プロローグ 手のひらからこぼれたもの
人は混乱を極めると思考が停止するようです。
自身におこる全てが、まるで他人事のようで。未だに、夢でも見ているのではないかと思います。
ですが、縛られた腕から伸びる縄を乱暴に引かれ、擦れた皮膚が伝える痛みと流れる血が。
道の両脇に並ぶ人波から溢れ、熱すら感じるような罵倒や時折投げられる礫が頭や額や背を打ち、これが現実であると伝えるのです。
以前着ていた衣とは、比ぶべくもない粗末な服。長い麻の布に穴をあけ頭を通し、胸と腰下で荒縄を使い結ぶ。靴はなく、足に布を巻き凌ぐ。
罪人が乱暴に扱われ、石を投げられ、狭い路地では人の手が伸び。そうやって刑場に着くころには、恥部すら隠せなくなる。人の尊厳を踏みにじる為だそうです。
私の場合は特別に長布の下に下着をつける事が許されました。国王様のお慈悲だそうです。
私は、城から大通りをまっすぐ。四界交路-クロノスロード-という東西南北の門に伸びる国の中央に作られた教会の前に歩いて連れてこられました。
以前は馬車で30分ほどの距離でしたが、今は1時間以上時間が掛かったでしょうか。足がもたつくのと、人波が時折邪魔をし、思う様に進めなかったからです。
流れる汗と血が口角より入り舌先に塩辛さを感じられます。
私は、まだ生きているから。
「罪人、ノーザンス。聖女の名をかたり民衆を偽り、王権を汚そうとした大罪人、御前にまかりこしました」
広場中央にたどり着くと乱暴に、ぐいと背を押され地に崩れ。
両手を縛られているため体を支えられず、横向きに倒れ込み打ち付けた全身の痛みに目に涙が滲みます。
それを見て、私を連れてきた役人たちは鼻で笑い小さく罵ります。
「やっと罪の重さを思い知ったか」
「空涙を浮かべて慈悲でもこう気か」
「白々しい」
呼吸がはやくなるのを感じます。息がしづらく、頭が揺れ。胃の中には何も入ってはいないのに、吐き気まで。
ぐっと目を閉じ呼吸を落ち着けようと努力します。
自身が置かれている状況が。気持ちが。わからなくて。
初めて知った身体のあちこちの鋭い痛みが、冷静に考えようとする気持ちを折ろうとして。
以前は敬意を浮かべ言葉を交わした人たちが、なぜ、私を罵るのかわからなくて。
解らないことだらけで。
何が悪いのでしょう。何がいけないのでしょう?どこから?全て私が悪いのでしょうか?
「何を目をそらしている。御前だ。礼をとれ」
髪を掴まれ、ぐいと持ち上げられ。ブチブチと聞こえるのは髪がちぎれたからでしょうか。
棒で顎を上げられ、開けた目に入ってきたのは。
教会のバルコニー。
正面の樫木の大きな両開きの扉の上。突き出すよう造られた2階のバルコニー。
石材が緩やかなアーチを描き、石縁から垂れる複雑に織られた紋様のタペストリーが荘厳な雰囲気のその場所は季節の花で飾られ。建物からバルコニー入り口に吊るされた金糸で刺繍された緋色のカーテンが鮮やかで。
太陽と月。その下に王家の紋章。神が与えた座にある王国という意味で尊いものと教えられ、見下ろすばかりだった民衆の中心で、今はあの座を見ている自分が少しおかしくなり少しだけ力が抜けました。
そして、ゆっくりと開いたカーテンの向こうから、歩いてきた一対の男女の姿に見開いた目から、初めて一筋涙が流れました。
とたん大きくなる民衆の歓声。罵るばかりだった彼らが、驚喜し口々に2人を讃えます。
「太陽王、リチャード・カエサル・エリクス・プリマヴィスタ万歳」
「巫女姫、ヒロミ・イワマ・エリクス・プリマヴィスタ万歳」
「2人の治世に幸いあれ」
少女の白い衣装に散らされたのは、真珠。本来は顔を隠すレースは後ろに流され花嫁の顔を露わにしていて喜色を浮かべる様子を見た民衆は、更に喜び。頭上のティアラは銀の蔦だけものが、色とりどりの貴石が絡むものに意匠が変わっており。中央には大きなダイヤモンド。
その煌めきは、巫女というよりも王女。
耳朶には紅い紅玉。少女が大きく手を振った瞬間に空を舞う花びら。バルコニーの上。並ぶ高い塔には小窓があり、そこから神官達が撒いています。
吸い込んだ空気のほのかな甘さからそれが紙などの作り物でなく、本物の花びらだと知り。
頭上では祝福の喜劇。対して、今の自分は?
