黒い女
「ぎょばがべぼげえええええええええええええええぇぇぇ!」
星が瞬く綺麗な夜――勝二にとっては恐怖の深夜。金切り声を上げて絶叫した。
「ぎえええええええええええぇぇぇ! ぎょがばええええええええぇぇぇ!」
目が飛び出し、喉を絞り出して絶叫する勝二は、タコ踊りのように手足をバタバタさせながら部屋中を逃げ狂う。
彼は今、自分の住んでいるアパートの部屋にいた。
部屋で奇怪なことをやり続けている彼はまさに変人だが、もちろん、理由があった。
――部屋に黒い女の幽霊がいた。
彼の住んでいる部屋はまさに《いわくつき》といわれる物件であり、毎夜毎夜現れる黒い女の幽霊に悩まされていた。
そして今日も、生気のない目で天井から首だけを出し、こちらを殺気立った表情で見つめてくる。さらには――
「……っ!」
金縛りのスタンドまで使いやがる。やつに対抗するには、こちらもスタンド使いになるしかないが、そんな都合よくスタンド使いになれるのならば、人生苦労しない。勝二は人間をやめたいと思った。
動けない勝二をいいことに、黒い女が天井から全身を出してこちらに近づいてきた。
長い髪から覗く瞳は、一点に勝二だけを見つめて距離を縮めてくる。
マジでヤられる五秒前――
「あ……あっ……」
まるでマッチョホモに睨まれたノンケのようだ。恐怖で息が荒くなっていき、歯がカチカチ鳴る。
勝二は悟った――《掘られる》。
朦朧とする頭で女を見つめ、口を開け、自然と、
「うんこアーーーーーーーーーーーーッ!」
叫んでいた。
「うんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!」
叫んだ。それはもう叫んだ。狂ったように糞便排泄物を叫びまくっていた。
叫ばないと恐怖でどうにかなりそうだった。
「うんこ! ウン子! うんち! 糞! 大便! 人糞! 汚物! 不浄物! ビチクソ! スカトロ! うんこ最高! うんこ食べる! うんこしよう! うんこわっしょい! うんこ臭い! うんこナンバーワン! 俺、将来うんこになる! うんこに幸あれえええぇぇぇ!」
隣の部屋の住人から壁を殴る音が聞こえているが、それでも勝二はうんこを叫び続けた。勝二は人間をやめた。
無視してうんこを叫び続けていると、とうとう壁越しに苦情がきた。
『さっきからうんこうんこうっせえんだよおおおぉぉぉ! てめえ、今何時だと思ってんだあああぁぁぁぁ!? ぶっ殺すぞおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!』
隣の男が壁越しで狂ったように怒鳴り散らしてくる。
勝二は恐怖と焦りといろんなものがごっちゃになった頭でキレた。
「うっせえ、うんこ! お前の顔面に糞まみれのケーキぶつけるぞ、ゴラア!」
『うんこはてめえだろうがあああぁぁぁ! 毎晩毎晩狂ったように叫びやがって! てめえの肛門に火のついたロウソクぶっ刺してやろうかゴラアアアァァァ!』
「てめえ、俺が痔になったらどうしてくれるんだゴラアアアァァァ!」
『薬ぬって安静にしろよゴラアアアァァァ!』
「安静にしたぐらいじゃ痔は治らねえんだよ! 痔なめてんのかゴラアアアァァァ!」
『なめてんのはテメエだろうがゴラアアアァァァ! 痔にもなったことないクソガキが痔を語ってんじゃねえ! あれはまじで痛いんだぞ! 肛門に釘刺してキン肉バスターくらうぐらい痛いって近所の野坂くんが言ってたんだぞゴラアアアァァァ!』
「お前もなったことねえじゃねえかゴラアアアァァァ!」
男と言い争いをしていると、視界の隅で何かが動いた。
――いつの間にか、黒い女が目の前まで迫ってきていた。
「うぎゃあああああああぁぁぁ! うんこおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!」
『だから叫ぶなって言ってんだろ! うんこぶち込んで永眠させられたいのか、あぁ!?』
「うっせえ、うんこ! 今それどころじゃねえんだよ! 女が迫ってきて死にそうなんだよ! うんこより女が怖いんだよ! うぎゃあああぁぁぁ!」
『てめえええええぇぇぇ! 毎晩叫んで何やってるかと思えば、そんな羨まし――いや、下種の極みみたいなことやってたのかあああぁぁぁ! 許さねえ! 絶対許さねえぞ、このうんこ野郎! 絶対許さねええええええええええええええぇぇぇ!』
男は勘違いして、怒りスイッチが頂点に達したようだ。
「いや、ちがっ! SMプレイじゃなくて、本気で生と死の境をさ迷ってるっていうか、俺をあっちの世界へ引きずりこもうとしているっていうか――」
『てめえええええぇぇぇ! SMプレイなんて羨ま――性根の腐ったプレイをしてたのかあああぁぁぁ! しかも相手が積極的だとおおおぉぉぉ!? 代われよ! 頼むから代わってくれよおおおぉぉぉ! くそおおおおおおおぉぉぉ!』
壁を蹴る音がさらに激しくなる。相手の男は相当キレたらしい。
ダメだ! こいつを相手にしてたら本気で殺される!
