脱出
第9章
「ミハイル、テリー、色々、ありがとう。俺だけが・・・・・・。 悪いな」
地球帰還に向けての準備は、全て終わった。
ジェリーは、ミハイルとテリーとの最後の通信を交わした。
「ジェリー必ず戻るんだぞ! 突入角度に注意しろ!」
ミハイルは絞り出すように、苦しそうな声で言った。
ミハイルの空気残量は0パーセントを示していた。
「隊長のお陰でここまで出来た。後はジェリーを送り出すだけだ」
ミハイルは薄れいく意識の中で、隊長に感謝していた。
後は、このDANGERと横に書かれている、赤いボタンを押すだけだ。
テリーは船外で待機していた。
もしも、緊急用切り離し装置が作動しない場合、テリーが手動で、ISSとソユーズ宇宙船を、切り離す事になっていた。船外からミハイルに教えられた方法で、ISSとのドッキング部分を壊して、ソユーズ宇宙船を無理やり切り離すのだ。この方法だと、ISSは2度とソユーズ宇宙船と、ドッキング出来なくなる。
しかし、今となっては、ソユーズ宇宙船とドッキングする必要は、もう、ない。
「切り離すぞ!」
ミハイルの口調が厳しくなった。
「OK、頼む!」
ジェリーが返事すると同時にバン、バンと2回大きな破裂する音が鳴った。
そして、ガチャンと音がすると、ソユーズ宇宙船がISSから切り離され、ゆっくりと 離れていくのが、体で感じられた。
「ありがとう、ミハイル、ありがとう、テリー、ありがとう、みんな!」
「ジェリー! 生きてもどれよ!」
テリーはありったけの大声で叫んだ。
ジェリーは涙があふれて、すぐに返事する事が出来なかった。
でも一言、
「テリーありがとう! かならず生還するぞ!」
と言った。
それからしばらくの間、ジェリーは耳を澄ましたが、ミハイルからの返事はもう、返ってこなかった。
ただ、少しのノイズが聞こえるだけだった。
ミハイルは、切り離しのボタンを押した後、意識を失っていた。そして二度と目覚めることはなかった。彼は最後の最後まで、仕事をやりとげたのだった。
テリーには後、少しだけ時間が、残されていた。
ゆっくりと離れていくソユーズ宇宙船を見送った後、ISSに戻り動かないミハイルを見つけ、抱き起こした。
「ミハイル」
と声をかけたが、その顔はまるで寝ているようだった。
ミハイルが死に、隊長もいなくなり、テリーだけがISSに残された。
テリーの空気残量も後、わずかに残っているだけだ。
彼はISSの外に出た。
目の前にはとても懐かしい、地球があった。
「ニュージーランドはどこだろう」
自分の故郷を探した。
悲しいことに、テリーが見ている地球は一面の雲に覆われていた。陸も海も雲が邪魔をして何も見えない。
「核戦争か、バカ野郎!」
とポツンと言った。
そして、
「ちょっと、疲れた」
テリーは目をつぶって無重力に、体をまかせた。
やがてテリーは意識が薄れていき、苦しまず、眠るように死んだ。
多くのクルーを犠牲にして、地球への帰還にチャレンジしたジェリーには、これからやるべき作業が、沢山あった。
ソユーズの帰還モジュールにいるジェリーは、窓からISSとの距離を肉眼で計っていた。
ソユーズは少し傾きながら、ISSからゆっくりと離れていった。
ISSの最後尾にドッキングしていたので、ソユーズがISSを追いかけるような、状態になっていた。
まず、ジェリーが初めに、やらなければならない事は、ソユーズをISSの軸線上から離すため、地球に向けて、噴射を幾度かすることからだった。
通常なら、コンピューターによって正確に姿勢を保ちながら、出来る簡単な作業だ。だが今は、コンピューターや計器類も一切使えない。自分の目で見ながら手動で、スラスターの噴射を、やらなければならない。
とても困難な作業だ。
ジェリーは操縦席には座れず、ISSを目視で追うために、中腰で窓を覗いていた。そして、ISSからソユーズは十分離れていると、ジェリーは確認すると、
「一度、試しに短時間だけ噴射しよう」
ジェリーは窓を見ながら、レバーのボタンをポンと短時間押した。
するとISSが視界から、消えた。地球はこの窓から、しっかりと見えている。
ソユーズには窓が1つしかないので、反対側を見る事は出来ない。前にある軌道モジュールに行けば、丁度、今見ている反対側に窓はあるが、地球帰還の体勢をとっているため、しっかりとハッチが閉じられて、見に行くことが出来ない。
