トンネルの闇
再びトンネルに入り、先が見えない漆黒の闇に襲われる。
勝二はゴクリと唾を飲み込む。なんだか最初に入ったとき以上に空気が冷たく、息苦しかった。深くて暗い海の底にいるみたいだ。
森閑した車内の中、カンナが何かに反応した。
「何かの気配がしますわ」
と同時に、車がピタリと止まった。不自然なほど急に動かなくなる。
ブレーキとかそういう問題じゃない。まるで、砂漠でタイヤが埋まったかのように、あるいは何者かに車が掴まれ阻まれているように、動いているのにまったく進まない。あきらかに異様だった。
「ち、ちょっと、どうしたんですか?」
焦る勝二に、山之原はアクセルを踏みながら舌打ちする。
「くそっ、エンジンはかかってるのにまったく進まねえ。まるでゴリラ似のムキムキマッチョに車を掴まれているみたいだ!」
「想像したら凄い絵が浮かんだんですけど! 幽霊よりも恐いんですけど!」
その瞬間だった。
――車の周りに大勢の人が立っていた。
音もなく、暗闇の中、まるでたくさんのロウソクの火が一斉につくかのように、ふっと現れた。
生気のない虚ろな目。青白い無表情な顔。顔面から血が滴り、女や子供、お年寄りや大人まで、ありとあらゆる人たちが車の周りを取り囲んでいた。何をするでもなく、ただジッと勝二たちを睨んでいる。微動だにしない。
どう見てもやつらは《生きていなかった》。
『うぎゃああああああああああああああああぁぁぁ!』
勝二、桜、山之原は一緒に叫んだ。
「なにこれなにこれなにこれナニコレ! 大勢いるんですけど! みんな死んでいるんですけど! 怖くておしっこどころかうんこ漏らしそうなんですけどおおおおぉぉぉ!」
「おおおおおお落ち着きましょう、勝二さん。だだだ大丈夫です。彼らは見てるだけで襲ってくることは――ひいっ!」
桜の目の前にいる幽霊が窓をバンッと叩いた。そして、恨みを込めた瞳で桜を凝視する。敵意丸出しだった。たとえ相手が蟻でも一瞬で踏み潰すかのような容赦ない殺気を感じた。殺される。
彼女は涙目で勝二を見て、この世の終わりのような顔でガタガタ震える。
「ど、どうしよう、勝二さん……下着が濡れちゃいました」
「え、ちょ、漏らしたの!? 女の子が漏らしちゃったの!? 大と小どっちだ!?」
『ハ、ハアハア……せ、拙者にそのパンツを下さい』
木原さんが恍惚とした表情で割り込んできた。
「木原さんは黙ってろ! ケツにスタンガン突っ込むぞ!」
『だから木原って誰だよ!』
勝二たちがぎゃあぎゃあと騒いだ途端、死人たちは堰を切ったように襲いかかってきた。
全員で窓を激しく叩き、まるで金棒を持った鬼のように威嚇してくる。一歩外に出てしまえば、情けもなく殺されるだろう。
精神的に追い詰められそうな中、勝二は耳を塞いで叫ぶ。
「ていうか、行きのときに襲ってきたのはこの人たちなのか!? 見えてなかったとはいえ、この中で大富豪とかふざけたことしてたの、俺たち!?」
行きのときはやつらが見えなかった分、恐怖が薄らいでいた。こんな幽霊のバーゲンセールの中、調子を乗っていたあのときの自分が愚かすぎて笑えない。
ただ一人、何の反応もなく、ジッとやつらを観察していたカンナが、
「孝史様、おそらくこの人たちは先ほどの祠の祟りで死んだ者たちかと」
「なんでわかるんだ、カンナ!?」
カンナは冷静に、そして淡々と目の前にあるものを指差した。
「だって、あそこに髪の毛とち○こがあるんですもの。あれってメスブタが言っていた、祟りでハゲとオネエになった友人ものでしょう?」
「おーい、誰だ! 俺の車のボンネットの上にきたねえ物体置いたやつはぁぁぁ!?」
カンナが指差す先――ボンネットの上に確かにあった。ボサボサの髪の毛の束と、男のこん棒が。なんてものが置かれているんだ! 怖ろしい!