ピシリと身の内で小さく何かが割れるような音が聞こえた気がしました。
ぼんやりと2人を見ていると、青年と目が合ったように思います。
「カル・・・」
思わず唇から零れたのは、青年が幼いころ自分にくれ、この身に残った唯一の物。
畏敬の座も。名も。ティアラも。花嫁衣装も。
幼馴染で。唯一の友人で。そして婚約者であった人すらも。何もかも取り上げられ。
唯一の・・・。
ピシッ。
小さなヒビが入るような音はなんでしょう。こんなに騒がしいのに。はっきりと聞こえる。
片手を上げた青年に、あれほど騒がしかった民衆はぴたりと口を閉ざし。広場は衣擦れの音がわかるほどに静まり返ります。
厳しく私を見る青年は、幼馴染でも友人でも婚約者でもなく、罪人を裁かんとする王でした。
「罪状を述べよ」
低く響いた声に懐かしさばかりが浮かぶのはなぜでしょう。物心つき、9年間聞き続けたものだからでしょうか。
「この娘は、罪人であります」
傍らに立つ厳しい顔をした神従騎士-クロスナイト-が声を上げ、辺りに響くそれが自分のことだとは思えず。
「年はおそらく17。生まれは分かっておりません。生まれの土地も親の名も、自身の真名すら。近親者も己は知らぬ存ぜぬを繰り返すばかりです。神官様方が不便ゆえノーザンス-名も無きもの-と呼ぶようにと。そして、あろうことかこの娘は、恐れ多くも、聖女リルーシェ・スノウシェード・クロノス様の名を語り、11年にもわたり民衆を偽り、更には王の后の座を狙い王権を汚そうとした大罪人」
指差しながら、芝居がかった口調で一息に語り。
バルコニーの少女に向かいお辞儀をしながら言いました。
「幸いにも、真の巫女姫様が降臨なさり、歪みは正され偽りは明るみになりました」
野次を飛ばすもの。少女を称えるもの。神の公正さを喜ぶもの。民衆に騒がしさがもどるかと思いきや身を乗り出すようにしたバルコニーの少女に視線が集まり。
民衆の視線を十分に集めたのち、微笑みながら少女は静かに話し出します。
「誰しにも間違いはあるでしょう。私は、闇を払い。汚れを払うためにここではない世界から神官たちの祈りにより呼ばれました。まだ大事は成っていません。血の穢れで失敗なんてことになったら、皆さんが大変なことになるでしょう。また、多くの者が死ぬのです。」
泣き崩れた女性を支える男性、深々と頭を下げ感じ入るよう幾度もうなづく老婆。現実であるはずなのに、お芝居を見ているよう。
「大罪人は、聖痕なく火刑に処されると聞きました。ですが、私は彼女を許したいと思います。真実を何も話さないと聞きました。私は彼女のことをよく知りません。ですから、カル様に色々聞きました。」
ピシッ。
胸の奥。なんでしょう。感じたことのないこの気持ちは。痛くて。何かが割れそうで。
「カル様は言いました。その人は悪のみだけとは限らないと。」
それは、私に残された最後のものでした。多くの人に囲まれた私はいつも『殿下』即位してからは『我が君』と呼び。そして同じように『巫女』『慈しみの君』と呼ばれ。
ですから、他の大勢の耳目の無い瞬間、『カル』『リル』とお互いを愛称で呼ぶことは宝物のように思っていました。
ピシッ。
幼い頃そう呼ぶように言われ、恐れ多いと躊躇い、恥じらいとともに私はやっと小さく呟くその名を。
民衆の神官の騎士の前で。
彼女は大きな声で呼んでいる。
「何もなくなってしまった・・・」
「ですから、火刑にはしません。その人には、生きて反省してもらいたいと思います。約束します。私は、必ずこの国の闇を払います。」
小さく呟いた言葉は、大きな彼女の声とわくような民衆の声で消されました。
少女が胸を抑えるようにおいた左手首と指に光るのは巫女姫の証。つい数日まで、この腕にあった。
手首をぐるりと囲うよう蔦があしらわれ、虹花石という七色の光を内包するかのように日の光で淡く色を変えるよう光る指輪を3つの細い鎖がつなぐそれは、神と王国とを繋ぐ誓約の印。神と精霊と人の繋がりを示す・・・
巫女姫のみが身につけることができる・・・だから彼女は・・・
「ヒロミ・イワマ・エリクス・プリマヴィスタ・リルーシェ・スノウシェード・クロノスはここに誓約します。天と地とを平にし、我が王に繁栄を。闇を払い、永久にこの国に光を」
ビシッ。
何かが壊れた音がした。民衆の感極まったような声も。少女の満足気な笑みとピンと張った声も。王の眼差しも。頭を押さえつけ慈悲を感謝しろと告げる騎士も。
何もかも。世界を構成する何もかもがいらなくて。
「何もかも。もう、見たくない。聞きたくない。ここに居たくない。何もいらない。何も願いたくない。誰かの為に何もしたくない・・・私は・・・ひとり・・・」
止まぬ涙とともに、それは生まれて初めて、強く願った私事の願い。
――是――
頭に浮かんだのは、許可。
誰の?
声として耳に届いたのではなく、頭の奥に響くような感じで。穏やかでやさしい声。
これは、いったい・・・?
目が回るようで起こしていた身体を地に横たえても、バルコニーの2人に見入り周りは気が付きもしない。
歓声を聞きながらやがて意識は沈んでいった。