大気圏再突入の前には、前後にある起動モジュールと、後ろにある機器・推進モジュールは切り離し、ジェリーが乗っている、帰還モジュールだけが、地上に降り立つ事になる。
起動モジュールと、機器・推進モジュール、は大気圏再突入時の熱で、燃え尽きてしまう。ジェリーも操縦に失敗すれば、同じように、大気圏で燃え尽きてしまう。
ジェリーには、この1回の噴射で、ISSからどれぐらい離れたか分からなかった。目で見て確認する事が出来ないため、しだいにジェリーの気持ちに、焦りが込み上げてきた。
だが、
「焦るな、パニックになるな! 気持ちを抑えろ!」
と自分に何度も、言い聞かせた。
「もう1度噴射して、ISSからさらに離れよう」
ジェリーにはもう、迷いはなかった。
今度は腕時計を見ながら、5秒間噴射した。
ソユーズはISSからどんどん離れていった。そして、地球に近づいていった。
大気圏に再突入するためには、ソユーズを反転させ、メインエンジンで制動噴射を、しなければならない。
メインエンジンの制動噴射で、ソユーズの速度が落ちれば、後は、地球の重力に引かれ、自然と地上に落ちていく、後は重力にまかせることになる。
ジェリーはしばらくの間、待った。
15分程経ったであろうか、ジェリーは腕時計を見た。
そして、
「そろそろ始めるか!」
ジェリーはレバーを軽くつまんで、一瞬だけ噴射した。腕時計ではとても計れない、1秒以下の時間だ。
勘だけが頼りだ。
すると、船が回転し始めた。
「今だ!」
ジェリーは逆方向に1回、そして回転の様子を見て、もう1回逆噴射した。すると、回転していたソユーズが、ピタリと止まった。
「よし! やった!」
ソユーズの反転を、ジェリーはコンピューターの助けを借りずに、やってのけた。
後、やるべき作業は、メインエンジンを点火させ、ソユーズの速度を落とすことだ。このメインエンジンを、点火するタイミングで、地球のどの地点に着陸するかが決まる。そして同時に、大気圏再突入角度が決まる。
ジェリーには、着陸地点を選択する事は出来ない。それにどこに着陸するかは、全く分からない。
通常は、ISSと地上管制センターのコンピューターで、大気圏再突入のシミュレーションをする。その結果のプログラムを、ソユーズ宇宙船のコンピューターに、アップロードする。そして地球に帰還するクルー、特に船長はそのプログラムの指示に従って、姿勢制御や、メインエンジンの噴射をすれば無事、目的の大地に、降り立つ事が出来る。
ISSに、ソユーズ宇宙船がドッキングしている間に、全てが決まる。
しかし、今回は全ての操作が手作業だ。ジェリーの指先ひとつで、何もかも決まってしまう。
生きるか、死ぬかもだ。
誤ったタイミングで、誤った時間、メインエンジンを噴射してしまうと、地球に戻るどころか、大気圏再突入角度が浅いと地球の大気に、跳ね飛ばされて延々と、地球を回る事になる。
また、大気圏再突入角度が逆に深過ぎると、地球の大気との摩擦熱で、ソユーズ宇宙船ごと燃え尽きてしまう。
ISSから離脱してから、ジェリーが覚悟していた事だ。
ジェリーがミハイルから教わった事は、地球への再突入角度は2~4度の間、そして、メインエンジンを噴射してから、地球帰還までの時間は、約54分であると言う事だけだった。あのISSでの状況下では、ミハイルは多くを語らなかった。たとえ、話したとしても、どうにもならない事だったからだろう。
危険は承知の上だ。
生きて地球の大地に立つか、どうかだ。
ジェリーが乗っている帰還モジュールは、ロシアの大地に着陸する事を、前提に作られている。もし、海上に着陸したらどうなるか、果たして帰還モジュールは海の上に、何分浮いていられるかどうか、など、ミハイルは話さなかった。そして、ジェリーもあえて聞かなかった。 ただ、ミハイルの言っていた、54分間を何も考えずに耐えようと、ジェリーは覚悟を決めていた。
焼け死ぬか、永遠に地球を回ることになるか、それとも、奇跡が起こって大地に降り立つことが出来るか、この3つだけだ。
覚悟は出来ているものの、なかなか、ジェリーは踏みきれずにただ、地球を何周も回っているだけだった。その目は、うつろだった。
窓から見る、地球の状況はひどいもので、もし、生きて地上に戻れたとして、自分の戻る場所が、残っているかどうかは、分からなかった。
アメリカはどうなっているだろうか、故郷のペンサコーラはどうだろう。お袋は生きているだろうか、北米大陸が、地球を覆っている雲の隙間から、見えてくるたびに思った。
