6 賢木 御影(さかき みかげ)
暑さが増してきた八月中旬。
暑さのためか、人通りの少ない道路をあてもなく歩いていた。熱せられたアスファルトの上を歩くと靴から熱気が伝わってくるようで、少し歩調を速めた。汗で肌に張り付く服が不快だった。
気温は四十度に近い。重い雲が空を覆っていて息苦しい感じがするのは錯覚ではないだろう。しかし、この季節は嫌いではなかった。汗が、上がる息が、生きていることを実感させる。風は生暖かいが、溜まって濁っているモノが薄れていくような気がした。
「暑いよねー」
突然、後ろから声がして立ち止まった。しかし、自分に掛けられた声ではないと思い、歩き始めた。知っている声ではない。そして、無愛想な自分に声をかける他人なんていない、と長年の経験からわかっていた。
無視して歩いていると、ぐっと後ろに力が掛かった。服を引っ張られている感触がする。少し力を入れれば手は離れるだろうが、敢えてそうしなかった。
仕方なく振り返ったその先にいたのは、同い年くらいの少年だった。
「無視は酷いなー。久しぶり、御影」
親しい友人に出会ったかのように笑う少年に見覚えはなかった。不審そうに見ていると、目の前で指を鳴らされた。
パチンッ、とその音で頭の中に重なる顔があった。
中学三年のときに三ヶ月だけクラスメイトとして居た。
「紗雲?」
「思い出した?」
満面の笑顔を浮かべた紗雲泉。その顔に、脳裏で何かが浮かんでこようとする。この顔はどこかで見たことがあった。
そう、中学三年より前に。もっと昔に。
どこで。
それを思い出そうとしてじっと見た。鮮明になっていく記憶。押し込められた記憶の箱が、今開こうとしている。
すると、突然紗雲は表情を硬くし、澄んだ声で言った。
「ねぇ、なんでそんなに苦しそうな顔をしているの?」
突然の言葉に身を固めた。紗雲は目線を上げ、じっと瞳を覗いてくる。その瞳を見ていられなくて、思わず逸らしてしまった。
見たことがある、瞳。知っている、存在。しかし思い出そうとすると目の前の存在が打ち消す。
堂々巡りの思考に頭が痛くなりそうだった。
「苦しそう?」
「そう。なんで?」
視線をアスファルトに落としたまま、少し考えた。そんなことを言われたのは今まで一度しかなかった。
それも同じような瞳で。その答えは未だに出せてはいなかった。
苦しそう。どこが。
「苦しくなんかないけど」
その答えに紗雲は困ったような顔をした。目はなぜわからないの?と言っているように見え、少なからず動揺してしまった。
答えを出すのが辛いなんてことは、初めてだった。
学校で教えられることは全て模範解答がある。数学に至っては答えは一つだ。自分の感情を表すのなんて十文字もあれば十分だった。しかし、今求められているのはもっと次元が違うことだった。自分の心を知るなんて、簡単にはできない。
紗雲は暫く考えている風で沈黙が続いた。俯いていたが、相変わらず手は服を掴んだままだった。
じっと待った。今ここで立ち去ってはいけない、と本能に近い何かが働く。そして紗雲は唐突に顔を上げた。変わらない真っ直ぐな瞳を向けて。
「じゃあ、御影はいつから御影でなくなったのかな?」
俺が俺でなくなったのはいつか。
自分でなくなったとはどういうことだろう。昔とは違う自分になってしまったということだろうか。
ふと、いつの間にか真剣になっている自分を笑った。この感じは近い場所にあったモノだった。明らかになっていく、頭に引っ掛かっているコト。
昔とは違う自分。そうだとしても『自分でなくなって』はいない。
「俺が俺である限り、俺は俺でしかないだろ? 別に他になろうとは思わないし、思ったこともない」
「うん……だけどね、見かけとかじゃなくて心は? 僕が言ったのは心の方。御影の心は苦しんでいて冷たい。御影でなくなってる」
向けられる瞳からは心が見透かされている感じがする。
澄んだ瞳。濁りが無く、汚れていない瞳。世の中に染まっていない色。それを持つことができるのは限られた人間だけだ。そして、今まで二人だけそういう人間に会ったことがある。