刹那、ブチリと山之原の血管が切れる音がした。
激しく窓を叩く死人に、ボンネットの上の惨劇。山之原の沸点が頂点に達し、真っ赤な顔でブルブル震える。
「てめえらいい加減にしろおおおぉぉぉ! 洗車したばっかりだって言ってんだろおおおぉぉぉ! えげつない物体を置いた上に汚い手で窓を叩くんじゃねえよおおおおおおおおぉぉぉ! 傷でも血でも一つでもつけたら弁償だからなああああああああああぁぁぁ!」
山之原が激昂の表情で怒鳴り散らす。目が完全に血走っていた。
すると、死人たちの手がピタリと止んだ。
全員、目と目を合わせ、互いに困った顔で悩んだ後、
――ちょんちょん
全員で人差し指を突き出し、そっと窓を叩き始めた。
「優しく脅せばいいってわけじゃねえよおおおおおおおおおおおぉぉぉ!」
山之原はバッと振り返り、怒りで充血した目を勝二たちに向けた。
「おい、お前たちも怒鳴れ!」
「え、えぇ!? 俺たちもですか!?」
勝二は尻込みした。
「幽霊と対面したとき、こちらが恐怖を感じれば感じるほど相手がつけ込みやすくなる。幽霊の簡単な対処法ってのは怒鳴ってビビらすことだ。つまりなめられんな。チンピラ同士の喧嘩だと思え」
「幽霊をチンピラ扱いする山之原さんの肝の大きさに驚きなんですけど!? で、でも、そういうことなら怒鳴らないわけにはいかないですよね……」
勝二は大きく息を吸い込み、
「さっきからうるせえんだよ! 車内の迷惑考えたことがあるのか!? 汚い面しやがって! 口に花火突っ込んで打ち上げてやっぞ! 文句があるなら剣道有段者の友達がいる友達を持っている俺が相手になってやる!」
「それ、勝二さんと他人の方ですよね」
桜から乾いた突っ込みが漏れた。彼女も大きく息を吸い、
「おまえのかあちゃんでーべーそー」
『おまえのにいちゃんひきこもりー』
横から木原さんも、小学生が言いそうな悪口で続いた。
今度はカンナがヒソヒソと、
「ねえ、なんだか臭くありませんか? とても臭うのですけれど」
「ああ、臭い。かなり臭いぜ。あいつらじゃね? まじ臭いわー」
山之原と一緒に、精神攻撃で死人たちを追い詰める。
死人たちは完全に動きを止める。
何をするでもなく、ただ立ちつくしていた。その瞳は悲しみを含んでいるような気がしたが、多分気のせいだろう。うん、気のせい気のせい。
『うぅ……』
中には嗚咽を漏らして泣いている死人もいた。相当堪えたのだろう。俺は悪くない。俺は何も悪くないぞ!
やがて、死人たちは煙のようにフッと消えた。いや、逃げた。
「今だ!」
山之原が勢いよくアクセルを踏み、車が急発進した。トンネルの中を猛スピードで進んでいく。
「こ、これで大丈夫ですかね?」
勝二は内心ビビっていた心を落ち着かせる。
「ああ、おそらくこれで――って、なんだ、あれ!?」
サイドミラーを見ながら山之原が叫んだ。
勝二と桜は身を乗り出して後ろを見る。そして、言葉を失った。
――異形のものが車を追いかけてきていた。
闇よりもさらに濃い漆黒が、人の形をして四つん這いで追いかけてきていた。目とか鼻とか、そんなものはない。真っ黒い《何か》だ。
直感でわかる。あれは本気でまずいものだ。憎悪、嫌悪、悲愴、怨念、後悔、苦痛――さまざまなものが、やつを見た瞬間に流れ込んできた。
勝二はすんでのところで叫び声をのみ込む。冷や汗を拭い、非常識な速さで追いかけてくるやつと山之原を交互に見ながら声を張り上げる。
「や、山之原さん! もっとスピードを上げて下さい!」
「もうやってるよ!」
さすがの山之原も切羽詰まっていた。
「塩だ! 塩でやつを足止めしろ!」
勝二と桜はすぐに後ろの荷物の中から塩を探した。
心理的に追い詰められる状況の中、頭と体がうまく働かず、なかなか見つけることができない。
「ビンだ! 黒いビンに入ってる!」
「ありました!」
桜が見つけ、勝二に手渡した。
「私が勝二さんを支えますので、窓から塩を投げて下さいハァハァ」
「おいぃぃぃ! この状況で変な妄想するんじゃねえよ! 涎が垂れてるから!」
「す、すみません。つい……」
『で、では、拙者はお嬢さんを支えるとしようハァハァ』
「木原さんはただ触りたいだけだろが! いいから黙ってろ!」
『す、すまない。つい……』
「あんたら、時と場所を考えて!」
桜に支えられ、勝二は窓から身を乗り出す。後ろから興奮した息遣いが聞こえてくるが、もう気にしないことにした。ビンのフタを外す。
「って、なんじゃ、こりゃあ!」
ビンの中から粘々したものが出てきて、手に張り付いた。ぬるぬるして気持ち悪い。
山之原が「あっ」と声を出し、
「悪い、それローションだわ」
「なんでそんなもの車に入れてるんですか、あんた!」
「それはあれだよ、あれ。察しろよ」
「この状況でなければ顔面タコ殴りにしてんぞゴラ!」
「とりあえず、それをやつに投げろ! 気休めぐらいにはなるだろ!」
「え、えぇぇぇ!?」
これしか選択肢はなかった。勝二は腹をくくり、狙いを定める。そして、やつに向かってローション入りのビンを投げつけた。
バリンとビンが割れる。見事やつに命中した。
「や、やった!」
やつの体はローションまみれになり、闇と粘々の液体が絡み合った何かが四つん這いで走っていた。
すると、何かがフワリと宙を待った。
「あ、あれは……洋子さんの友人のちんちんと髪の毛だ!」
ボンネットから飛ばされた男の勲章と髪の毛がやつの顔面と思われるところに張り付いた。ローションに絡まり、やつの体が汚物まみれになっていく。
「とんでもない卑猥なバケモノが出来上がったんですけど! モザイク修整が必須なレベルなんですけど!」
「走る猥褻物だな、ありゃ」
山之原が今のやつの状況をそのまま表した。
滑って走りにくいのか、さっきよりやつの速度が落ちている。ローションってすごい!
