1話 尊氏転生
「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。……私は死んだのだ」
尊氏が目覚めた時、眼前に広がったのは、最終解脱者の転生先『大到達真理完全煩悩破壊界』ではなかった。生前にバルドのヨーガで生死を超えて垣間見たどの世界にも一致しない。
――ここはどこだ?
途方に暮れる尊氏の前に『第三の目』の能力者が現れる。「ムラキ」と名乗るその男は、この世界で二十三年間、尊氏の転生を待ち続けていたのだと話し、尊氏のことをグルと仰ぎはじめる。
――今、生死を超えた輪廻転生の旅が、魂の飛翔がここにはじまる。
目覚めた時、眼前に広がったのは広い草原の景色だった。
私は徐々に覚醒する意識の中、自分が蓮華座を組んでいることに気がつくと、両の脚の交差をほどきゆっくりと立ち上がった。
どれくらいの時間、座を組んでいたのだろう?
まばらに生えた草の上で足を踏みしめると筋肉の硬直がじわりと緩み痺れが駆け上がった。
ここはどこだ……?。
そう自問しながら、無意識に視線を四方へ投げると、遠くに高い山の姿を捉えた。
地平線の少し手前。ここから一〇キロメートルは先の地点。そこに広大な裾をそなえ山はそびえ立っていた。山麓の傾斜が天に向かうほどに急激にせり上がっている。山腹より少し上からは真っ白な雪が積もっているのがわかる。だが、その山頂は途中で水平にすり切れていて、全景としては円錐形の形をしている。
私は事態を把握するより前に、その山の違和感に関心を抱いた。
――なぜだろう? あの山はここにあるべき山じゃないと感じられる。ここにあるべきなのは……そう。須弥山(スメール山)だ。
そう想起するのに合わせて、以前、私は集中修行の中で、須弥山を何度も幻視していたことを思い出した。生きながら死後の世界を垣間見る秘術『バルドのヨーガ』で、時折、須弥山を幻視していたのだ。須弥山は現象界には存在しない霊峰なのだが、死後のアストラル界以上の世界には確として存在するはず。何かがおかしい。――まて、そもそも、私は何がおかしいと思っているのか?
そこまで思考が進んだとき、私はやっと気がついた。
――そうだ。私は死んだ。死んだのだ。――当然だ。人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。…………しかし、そうであるのなら、死後の世界にあるはずの須弥山がなぜ見えないのだろうか。それが違和感の正体だ。それに、どうだ。私は自分が死んだということ以外にほとんどの記憶がない。
ピントを取り戻しはじめた視力の一方、頭の中からは思い出されるべき記憶が一向に出てこない。なにか不測の事態が起こっているのだという認識が胸のうちに鮮明に像を結ぶ。だが、解決するための情報が一切ない。
急に脈を早めた鼓動に、どうにか動揺せぬよう言い聞かせ、もう一度、記憶の中をまさぐる。
――確か……私は……そう。そうだ。『最終解脱者』だ。真理勝者であり神聖法王だった。――我ながらいくつも称号を付けたものだ。今となってはその意味やいきさつもおぼろげにしか思い出せない。
ただ、それが釈迦が説いた法に基づき、発案した名前だとはすぐに知覚された。
――法。それは私にとって最も大切な知識だったはずだ。
その自問とともに私のうちに法に関する知識は全て完璧に残存していることが理解できた。一番大切だったらしきものを喪失せずに済んだのだ。安堵が胸に広がり小さく息をつく。
整理をしよう。
今覚えているのは、私は仏の法に出合い、修行を積み、最終解脱に至った何者か――恐らく尊師で、何かしらの理由があり現象界での生を終えたということだけだ。
そうであるのなら、ここはアストラル界だろうか? コーザル界だろうか?
――いや、違う。
法の正しい理解に従えば最終解脱者は「|大到達真智完全煩悩破壊界」に転生しているはずなのだ。それは、全ての煩悩の炎を消し去った者だけが至る純白の光の世界。
しかし、ここはどうだ? 一つ下位の霊界、「大完全煩悩破壊界」でもない。
明らかに色にまみれた現象界さながらの景観が広がっている。挙句、霊界に必ず存在するはずの須弥山さえ挑めない。代わりに延々と広がる草原の向こうに陳腐な円錐の山がぽつりとあるだけ。
――一体どうなっている……。
私は法になかった事態にめぐり合うことで、急に心もとなく、また、ひどく孤独なエネルギーに全身を撫でられた気がした。――いや、これは錯覚ではない。
謎の山がある方角から、冷えた風が唸りをあげて吹きつけていた。
身にまとっていた紅色のクルタの裾がぶわりとはためき、光沢のある表面がてらてらと波打った。それに、比喩ではない本物のエネルギー――不活発性の気が、体の左気道を伝い、気脈全体を冷たく刺激している。
まるでヴァヤヴィアを失敗して第七チャクラや月のチャクラから質の悪い不死の甘露が垂れたときのようだ。
私は小さく身震いをした。
――これからどうすればいいんだ。
そう、途方に暮れかけたときだった。
私の背後から声が響いた。聞き覚えのある男の声だった。
「尊氏〜!!」
私は反射的に振り返ると、その男の姿が視界に捉えられた。
水色のクルタに、かきあげた短めの髪。愛嬌のあるきょろりとした目。私より長身なその男の表情は歓喜に満ち、くしゃりと潰れた笑顔だった。
「尊氏! 尊氏! やっと会えました! グルとの法縁を信じ、私は二十三年の時をここで、ずっと待っていたのです! 尊氏! 尊氏!」
男は私の鼻の先ほどに顔が近づくまで駆け寄ると、息も絶え絶えにまた「尊氏! 尊氏!」と繰り返した。
「待ってくれ。――私はどうやら転生に際し記憶を失ってしまったようなのだ。私が誰なのか知っているのなら教えてくれ。……いや、その前に、君は誰だ?」
私は過剰といえるほどに興奮した様子のその男に気圧され、動揺した声色で言った。
「私ですよ! ほら、尊氏が認定してくれたじゃないですか! 私は『第三の目』の能力者ですよ!」
男は明確な抑揚でそう告げる。
「わからないんだ。さっきから言ってるように記憶がないんだ。いいから、名前を教えてくれ」
私は早口に伝えると、男は「……なるほど。現象界でのデータを一時的に喪失されているのですね」と告げ、一呼吸間を置いて改まったように、そして、どこか自信げに言った。
「私はあなたの仏弟子。そして………………『第三の目』を開眼しッ! 『火と水の洗礼』を超えッ! 『慈愛の大乗ヨーガ』を成就せし男ッ! 人は私をマンジ―正大師と呼ぶ! そう、この私こそが、科学技術省大臣〈ムラキ〉!」
真剣に続きも書きます。