は私にバラの花束をくれたわ。私はその美しさと甘い香りに誘われてバラに口づけをしたの。すると不思議なことに私の尾びれは2本の足に変わっていたわ」
「それってもしかして……」
「そうよ。満月の下でバラに口づけをすると人間になれるの。私が知っているただ1つの魔法よ」
リリーは魔法の秘密を知ると目を輝かせた。
「素敵な魔法ね」
「ええ、初めて足で立った時の感動は今でもよく覚えているわ。魔法で人間になった私は彼の妻になり玄関にファーストシューズを置いて天使の訪れを待ったの。すると間もなくして天使は私のお腹にやってきてくれた。私は幸せだった。
でも子供が出来て気づいたの。海に住んでいる私の家族は突然いなくなった私をどんなに心配しているだろうって。私は海に行ったわ。すると家族は人間になった私に驚いていたけれど再会をとても喜んでくれた。そして人魚に人間のお産は辛いだろうから人魚の国で赤ちゃんを産まないかと言ってくれたの。初めてのお産で不安だった私は家族の言う通りにすることにしたわ。
そして人魚の国に戻ると私の足は尾びれになり、かわいい人魚の女の子が生まれた。私は赤ちゃんが生まれたら再び魔法を使って彼の元へ戻るつもりだったの。彼も私達が人間になれるように満月の夜にバラを流してくれると約束してくれていたわ。でも……彼は1度もバラを流してくれなかった。
泣き暮らす私に家族は言ったわ。『彼は最初からお前たちを捨てるつもりだったにちがいない。人間なんかを信用したから不幸になったんだ』と。でも私は彼を信じていた。すると家族は私から離れていったわ。そして娘も陸に憧れを持たないように引き離され姉の元で育てられることになったの」
そう語るローザの瞳は愛情深くリリーを見つめていた。リリーの心臓が激しく脈を打つ。どうして気づかなかったのか見つめ合うとローザの目はおばさんの目とよく似ていた。
「ローザの娘って……」
ローザは静かに深く頷いた。
「私は娘にリリーという名をつけて貝のブレスレットをおくったのよ」
リリーは思わずローザの胸に飛び込んだ。ローザは包み込むようにリリーのことを抱きしめる。
「ローザが私のお母さんだったのね」
真実が分かればリリーがバラに惹かれることもおばさんがバラを探しに行っていた理由もすべて納得ができた。そしてリリーはローザに言わなければいけないことがあった。
「ローザ、彼は……私のお父さんは今もずっと私たちを待っているわ」
リリーはブレスレットの貝を開いた。すると赤い花びらがふわりと揺れた。
その夜、やはり赤いバラは波に乗って人魚の国へと流れてきた。暗い海の中で月の光に照らされてゆったりと近づいて来る赤いバラを見ておばさんはため息をついた。
「いつになったら諦めるのかね。この花はローザの元には届かないというのに」
おばさんがバラに向かい泳いでいく。しかしおばさんよりも先にバラを手にしたのはリリーだった。
「リリー! それをこちらに渡しなさい」
おばさんはいつものように厳しくリリーに言った。しかしリリーはバラをおばさんに渡そうとはしなかった。
「このバラはローザに贈られたものだわ」
「ローザだって? あんたローザに会ったのかい? 魔女に近づいてはいけないとあれだけ言ってきたのに言いつけを破るなんて!」
おばさんは目を吊り上げてすごい剣幕だった。でもそれは怒っているというよりも焦っているみたいだった。
「ごめんなさい。でも私、ローザと一緒に陸に行きたいの」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ! さぁ! 花を渡しなさい! あんな恐ろしい魔法、二度と使わせないよ!」
おばさんは無理やりリリーからバラの花を取ると花びらをむしり取った。哀しい顔を浮かべるリリーに優しい声が降りそそぐ。
「大丈夫、バラは1本だけじゃないわ」
「ローザ!」
ローザの名を呼ぶリリーの顔が明るく弾けた。そこには何十本ものバラの花を抱えたローザがいた。しかもバラはローザが持っていたものだけではない。彼女の後ろには数えきれないほどのバラが流れてきていた。おばさん一人でそのすべてを散らしてしまうことなど不可能だった。
「ローザ……」
おばさんはあまりの出来事に言葉を失っていた。
「私、分かったの。おばさんが恐れていたのは家族が人魚の国からいなくなることだったのね」
リリーが言うとおばさんはその場に泣き崩れた。
「ああ、そうさ。ローザが人間の世界へ行ってしまった時、心配で胸が張り裂けそうだった。もうあんな辛い想いをするのはごめんだよ」
「姉さん、心配をかけて本当にごめんなさい。あの時は私も若かったの。自分のことしか考えていなかったわ。でも今はちがう。私を待つ人のため、そして何もしてあげられなかった娘のため。私はこれから家族を守るために生きていきたいの」
ローザは力強く言った。リリーもまた意思の強い瞳でおばさんを見上げていた。
「私もどこに行ったって大丈夫よ。だってしっかり者のおばさんが育ててくれたんですもの」
「リリー、お前は半分陸の子だ。陸のことを知れば陸に行きたいと思うんじゃないかと思っていたよ」
おばさんはそう言ってリリーの頭を撫でた。寂しそうなおばさんにローザはバラの花を1本手渡した。
「陸と海に離れて暮らしていても私たちは愛し続けることができるわ。長い間ずっと約束を守ってくれていた彼のように」
おばさんはバラの花を見てため息をついた。バラはさっきまで野に咲いていたかのように生き生きと美しかった。
「私の負けだよ」
おばさんはそう言ってかすかに笑ってみせるとリリーはおばさんの頬に口づけをした。
「私、おばさんのためにバラの花を流すわ。おばさんが抱えきれないくらいたくさんのバラの花を」
そしておばさんが見守る中、リリーとローザは水面に向かって泳いだ。海の上ではまん丸の月が二人を祝福するように優しい光を放っていた。二人は月明りの下で赤いバラの花束に口づけをした。
それからしばらく経っておばさんの家にホヌおじさんが訪ねてきた。おばさんの家はリリーがいた時と何も変わっていない。それでも彼女のいない家はどこか静かだった。
「せっかく来て下さいましたけどね、リリーはもういないんですよ」
「そうかい」
おじさんは驚きもせず穏やかに返事をした。おばさんはおじさんのためにお茶を用意した。おじさんは開かれた窓を見ながら思い出したように言った。
「そういえば昨日は満月がきれいだったね」
「そうでしたかね。私は月を見る余裕もありませんでしたよ。なんせあの子ときたら拾いきれないくらい流してくるんですからね」
おばさんはおじさんにお茶を出しながらやれやれと肩をすくめてみせた。その視線の先にはこぼれんばかりの真っ赤なバラの花束が飾ってあった。
「次にリリーがおじさんと会うときにはきっとリリーの方が陸に詳しくなっていますよ。そうしたらまたおじさんもリリーに会いに遊びに来て下さいね」
おじさんはおばさんが話している間、おかしそうに笑みを浮かべながらお茶を飲んでいた。おばさんはおじさんが何故笑っているのか分からなかった。
「おじさん、何で笑っているんです?」
「ロザリア、君は勘違いしているようだがね。私はリリーに会いに来ているんじゃなく、君のお茶を飲みに人魚の国まで来ているんだよ」
「まあ」
おばさんの頬がバラ色に染まる。おばさんの花束からは時折花びらがひらひらと舞い、家はバラの香りで満たされていた。
お読み頂きありがとうございました