何故か怒りが込み上げてきて、責めたくなった。憧れていたモノを持っている紗雲。しかし、口から声は出なかった。責める権利なんて誰も持っていない。
紗雲は服から手を離し、力無く落としている俺の手を取った。その手は冷たく、体に染みていった。脳裏には鮮明になっていく、形を成していなかったモノ。
この温度が呼び覚ます、記憶。
「これ、あげる」
にっこりと笑って手を離した。離した手の中に残っていたのは小さな水晶玉で。大きさはだいたいビー玉くらいだろう。
透明な宝石は、手の中でひっそりと光っていた。
「水晶には浄化作用があるんだよ。悪いところを全部取ってくれる。だからきっと溶けるよ、心の氷」
笑みを浮かべた紗雲の表情が、二重に見えた。
それが錯覚なのかどうかを確かめるように、水晶玉を覗き込んだ。水晶玉には何も映っていなくて、浄化作用というのがなんとなくわかった。澄みきっていて、心を癒す。
暫く瞳を閉じていると、ふと、手に何かが触れた気がした。ゆっくりと目を開けたが、すでに無くなってしまっていた。冷たい感触だけが残る。
雨だ。ゆっくりと、一つ一つ雫となって降ってくる。
「あっ雨だ」
紗雲の声で顔を上げた。そして、息が詰まった。
頭の中で、パチンと音が聞こえた。
「泉里?!」
思わずその名が口から出た。
そう、彼は泉里だ。紗雲泉ではなく。本当の名前は。
「泉里……なんで」
「御影が苦しんでいるから。なぜ感情を隠そうとするの? 人はいつだって自分に正直じゃないと駄目なんだよ、壊れてしまうから」
相変わらず優しい声で話す泉里に、少しホッとした。
今会えたことが嬉しかった。自分でもわかるくらい、心が穏やかになった。引っ掛かっていたモノが解け、透明になっていく。
「ああ、わかっている。いや、わかっていた、だな。少し自暴自棄になっていただけだ」
「やっと笑った。忘れているのかと思った、笑い方」
その言葉で初めて気付いた。
俺は今、笑っている。
何年ぶりだろう、本当に笑ったのは。多分、一年ぶりだ。泉里の笑いが移ったのか、表情は戻せなかった。いつもの無表情には。
「御影、自分を許さなきゃ駄目だよ。君が悪いんじゃない。君がやるべきことをやるまで。それまで僕はいるから」
優しく降る雨の中に溶ける言葉。それはきっと本当だ。きっといてくれる。一人でなければ強くなれる。
それに、一番辛い役の浅葱がいる。
「まあ、この役は俺しかできないからな。夜宵と蛍はどうなってる?」
「覚醒したよ。もうすぐ……だね」
「そうか……心配してくれてありがとう」
こんなにも素直に言葉が出てくるとは正直思わなかった。最後の方は呟きだったが、泉里に聞こえていたようだった。自分が言った言葉に驚いているのに対し、泉里は微笑を返しただけだった。おおよそ、「御影は元から素直なんだよ」とでも思っているのだろう。
だからこそ、泉里には素直になれた。今までも、これからも。
「じゃあね、御影」
「うん、じゃあ」
まるで学校の帰りの別れのような挨拶だった。また明日会えるような、そんな感じのする挨拶。
最後にお互いに手を出して握手を交わした。泉里の手は冷たかったが、温かさが体を包んだ。内面的な、温かさが。
雨はまだ降っていた。その中で泉里はゆっくりと消えていった。例えるなら、氷が水に還るように。
手の中では水晶が淡く、輝いていた。
「もう始まっているのか……それともまだ準備期間、いや猶予期間なのか?」
名刺に似た銀色のカードをポケットから取り出した。
先程まで何も入ってなかったはずのポケットから出てきたことに少しも驚かなかった。ただ納得するだけで。
カード一枚で終わってしまうプログラム。作動させるのは俺だが、実行する意思はあの人のものだ。全員で決めたはずなのに、あの時は同意したのに今では反対する気持ちが強い。それは自分だけだとは思わなかった。皆が、あの人が反対したらいつでも止めることができる準備をしようと決心した。
プログラムはカード一つで変わる。