核戦争が憎かった。
しかし、今は生還することだけに、集中しなければならない。戦争のことは戻ってから考えよう。
そして、どのあたりで、メインエンジンを噴射しようか迷っていた。
やがて、どうやら踏ん切りがついたようだ。
「メインエンジンを一度に長時間噴射するより、何回かに分けて噴射して、様子を見よう」
ジェリーはテリー、ミハイルと共に、このソユーズ宇宙船でISSに初めてやって来た。ISSでの滞在時間は3週間程になる。地球に戻るための大気圏再突入は、ジェリーにとっては初体験だ。
「空気は十分ある。焦る事はない」
ジェリーは自分に言い聞かせた。
しかし、やはり地球で起こっている、核戦争を見るのは耐え難い。
ジェリーは、地球で全面核戦争が起こっていると、信じこんでいたが、実際は、核戦争が起こったのではなく、核物質全てが、まるで、自分の意志を持ったかのように、爆発していたのだった。何故、次々と爆発を起こしているのかは分からない。ただ、これらの核物質は全て、人間の手で作られたものだ。これだけは間違いなかった。
核兵器、どの国が作ろうが、紛れもなく大量殺人を目的として、作られた兵器だ。どの国が持とうが、決して許されない、しろものだ。
原子力発電所、核物質を平和的に、利用しようとする目的で作られた。だが、燃料となる核物質の燃えかすは、人類の手に負えない物質だ。燃えかすの出す放射線は、長いものになると、太陽系が形成された時期とほぼ同じく、50億年以上も放射線を出し続ける。人類はそれをどうする気だろうか、十分な議論もせずにただ、発電コストが安いというだけで、お金の損得勘定の、ためだけに作ってしまった。
人間の悪い面での欲が、作り出したどうにもならない物質だ。
地球は今、人間の手で作られた欲の結晶、核によって自滅する運命にあった。
「よし!」
ジェリーは大気圏再突入のため、メインエンジンを数秒間噴射した。船全体がガタガタと振動した。加速度も感じる。
「1回目の噴射は上手くいった」
窓で外を確認したが、心配していたスピンは、かかっていない。船は水平を保ったまま、地球を回っている。
ジェリーはスムーズに、事が進んでいるのに安心した。
「2度目の噴射だ!」
噴射した途端に、ジェリーは異変に気付いた。
そして反射的にレバーから指を離した。
「何だ!」
窓から見る地球が、ゆっくりと回転し始めた。いや、違う、ソユーズ宇宙船が回転してるのだ。
「おー、スピンがかかってる。止めないと」
姿勢制御用のレバーを、必死の思いで操作するが、やはり、コンピューターの支援なしでは、どうにもならない。とうとう、船は横方向と、縦方向にも、スピンを始めた。地球が視界から、現れたり消えたりしている。ジェリーは混乱し、どうにかスピンを止めようと、冷静さを失いかけていた。
「ダメだ! 止まらない!」
ソユーズ宇宙船は完全にコントロールを失い、回転しながら、しだいに高度を落としていった。
「このまま大気圏に突入したら燃え尽きてしまう!」
しかし、もう、ジェリーには、どうにも出来なかった。
たとえ今、コンピューターの助けを、借りられたとしても、制御不能の状態から、復帰出来ないだろう。ジェリーは、この絶望的な状況でふと、ミハイルの言葉が浮かんだ。
「大気圏再突入の時は、その前に、軌道モジュールと機器・推進モジュールを必ず切り離すんだぞ」
興奮状態の中、不思議な事にミハイルの顔と、この言葉が浮かんだ。
「そうだ! 切り離さないと!」
ジェリーは手元にある、切り離しのスイッチを無我夢中で押した。
「ガシャーン」
切り離しは成功したようだ。
グルグル回る窓から、切り離された、起動モジュールと機器・推進モジュールが回転しながら、どんどん離れていくのが見える。そして、ジェリーはあきらめないで、船体の回転を何とか止めようと、姿勢制御のレバーを、前後左右方向に必死に、動かした。その操作にともなって、帰還モジュールだけになった船体から、姿勢制御用のスラスターから、ジェットが何度も噴射していた。
「あっ」
必死になって、窓を見ながらレバーを操作していたジェリーは、回転が1方向になったのに気付き、レバーから指を離した。そしてISSがバラバラに、なっているのを目にした。
「大きなデブリに衝突したのか?」
やがてジェリーの乗った船体は、くるくると回転しながら濃い大気層へ、落下していった。