図書館とマロツィア
出した逸話、全て中国からになってる
バーレとの交渉が終わり数日。
リュウヤは岩山の王宮内の図書館にいた。
パドヴァ王国で作らせていた写本の搬入を、本好きの公女マロツィアとともに見ている。
搬入をしているのは、ヴィティージェとその教え子たちが主導しており、さらにレティシアら来年開校予定の学校の教員候補者たちも、手伝っている。
「これで、どれほどの数になるのだ?」
リュウヤの問いに答えたのはヴィティージェ。
「パドヴァ王国の蔵書の、3割ほどでしょうか。」
魔術立国を標榜していただけに、その蔵書数は相当なものがあるようだ。
「なるほど。すると、全てを印刷し終えるのはまだまだ時間がかかる、そういうことだな。」
原本は所有者の元に残しておくのが、リュウヤの基本方針である。
これは、現代地球的な価値観を強く持っているためで、この世界の文明レベルでいえば、かなり異例のことだ。
地球上においても、1970年に作成されたユネスコ条約と呼ばれる一連の条約のひとつ、「文化財の不法な輸入、輸出及び所有権移転を禁止し及び防止する手段に関する条約(略称 文化財不法輸出入等禁止条約) 」が発効されるまでは、その認識が広まることはなかったのだ。
「随分と増えたものですね。」
遅れてやってきたサクヤが口にする。
「ああ。だが、まだまだ増やしたい。」
可能な限り、多くの蔵書を未来に残しておきたい。
それこそ、「空白の歴史」などというものが無くなるくらいに。
例えば、唐の太宗に仕えた王玄策(注1:の記録。
残っていれば、同時期のインドの歴史の多くを知ることができる。
他にも、明の鄭和(注2:の航海記録。
大船団を率いて北アフリカまで到達しているのだが、その時の記録は「鄭和出使水程」という名で纏められていたのだが、劉大夏(注3:という人物によって焼かれてしまい、現代には伝わっていない。
だから、自分が治るこの国では、そのようなことがないようにしたい。
「陛下。人間族の国では、王の言行を記録に留め、編纂することがあるとのことですが、我が国ではどういたしましょうか?」
ミーティアの言葉だが、その口調にはからかうような響きが、わずかながらに込められている。
「そういうことは、面と向かって言うものではないな。
記録したい者たちが勝手に記録し、俺の死後に勝手にまとめるものだ。」
「申し訳ありません。陛下の仰られる通りでした。」
頭を下げるミーティアに、
「それから、そういった記録には、脚色は一切しないように。
そして、該当者には絶対に見せないように、な。」
「はい、皆にはそのように伝えます。」
ん?皆?
俺の言行を記録したい、もしくはしている奇特な人物が複数いるのか?
疑問に思う。
ただ、該当者に見せるというのは、相手が高い地位にあれば慮ってしまうことになり、正確な記録を残せなくなる恐れがある。
中国史上屈指の名君とされる唐の太宗こと李世民だが、玄武門の変(626年)で、兄、李建成と弟、李元吉を殺害している。
太宗はこの時の風聞を気にしていたようで、部下から止められたが、その記録を取り寄せて読むことにした。
その文章がやけに婉曲な表現に終始していたため、
「記録とは、誰に慮ることなく、公平公正に書くものだ。」
と言ったというエピソードがある。
また、正史としての三国志の著者、陳寿には、
「俺に賄賂を寄越せば、お前の先祖を良く書いてやる。」
と言ったというエピソードがあり、だから三国志に書かれている人物のなかには、かなり悪し様に書かれている、重要な人物なのに書かれていない者が多数いるとも言われている(注4:。
「まあ、記録は正確に、な。」
ミーティアに念を押して、作業を見ている。
「リュウヤさま。私、本を見てきていいでしょうか?」
マロツィアが、目を輝かせている。
「邪魔にならないようにできるなら、かまわないぞ。」
リュウヤの返答に、マロツィアは大喜びで駆け出していく。
「こら、走らない。」
リュウヤに注意され、走ることはやめるものの、少しでも目を離すと走り出しそうである。
自分は、現実から逃避するために図書館に通ったものだが、マロツィアはどうなのだろう?
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
何かからの逃避なのか、それとも空想の翼を広げて、その世界に飛び立つためなのか。
今のマロツィアに聞いても、おそらく答えはないだろう。
もう少し成長したら、彼女に聞いてみたいと思う。
成長したマロツィアは、女流作家として名を馳せることになるのだが、それはまだまだ先のことである。
注1:インドへ使節の一人として3回(4回とも)赴き、2回目の時にはインドの内乱に巻き込まれ、部下を囚われる。
友好国であった吐蕃国などから兵を借りて戦い、インドの内乱を平定、部下を助けている。
日本にも縁があり、第2回天竺行の際に転写した仏足石を唐へ持ち帰り、これが日本の薬師寺にも伝わっている
注2:宦官にしてイスラム教徒という、中国史においても特異な人物。
実は、オーストラリアを発見したのは、彼ではないかという説もある。
注3:宦官嫌いの、とても真面目で融通の利かない官僚。
悪い官僚の見本のような人物で、国境を盛んに侵犯してきた韃靼との戦いでも、物資を届けなかったり、強行に反対し、そのために対策が遅れることもあった。
注4:あくまでもエピソードであり、陳寿は信憑性の薄い記録を徹底的に排除したために、そのようになっているというのが事実です。
ただ、あまりに簡潔にまとめたために、後代に裴松之という人物が、仕えていた皇帝(宋の文帝)の命を受け、注釈をつけています。