7 勅使 浅葱
水面に映る真実 雫を落として願いを唱えるんだ
水が弾く音と共に現れるから
変わらないその瞳が 美しく輝く
波紋が静まると消えていってしまう
だから その瞬間まで夢をみせて
気温はこの夏最高だと予報で言っていた。
後一週間で夏休みが終わる。校内には部活動のために登校した生徒しかいなかった。そんな中、御影と並んで美術室へ向かって歩いていた。
御影の両手にはたくさんの荷物がある。文化祭までに完成させられなかった作品を作るために、退院してからずっと通っている。幼馴染みの御影は、今日は図書室に用があるということで一緒に来たけど、荷物を運ぶための口実だということはわかっていた。
睦月も御影も、僕に甘すぎる。
「浅葱、じゃあ二時間後に」
美術室に荷物を置き、御影は図書室へ向かっていった。
夏休みに入るまで神経性の病気で入院していたが、入院していた期間は一年だった。
神経性の病気とは、悩んだり、ショックを受けたりすると鼓動が速まり呼吸が苦しくなる、というもので、まだ完治とは言えないが状態は良くなったため、今は普通に生活をしている。
突然症状が軽くなったのに、医者も家族もただ驚くだけだった。一年で退院するには、初期状態は悪すぎた。なのに、今では病気だった気配さえない。
すぐに退院できたけど、神経性のモノはすぐには治らない。そう医者は言っていた。だからこそ、そんな僕を気遣って、家族や幼馴染みの御影がそばに居てくれた。
美術室は涼しかった。カーテンは影を作り、太陽の光を遮断してくれる。開け放たれた窓からは風が通り抜ける。そんな美術室を肌で、耳で、眼で感じながら制作準備をしていると、ふと、ある音が耳に入ってきた。
さまざまな部活動の声の中で聞こえる音。それは歌だった。聞いたことのある声は、ゆっくりと歌っている。曲風は『星に願いを』に似ていて優しい感じだった。声と曲が合っていて、調和している。
準備の手を止め、歌をじっと聴いた。後半に差し掛かった歌。
どこから聞こえるのか。
耳をすませて聴いていると、廊下から聴こえているようだった。音と共に、一瞬映像が過ぎった。それは、一度見たことがあるような風景に見えた。
ふと背中に気配を感じ、振り向いた。
その先には黒髪の。
「睦月」
呟いた声に反応するかのように微笑んで、睦月は歌い続けた。しばらくの間聴いていると、睦月は途中で歌うのを止めた。ちょうどサビに入る手前だった。
それがわかったのは歌を知っていたからだ。思い出せないけど、昔に聞いた歌。
睦月の声は前に聞いたものと同じ、優しい声だった。
「浅葱、化学室で待ってる」
そう言った後、教室を出て軽い足取りで走って行った。前と変わらない、浮いたような足取り。
真実がはっきりと表されていた。
睦月は死んでいる。
その後ろ姿を見て、思い出した。病院の近くの公園で会った、あの時。
重なる景色はあの場所だった。
そして「また会える」という、あの言葉が甦った。
特別棟は静まり返っていた。
通常の授業では使わない、化学室や調理室がある校舎は、部活動でも使用していなかった。夏休みに大抵の文化部は活動しない。静かな校舎は不思議と恐さ感じさせず、安心させるような雰囲気を持っていた。
自然と足の進むまま、科学室へと向かっていた。
廊下を吹き抜ける風は、音となって何かの曲を奏でているように聞こえる。それは、あの歌のように聞こえてきた。
風の曲に耳を傾けながら、化学室のドアを開けた。
「浅葱」
誰かが机に腰掛けていた。逆光で顔は見えなかったが、誰なのかわかった。
「睦月」
近付いていくにつれ、顔がはっきりと見えてきた。
あの、忘れられない顔。忘れたくても忘れられない。
睦月は机に視線を落として、蛇口から落ちる雫でできる波紋を見た。睦月の隣に立ち、同じようにビーカーの中の波紋を見た。
「覚えてる? 僕が歌っていた歌」
睦月は視線を落としたまま、波紋の中に映る僕に話し掛けた。
「あの『水面に―』っていう歌?」
「そう。あれもジンクスの一つだったんだよ。知ってた?」
睦月はにっこり笑って僕の顔を見た。その顔に悪意は感じられず、溜め息をついた。