勝二は命の危険を察し、迫ってくる女に視線を合わせずに何とか逃げ場を探す。徐々に距離が縮まってくる女に体が震え、頭が回らなくなる。もうダメだと思いながらも壁越しに出口の方へ動く。
すると突然、部屋の電気が消えた。目の前が真っ暗になった。
「みんなあああぁぁぁ! おらにうんこをわけてくれえええぇぇぇ!」
パニックになった勝二は叫ぶ。もう恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
「うんこ仙人さまあああああああああああ! おらにお助けをおおおおおおおおおおお!」
電気がついた瞬間、彼の顔は引きつる。
――目の前に黒い女が立っていた。
「うんこだまああああああああああああああああああぁぁぁ!」
生を感じられない青白い肌。ボサボサの黒い髪から覗く瞳は血走っていて、左右激しく動いて勝二を捕らえる。カサカサの唇が弧を描いた。女の腕が彼の首に向かって動く。
「ぐっ……ぐるじい……うん……こ……」
ゾッとするほど冷たい手が喉を圧迫した。息ができず、壊れたリコーダーのような音が喉から出ていくだけだった。死ぬ。確実に殺される。
恐怖で体が震えたその瞬間、
――ドンドンドンドン!
アパートのドアが、何者かによってけたたましくノックされた。
フッと目の前の女性が消えていく。勝二は泣き叫びながら急いで部屋を脱出した。足がもつれ、転びそうになりながら震えの止まらない手でドアを開ける。
「うぎゃああああああああああぁぁぁ!」
部屋を出て管理人の部屋へ行こうとしたが、咄嗟に何者かに肩を掴まれる。急に制止させられ、後ろ向きに倒れそうな体をなんとか踏ん張って耐える。
部屋をノックしていた人物かと、見上げた勝二はギョッとした。
百九十センチ以上はあるだろう身長に、他者を寄せつけないピリピリした眼差し。黒いサングラスと黒いスーツが似合いそうな厳つい青年――いや、凶悪犯のような顔の男がそこに立っていた。ヤのつく職業をしていそうだ。
「おい、貴様が望月勝二か!?」
しかもその男、なぜか勝二の名前を知っていた。勝二にヤクザの知り合いなどいない。まったくの初顔合わせである。
ヤクザも勝二と同様、ギョッとした瞳で彼を見る。
それもそうだろう。勝二の顔はさっきの死闘のせいで鼻水と涙を大量に流し、踏まれたゴキブリのように汚くグチャグチャだったのだ。
そんな異様な勝二の姿に、ヤクザが少し怯みながら一歩離れる。だが、掴んだ肩は離さなかった。まるで逃がさないといわんばかりだ。
「き、貴様、部屋で一体、何をしていたんだ!? ていうか、何があった!?」
「うっせえ! ヤクザ! それどころじゃねえんだよ! 部外者はひっこんでろ!」
そう、本当にそれどころではない。今、彼の後ろの部屋にはあの女がいるのだ。一刻も早く逃げなければ、命が危ない。
普段の勝二ならば、決してこんな犯罪者面の男に喧嘩を売るようなマネは絶対にしない。寧ろ土下座して、尻尾を巻いて逃げるだろう。
しかし、幽霊とヤクザ、どっちが怖いといわれれば、勝二は十中八九幽霊の方だと断言する。
今、彼の頭の中には逃げることしか考えておらず、それを邪魔するやつはたとえヤクザであろうと許せなかった。
反抗的な勝二の返答に、ヤクザの顔つきが目に見えて怒りに変わった。
「き、貴様、調子にのりやがって! 妹に何をした!? ぶっ殺すぞ!」
「今まさにぶっ殺されようとしてんだよ! 生と死の瀬戸際なんだよ! いい加減肩を離せよ、うんこヤクザ! うんこをケツにぶっ刺すぞ!」
「き、貴様! 俺が痔になったらどうしてくれるんだ!?」
「もう痔の話はいいんだよ! いいから離せよ! そして生きたままコンクリートに埋められて海に沈んでこい!」
「お、俺が不祥事を起こしたヤクザみたいな道を辿れというのか!? もう怒ったぞ! 貴様は絶対に許せ――」
ヤクザの言葉は途中で止まった。不自然にピタリと止んだ。
すると、やつは勝二の背後にいる《何か》をみて、少しずつ血の気が引いていく。
「う……お……」
ヤクザは必死に何かを伝えようと、金魚のように口をパクパク開けて、掴んだ肩を揺さぶりながら何かを発するが、言葉にならない声が出ていくだけだった。ただ、肩を掴んでいる男の手が異常に震えていることだけはわかった。
勝二はゴクリと唾をのみ、ゆっくりと背後を振り返る。
――開いたドアの隙間から、黒い女の死んだ瞳がこちらを覗いていた。
「ううううんこおおおおおおぉぉぉぉぉ!」
「う、うわああああああああああぁぁぁ!」
男と同時に叫びながら逃げだした。
アクション俳優顔負けの転がり方で階段を下り、慌てて一階にある管理人の部屋に急いだ。
「開けて! 開けて! お願いだから開けてえええええええええぇぇぇ!」
泣き叫びながら一○一号室の部屋のドアを何度も殴る。やがて、半分眠った状態の管理人が姿を現した。
「こんな時間になんやねん……」
同級生であり、このアパートの雇われ管理人である関西弁の男――大宮春也は、欠伸をしながらボロボロの勝二を見て、目を見張る。
「え? ど、どないしたん、勝やん? 発情期のゴリラにでも襲われたんか?」
「ゴリラよりたちの悪いものに襲われたんだよ!」
「ま、まさか、発情期のニューハーフに襲われたんか!?」
「確かにゴリラよりたち悪いけど違うわ! 幽霊だよ! あのいわくつきの部屋の幽霊に襲われたんだよ!」
サッと春也は目をそらし、合点がいった顔をする。
「まあ、なんや。茶でも飲んで落ち着こうや」




