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2.3

 若葉を家まで送り届け帰宅した了一は、これ以上作業を進める気にはならなかったので、ベランダで煙草を吸いながら、分厚い灰色の雨雲を見上げていた。

 

 雨雲も仕事をする気にならなくなったのか、夕方から一滴も雨を降らせていなかった。午後五時近くまで作業をしていた了一は、雨雲よりも勤勉な気がして、少しだけ誇らしくなった。

 一本目の煙草を、そろそろ煙草が溢れてきそうなジンジャエールの缶の口に押し付けていると、ケイもベランダにやって来た。彼は珍しいこともあるもんだな、と思いながら二本目の煙草に火をつけた。


「若葉さん、元気そうでしたか?」


 エアコンの室外機に腰を掛けたケイが、了一がつい先程までしていたように雨雲を見上げ、了一に尋ねた。彼女が若葉にしばらく会っていない事を彼は思い出し、この言葉には社交辞令以上の意味があることを理解した。


「元気だったよ。強いて言うなら、俺が考えていたよりもずっと大人になってて驚いたけどね」


 率直な自分の感想を、彼は述べた。

 右手に持った煙草に口を付け、肺いっぱいに煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


「桜の事を、少しだけ聞かれた」


 桜、という単語を了一の口から聞いたケイは、寂しそうな目線を彼に向けた。


「なぁケイ、やっぱりお前は、俺のことが憎いか?」


 彼は煙草の真っ赤な先端を見つめながら、自然とそんな言葉を口にしていた。


「マスターを救えなかったあなたを、許した日はありません」


 マスター、という言葉を了一は久々に耳にした気がした。彼女が桜をそう呼ぶのは、彼女の人工知能を開発したのが桜だからである。了一は彼の死後、彼女をパソコンの中から人間そっくりの人形に移し換えただけにすぎない。

 桜のいない世界を生きながらえさせていることさえも、恨まれても仕方のないことだと彼は考えていた。


 マスターを救えなかった。


 その言葉が了一の頭の中で何度も反芻される。許されることはない。背負わなければならない。それでも、彼は今でもその償い方がわからないままでいた。彼は自分の幼稚さと愚かさに嫌気がさし、無意味な質問をケイにした。


「今、俺をここから突き落したら、お前の心は晴れるかもな」


 その問いにケイは答えず、黙って視線を雨雲に戻した。

 なぜ。どうして。

 そんな言葉が、桜の死を思う度に了一の心を支配した。鼻につく煙草の匂いが、今は鬱陶しくさえ感じるほどに。

 彼は二本目の煙草をろくに吸い終えずに空き缶の中に詰め込むと、横でケイがそうするように、今にも泣き出しそうな雨雲を見上げた。




 それから三日後、完成した30500と一緒に、了一は白金台にある依頼主の豪邸を訪れた。

 玄関先で出迎えてくれた家政婦が、依頼人の美智代は二階のデスクで仕事をしているので、もう少し時間がかかりそうだと了一に告げた。

 案内された応接間には悪趣味な調度品と映画の中でしか見ないようなシャンデリアが吊るされており、部屋の隅々まで掃除が行き届いていた。安物のソファーと小汚い部屋に慣れている了一には、学生時代の職員室よりも居心地の悪さを覚えた。


 テーブルの上には高級葉巻と喫煙道具一式が置かれていたので、彼は遠慮なくそれに手を伸ばし、美味そうな葉巻に火を着けた。いつものように吸い込むと予想以上に煙が肺に入ってしまい少しせき込んでしまったが、先端から流れ出る上品な煙が彼の居心地の悪さを少しだけ解消させた。

 豪華な装飾が施された階段を不機嫌そうに降りてきた美智代は、了一の横で初恋の人が行儀よく座っているのを見て息をのんだ。

 了一はやっと登場した依頼人に向かって、ソファーに座ったまま、どうも、とだけ告げた。葉巻を存分に楽しんでいた彼は、彼女の私物に手を出しておきながら、喫煙を邪魔されたことに腹を立てた。


「どうもガワ屋さん。その葉巻、誰が吸っていいと言ったのかしら?」

「たった二枚の写真からこれだけ似せたんです。ボーナスってことにしておいてください」


 似せた、という了一の遠慮のない言葉が、ソファーで座っているのが初恋の彼ではなく自分が購入したロボットだということを彼女に思い出させた。


「そうね、確かによく似ているわ」


 突然、応接間の奥にある電話が鳴り響いた。苛立たしげに唸り声をあげた美智代は、大きな足音を立てて居間の奥に消えた。了一はここぞとばかりに葉巻を強く吸ってみた。案の定、咳込んでしまった。


