さけぶ、はなたち。 そのに。
「しゃがめ!」
ウサちゃんの声が聞こえ、わたしはすぐにその場にしゃがむ。 その次の瞬間、まるで暴風が頭の上を掠めるように、何かが通った。
「ひ……!」
その何かは、お巡りさんの持った街灯だった。 先ほどまで私を隠してくれていたロッカーの上半分が、綺麗に消え去っている。
「タタク、タタク、タタク」
石の顔をこちらへ向け、お巡りさんは呟く。 振り切った街灯を再度持ち直し、今度はハッキリと目が合った。 いや、お巡りさんには目がないから目が合ったというのは間違いかもだけど……。
「無事か夢花! このクソ野郎……なんつう力だ。 本来の力がありゃどうにでもなんだが……チッ」
「と、とりあえず逃げようウサちゃん! 捕まったらマズそう!」
「マズイで済めば良いけどな! こっちだ!」
ウサちゃんが言い、走り出す。 その後を追うように、私はロッカーから出ると走り出した。 その直後、私がついさっきまで居たロッカーが、お巡りさんによって叩き潰される。
「タタク……タタク……タタク……」
ごり、ごり、ごり。 街灯を地面に押し付け、その部分を見ながらブツブツと言葉を呟く。 私はそんなお巡りさんを少し見つめたあと、ウサちゃんの方へと再び駆け出した。
「はぁ……はぁ……」
「とりあえず巻けたか。 息切れはえーな、情けねえ」
「だ、だって……運動とか……しないし……」
お昼休みはお喋りで、放課後は友達と一緒に遊ぶことが多い。 運動なんて学校の授業くらいでしかしていなくて、けれどそれが女子高生としては普通なんじゃとも思う。
夢の中だとしても、運動能力というのは私が基準らしい。 ウサちゃんが言うには力こそあるらしいけど、体力的なのは殆ど現実での私依存、ということ。 どうせなら体力も増えて欲しかった!
「おや、これまた珍しい」
「ひっ!」
そんなとき。 階段を上がり、廊下に座り込んでいたとき。 突然、目の前にカニのハサミが現れた。 とても変なことを言っていると思うけど、事実目の前にいるのはカニのハサミ。 かち、かち、かちと音を鳴らして喋っている。 その体は車のタイヤ、胴体部分は細長くて、手足もタイヤ。 そんなタイヤの体に頭がカニのハサミというものが喋っている。
「ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだよ。 カニだけに」
「……おい夢花、こいつ食って良いか?」
「う、うん。 なんか怖いし……」
「やめて! 私は怖くないカニだよ、カニだけに!」
カニだけに、という意味がわからない。 何もかかってないと思うのは気のせいかな……しかし、必死に言う姿からは悪い人には見えなかった。
「……あなたは誰? 何をしている人なの?」
夢には、何か目的を持って住人たちはいる。 例えばさっきのお巡りさんは、不審者を探して叩く、という目的。 病院に入ったときの声は、アナウンスを目的としている。 そういう風に、不思議な光景には必ず目的というのが夢にはある。 一見して無意味なものでも、夢の中ではそれは意味のあることなのだ。
「私はカニ人間。 仕事はは病気の人の手術だね」
「にしてはそれをしてねぇ気がするが。 つうかその見た目でよく人間名乗れるな」
「それは誤解だよウサギくん、私は今もこうやって手術が必要な人が来ないか待機中もとい休憩中なのだよ。 一階にほら、大きな人が居ただろう?」
「……お巡りさんのことかな?」
「オマワリさん……というのかね? いや、彼には名前がないから困っていたのだが、そういう名前があるのだね。 それで、彼……オマワリさんが、患者をここまで運んでくるのだ」
「患者を……って、それって」
「皆まで言わなくても良い。 私は怪我をした人を治すだけ、この病院でいうならば医者という役回りだ。 他にも医者は居るには居るが……付いてきたまえ」
言い、カニ人間さんは歩き出す。 私とウサちゃんは顔を見合わせ、やがて今現在唯一の手がかりということもあり、そしてまともに意思疎通ができる夢住人ということもあり、付いていくことを決めた。
すた、すた、すた。 ぴょん、ぴょん、ぴょん。 かち、かち、かち。
「例えばこの部屋」