「知らなかった。ああ、だから『また会える』ね」
「まぁね」
そう答えるなり、すっと立ち上がった睦月は水に触れようとした。それを止めようと手を延ばしかけたが、次の光景を見て少し胸が痛んだ。同時に呼吸も少し荒くなった。
雫が通り抜ける睦月の手。それはこの世にはいない存在の証拠だった。
「なんでそういうことするかな」
「仕返し。怒っているんだからね、病気になったこと」
言葉とは反対に、睦月の声は優しかった。そして変わらない微笑みが浮かんでいる。
しかし、それは蛍光灯に照らされて、消えてしまいそうだった。
闇に溶けてしまうように、曖昧に映る。
「そんなの……仕方がないじゃない。だって睦月は僕の」
「人の心はコップ一杯の水のようだね」
言葉を遮った睦月はそのまま続けた。
「こぼれるように壊れてしまったり、濁って悪くなってしまったり」
「僕のコップの水はこぼれしまったということ?」
真っ直ぐ見据えた視線の先には安心させる睦月の笑顔があった。
睦月は視線を逸らし、残りの雫を見た。確かめるように、じっと凝視している。
その視線を追うと、また胸が痛んだ。あと何分かで雫は落ちきってしまう。
あの歌では、落ちきってしまったとき。
「こぼれた水は戻らない」
一つ、雫が落ちた。睦月は無表情で、しかし口調ははっきりしていた。
広がる波紋は薄くなっていく。そして、消えた。
「でも、また入れることはできるよね。他の水を」
雫から視線を睦月に向け、はっとした。
その言葉の優しさと、だんだん消えていく睦月。それは一つのことを示していた。
「浅葱、気付いているはずだよ。一度はこぼれた水だけど、今、浅葱の心のコップには水が入っているんだよ。ねぇ、誰が分けてくれた?」
また雫が落ちた。その度に薄くなっていく睦月。
しかし、その顔にはあいかわらず微笑があった。
「父さん、母さん、姉さん……あと御影」
「うん、だからね、悩まなくていいんだよ。僕はもう生きてはいないけど、そばにいるから。皆、助けてくれるから。だから、今度はその水を守ろうよ」
ゆっくりと、一歩ずつ近寄ってくる。そして雫が落ちきった時、消えた。目の前で、跡形もなく。
睦月のいた場所を見つめたまま、そっと呟いた。
「……兄さん」
頬を撫でる風で目が覚めた。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。硬い机の上で寝ていたため、体が痛かった。
ゆっくりと起き上がり、睦月のいた場所を見た。
確かあの辺にいたような。
その場所には花が二本、並んでいた。その花を取り、美術室へと続く廊下を歩いた。
戻る途中、心配して探しに来たのか、不安な表情をした御影と会った。
「浅葱、何してんだ?」
僕を見つけてほっと息を吐いた御影は苦笑を浮かべた。小走りで寄ってきた御影は、手に持っている花を見て不思議そうな顔をした。
「向日葵とかたばみ? どうしたんだ、コレ」
「もらったんだよ」
「誰に? 告白でもされたか?」
「なんで告白?」
俯いて真剣に考えている御影に、少し脱力しながらも聞いてみた。それを無視し、まだ考え続けていた御影は、しばらくして顔を上げた。
「それとも……まぁいいか。向日葵は『あなたを見つめる』で、かたばみは『私はあなたと共に生きる』っていう花言葉があるんだ」
背中を軽く叩いて家に帰ろうと促した御影に、走って隣へ並んだ。自然と笑顔が浮かんでいた。
確かに告白に合う花かも。
「何だ?」
その笑顔が移ったのか、御影も微笑を浮かべて訊いた。それににっこりと満面の笑顔を作った。
「秘密だよ」
睦月に遮られた言葉をそっと、御影に聞こえないように呟いた。
『だって睦月は僕の兄さんなんだから』
「やらなければならないんだ」
自分に言い聞かせるように、花を握り締めた。
覚醒してしまったのだから、やるべきことは決まっている。睦月だってそれを望んでいるはずだ。そして、あの人も。
自分だって同意したのに、でもそれを行う事が今では良いとは思えなかった。しかし、全てを握るのはあの人だから。もう始まっているのだから止められはしない。ただ、やるべきことをするだけだ。
プログラムは絶対的なモノだから。