「はいもしもし、私だけど」


 応接間と居間の間にドアや壁はなく、電話に応対する彼女は了一からは丸見えで、声も筒抜けだった。もっとも、電話の向こうで誰が何を喋っているかということに関しては推測するほかなかったが。


「なに、副社長。余程の事がないと電話しないでといつも言っているでしょう」


 彼女は相変わらず高圧的だったが、電話の受話器を持つにつれ、彼女の顔から血の気が引いて行くのが見て取れた。その姿を見て、了一は残りの代金はしっかりと支払われるのかと心配になった。


「そう、えぇ……そういうことなのね。さよなら、社長」


 彼女は震える手で受話器を置き、凛とした足取りで応接間に戻ってきた。


「会社、乗っ取られちゃった」


 彼女は仰々しく肩をすくめて、明るい声でそう言った。

 了一はどんな言葉を掛ければいいか思いつかなかったので、時間を稼ぐ為に葉巻の煙を一口吸い込んだ。


「これからどうするんですか?」


 思いついた質問が失礼なものだということぐらい自覚していたが、好奇心に負けた了一は尋ねた。


「その時考えるわ」


 そう答えた彼女の浮かべた、諦めたようにも悟ったようにも見えるその笑顔は、了一が唯一彼女に好感の持てる表情だった。


「それでは、これで無事依頼達成ということで。残りの二百万円は暇な日にでも口座に振り込んでおいてください」

「後回しにするのは好きじゃないわ。これ、さっさと持って帰りなさい」


 上着から取り出した、二つの百万円の束を、テーブルの上にぞんざいに置く。それを見た了一は、仰々しく肩をすくませてから、札束を手に取った。ジーパンのポケットには入りそうになかったので、そのまま手に持って帰ることにした。


「それじゃぁ、また縁があったら」


 これから彼女はどう変わっていくのだろうかと思いながら、彼は豪邸を後にして家路についた。

 了一が玄関から出ていくのを立ったまま確認すると、美智代は先ほどまで彼が座っていたソファーに腰をかけ、すぐ横で写真と同じように笑みを浮かべている初恋の人を優しく抱きしめる。


「あなたって、本当に寂しい時にはいてくれるのね」


 そんな彼を前にして、彼女の心もまた、セーラー服に三つ網の高校時代の自分に戻っていた。


「どうしました、御主人様」


人の顔を手に入れた30500が、以前と変わらない無機質な声で答えた。


「美智代、って呼んで。それに今日から、敬語も禁止」


 拓人は数秒かけてその命令を理解し、彼女の呼び方と言葉使いを更新した。


「わかったよ、美智代」


 その言葉を聞いて、彼女は思わず涙を流した。




 七月三十日、天気は相変わらずの土砂降りで、梅雨はまだまだ空けそうもない。

 相変わらずベランダで煙草を吸っていた了一は二本目を吸おうと煙草の箱に手を伸ばした。しかし、箱の中身はもう空になっており、買い置きも無いことも同時に思い出した。

 居間に戻った了一は財布と、今度は忘れずにライターをポケットに入れ、煙草買ってきまーすと新品の掃除機でカーペットを掃除しているケイに告げた。


 するとケイは掃除機の電源を切り壁に立て掛け、エプロンをきれいに畳んでソファーの上に置いた。


「待って下さいリョーイチさん、私もいきます」

「お前な……」


 了一はケイを説得する言葉を考えたが、ケイの頑固さを思い出し、それ以上考えるのをやめた。


「傘、一本しかないぞ」


 彼が顎で指した傘立てには、紺色の傘が一本あるだけだった。


「それだけあれば十分です」


 もっともそんな小さなことは、彼女の意志をより強くさせるだけだったけれど。




 一人と一体で一つの傘を分け合いながら、人混みの中央通りを歩いて行く。


 雨が、降ってくる。

 

 そこに、区別はない。傘を持つ者、持たぬ者。金持ちと貧乏人。

 そして、人間と機械。

 皆同じように雨に当たる。


 降ってくる雨に、そんな些細な区別はない。

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