『見つけたぞ、ほら』
木原さんが黒いビンを見つけてきた。それを受け取り、中を確認する。今度はきちんと塩のようだ。
「よ、よし! 今度こそハンドボール投げ男子記録を更新した友人を持つ俺がやってやる!」
手に塩を持ち、徐々に距離が縮まってくる卑猥物に向かって投げつけた。
やつは目に見えて怯み、嫌そうに体を振って塩を掃おうとする。
しかし、やつの全身はローション(と汚物)まみれ。いくら体を揺らそうがローションに張り付いた塩はとれない。ローションってほんとすごい!
『ヴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァ!』
やつはこの世のものとは思えない、全ての憎しみを体現したような叫び声を上げた。心臓を掴まれたかのような心底おそろしい悲鳴に、思わず耳を塞ぐ。
「ち、ちょっと、これ、まずいことになってませんか!?」
ローションまみれにされた挙句、汚い棒と髪の毛をすりつけられ、塩ぶん投げられたら誰だって怒るだろう。
やつの悲鳴がトンネル内に響き渡る。
鳴りやまない絶叫の中、黒い靄のものがどんどんやつの体に集まってくる。それらがやつと同化し、闇が闇を覆っていく。まるで地獄の入り口のような濃密な闇だった。あれにのみ込まれたらただでは済まない、と誰もが悟った。
人の姿をしたその闇は、四つん這いから二足歩行となって立ちあがる。ローションと汚物と闇を身にまとい、こちらに走ってきた。まるで人類の進化の過程から、最終的に黒いバケモノへと進化したみたいだった。
「ちょっとおおおぉぉぉ! やつが猿から黒いペプシマンに進化したんですけど! コーラもといち○こ持って凄い速さでこっちくるんですけどおおおぉぉぉ!」
「塩だ! 塩を投げ続けろ!」
山之原に言われたとおり、塩を投げた。
怯むものの、それ以上に怒りが勝っているのか、怒り狂いながら追いかけてくる。
『ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』
「ぎゃああああぁぁぁ! くるなあああああああぁぁぁ!」
ありったけの塩という塩をぶん投げ続けた。
「孝史様、入口ですわ!」
カンナの示す先に光の入口があった。
どんどん光へ、車がもの凄いスピードで走っていく。この際、事故など気にしている余裕はなかった。
「うおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!」
山之原は雄叫びを上げ、アクセルを全力で踏む。
車とやつの速さは拮抗する。たが、僅かにやつの方が速かった。
「うぎゃあああああああああああああああああああああぁぁぁ!」
窓から身を乗り出していた勝二の目前に、やつの真っ黒の手が伸びてくる。勝二を闇へ引き込もうと、奇声を上げながら距離を詰めてくる。
勝二は泣き叫びながら、もうほとんどない塩をやつの汚物まみれの顔面に投げつけた。
勝二とやつとの距離があと数センチ――
瞬間、光に包まれた。
間一髪のところで、車がトンネルを脱出した。
「うぎゃあ!」
急停止した車に上半身が投げ出される。しかし、桜が必死にひっぱってくれたおかげで、車の中に倒れ込んだ。
「し、勝二さん、大丈夫ですか!?」
「い、いぎでる……おれ……いぎでる」
あまりの恐怖にボロボロと涙が出ていた。全身から力が抜ける。
本当に怖かった。本気で死ぬかと思った。生きていることが不思議なくらいだ。
「もう追ってこないようだな……」
山之原がホッと息を吐き、額の汗を拭う。
カンナが後部座席を確認して、「あら」と声を上げた。
「メスブタが気絶していますわ」
洋子を見ると、白目を向いて倒れていた。息はしている。
おそらく、木原さんが体からいなくなったのだろう。出てくるのも唐突で、去っていくのも唐突な落ち武者だった。
勝二は最後にもう一度、後ろのトンネルを振り返る。
奈落の底のような闇の入口に、怖くて気が狂いそうだった。体がブルリと震える。もう当分、トンネルというトンネルには近づかないだろう。
これで全て終わったと安堵したとき、すぐ横の窓から血まみれの落ち武者がジッとこちらを睨みつけていた。
『よかったなぁ。もう少し遅ければ――死んでいたぞ』
第二夜 【無人のトンネル】
~完~