長い、長い廊下の途中でカニ人間さんは立ち止まる。 そして、その脇にあった扉に手をかけ、開いた。 一階とは違い、その部屋は簡単に開かれる。
「……」
中に居たのは、頭が注射器のお医者さんだった。 そして、ベッドの上には紙人形のような人が寝かされており、お医者さんは頭の注射器を刺して、抜いてを繰り返している。
「医者と患者、こういう風にこの病院には多くのそれらが居る。 私個人は少々特別だがね」
「夢住人としちゃな。 意思疎通できんのはたまーに居るが……」
「カニ人間さん、ここでは何が起こってるの? 屋上のお花とか、病院とか」
もしかしたら知っているかもしれないと、そう思って私は尋ねる。 お巡りさんは見回りで、お医者さんは患者さんを治すため、そういった目的があるのはカニ人間さんの話で分かったけれど、屋上に咲いている花だけが分からない。
「あの花たちか。 彼女たちは歌っているのだよ、一人の少女のために歌っている」
「……歌」
「そう、歌だ。 届かない歌、届きようのない歌を歌っている。 付いてきたまえ」
カニ人間さんは言い、再度歩き始める。 私とウサちゃんは今度は顔を見合わせることなく、カニ人間さんに付いていく。 長い、長い廊下をゆっくりと。 暗い、暗い廊下をゆっくりと。 やがて、壁に掛けられているプレートからA棟からC棟に移ったことを知った。
「ん」
「カニ人間さん?」
ぼろ、ぼろ、ぼろ。 カニ人間さんの体が、崩れていく。 がたり、がたり、崩れていく。
「ああ、私はこれ以上先へ行けないらしい。 すまないな」
「……ごめんね、無理させちゃって」
行ける場所、動ける場所、それは決まっている。 お巡りさんが二階まで来れなかったように、カニ人間さんもまた、C棟に行くことはできないらしい。 そして、それを過ぎてしまえばまた元の場所へと戻される。 それはルールで、この夢だけのものではない。 私が覚えている沢山の夢、それら全てで同じことは起きていた。
「何を気にすることがある。 私はまた私として同じところに生まれるだけだ。 この先を真っ直ぐ行けば階段がある、それを登って、305号室に行きたまえ。 そこに彼女は居るはずだ」
「うん、分かった。 ありがとう、カニ人間さん」
「……君は不思議だな。 たまに君のような子が迷い込んでくることはあったが、お礼を言われたのは初めてだよ」
「私はきっと、慣れてるから……かな。 それに、カニ人間さんは良い人だから」
「名前を聞いても良いかね」
私が笑って言うと、カニ人間さんは少しの間私の顔を見つめ、そしてそう言った。 その会話をしている間にも、カニ人間さんの体は少しずつ崩れて消えていく。
「夢花、私の大好きなお母さんが付けてくれた名前」
「そうか、では頼んだ。 彼女のことを宜しく頼む、夢花」
そう言って、カニ人間さんは私の頭を優しく、撫でた。 どこか温かい、そんなことを感じることができる、優しい優しいタイヤの手だ。
「……」
そして、カニ人間さんは消えてなくなる。 何度か見たもの、何度かしたこと、同じことかもしれないけれど、その瞬間というのはどうしようもなく悲しくなる。 夢の住人たちは一つの目的のため、延々と同じことを繰り返す。 ただそれだけを目的に、そこに夢がある限り繰り返す。 そして、夢を見ている人が夢を見なくなったそのとき、本当の意味で消えてしまう。
私は一期一会の出会いを何度するのだろう。 その一つ一つはとても短く、儚く、呆気ない。 けれど、私はそんな出会いを覚え続け、記憶し続ける。 そうすればまた、いつか、いつになるかは分からないけど……また会えるかもしれないから。 私が覚えていれば、その記憶はいつか欠片となって夢となって、出てくるかもしれないから。
カニ人間さんは、また作られるだけだとそう言った。 でも、カニ人間さんが私の目の前で消えたことには変わりない。 そして、私はやっぱりそれが悲しい。
「夢花、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫だよ。 行こうか、ウサちゃん」
ウサちゃんもいつか、私の前で消えてしまうのだろうか。 そのとき、私はやっぱり悲しんでしまうのだろうか。
それをウサちゃんに聞いてみようと思って、止めて。 私とウサちゃんは、長い廊下を再び歩き始めた。