2.1 山田美智代
雨は、止まない。
恵みの雨か、天罰か。空から落ちてくる雨が何物かは、人々の都合のいい解釈で定められる。いる筈のない神と名付けられることさえあった。
雨は、降り続ける。
それは多くの人を押さえつけ、その心も憂鬱にさせた。多くの人が、降り続ける雨に悪態をつく。それが無意味だと気づかせるのに、彼らに多くの時間は必要ない。
大林の家にアリスを送り届けてからもう二日も経っていたが、相変わらず梅雨明け宣言はまだまだ遠いようで、今朝も朝から雨が降っている。
了一の気分も陰鬱なもので、一週間ぐらいは何もしたくないぐらいには疲れていた。それでも、まだ依頼された仕事が残っているので、彼は朝から仕方なく工房にこもっていた。
海外メーカーであるD&F社の最新型、SA‐30500を、依頼人から渡された古い写真に写る男そっくりに作るという依頼で、彼には実際の人物に似せて作るという事に大きな抵抗があったので、依頼を持ち込まれた時はすぐにでも断ろうと考えたが、通常の倍の料金を支払うと言われれば二つ返事で答えるほかなかった。
D&F社は市場に参入したのは主要3メーカーの中で最も遅く、最低クラスでさえ千二百万円を超えるという価格設定にも関わらず、洗練された流線型のデザインと、家庭教師や庭師、さらにはベビーシッターといった、日本メーカーがまだ対応できていない職業をこなす性能の高さが爆発的な普及を促した。
その代りと言っては何だが、D&F社の製品には高度な人工知能が排除されており、主人の言われたことをただこなすという文字通り機械的な性格となっている。その高性能さと聞き分けの良さは、未来の執事とまで言われるほどだ。
了一は作業台で30500の、純白の強化プラスチックの外装を、先端の温度を最大にした半田ごてを器用に使いはがして行く。継ぎ目のないそのボディは、一般人が見ればどこをどうすれば解体できるのかは想像できない物だが、彼の手にかかればいとも単純な作業になってしまっていた。
雨のせいで大がかりな換気ができず、プラスチックの焦げるシンナーに似た独特のにおいが了一の鼻孔を刺激した。下半身のフレームをすべて剥き出しにしたところで、彼は作業を中断し、居間兼応接間に戻って小休止をとることにした。
了一は居間のソファーに深く腰を下ろし、ガラステーブルの上に伸ばした足を置いた。ずっと座って作業をしていたので、ふくらはぎに血が溜まっている感覚があった。テーブルの上に乱雑に置かれていた雑誌に手を伸ばしたが、その本はあらかた読みつくしてしまっていたので、仕方なく見たくもないテレビの電源をつけた。何か興味をそそる番組がないかとリモコンのボタンを適当に押していると、一つのニュース番組でその手が止まった。
先日相次いで発生した脱輪事故のニュースが、特集を組まれて流れていた。特に、二人の死者を出した大林一家のニュースは、他の二つの事故よりも時間を割かれて報道されていた。
大林の妻が運転していた半壊した軽自動車の写真が、事故の悲惨さを物語っていた。ニュースキャスターによると、斜め前を走行していたトラックの車輪が外れ、運転席を直撃し、運転手は即死。後部座席に座っていた少女は頭を強く打ち、通報された段階ではまだ息があったものの、病院に搬送されている途中に息を引き取ったという事らしい。
残された夫、大林誠については特に報道されていなかったが、もしかしたらマスコミも彼の精神状態が非常に不安定であることを知って報道しないのだろうか、と彼は考えた。画面には、メーカー側の代表が、遺族に十分な補償をするコメントした後、深々と大勢の報道陣の前で頭を下げ、その姿に一斉にフラッシュが焚かれた。銀行に振り込まれるだろう大金が、大林の心を癒すとは、彼の痛々しい姿を知る了一には到底思えなかった。
了一は深刻そうな表情でそのニュースを睨みつけていると、ケイがコーヒーがなみなみ注がれたマグカップを持ってきてくれた。
「アリスちゃん、これからどうするんでしょうね」
ケイは了一の横に腰をかけ、一緒になってテレビに目を向けた。彼は大林の事情を彼女に既に話しており、それからケイはアリスの事を心配するようになっていた。
「俺たちが、大林さんの問題を解決することなんてできやしないさ。あの人が事実を受け止めるまで、俺たちはそれを遠くから見てることしかできないんだ」
たった一人の人間に対してさえ、彼は無力だった。彼に大林の心は救えない。それどころか、横にいるアリスを安心させる言葉の一つさえ思い浮かびそうになかった。
了一は半透明の湯気が漂うマグカップを手に取り、少しだけ口をつけた。
「美味しいな、これ」
「なにせ、プロが淹れたコーヒーですから」
「よく言うよ」
湯気とともに漂うコーヒーの香りが、彼の心を少しだけ落ち着かせた。
「なぁケイ、時間がったらでいいんだけど……アリスに、電話の一つでもかけてやってくれないか?誰かと話すだけで、案外気が楽になったりするもんだよ」
「そうですね、そうします」
そう答えた彼女の顔には、久しぶりの頬笑みが浮かんでいた。
それから二人は、たまたま流れていた時代劇の再放送を見た。
時代劇を見終えた了一は、部屋の隅に置かれた固定電話の受話器を取り、知らされていた依頼人の電話番号をダイヤルした。
今回の依頼人は、成金趣味をした厚化粧の中年女で、了一は彼女が持っていた高価そうな葉巻と報酬の金額以外、彼女についていい印象を持ってなかった。
『もしもし、どなた?』
依頼人の妖怪じみた声も、彼は正直気にくわなかった。一秒でも早く電話を切りたかったが、金の為と思いぐっとこらえた。
「あなたのロボットの改造を依頼された木崎工務店です。依頼について少々伺いたいことがありまして」
『あぁ、ガワ屋さん?何よ、今忙しいの』
彼女は些細な電話でさえ優位に立たないと気がすまないのか、高圧的な態度で言葉を返してきた。その態度に彼は苛立ちを募らせたが、電話の受話器に怒鳴るよりも穏便に済ませることを選んだ。
「そう長く時間が掛りませんので、ぜひお願いします」
『仕方ないわね、何?』
「依頼された通り顔までは再現できたのですが、全身が映ってる写真ではなかったので、身長や体型、特に身体的な特徴についてお伺いしたいんです」
渡された写真は、クラスの集合写真を無理やり拡大したものと、一枚のスナップ写真で、どちらも坊ちゃん刈りの高校生の上半身が写されているだけだった。
『そうねぇ……身長は170ぐらいはあったかしら……体格は筋肉質でもなかったし……中肉中背、っていばわかるかしら?』
「わかりました、ありがとうございました」
必要なことをメモした彼は、ようやく電話を切れることに安堵した。
『あぁ、あと』
だから、依頼主から追加の注文が来たときは、眉間に深いしわを寄せていた。
「あと?」
『右の手首に、線で引かれたような傷があったわ』
メモ帳の余白に、右手首にリストカット、と書き込むと一言挨拶をいれ受話器を勢いよく電話に戻した。そうすると肩の重荷が下りたように体が軽くなった。
嫌な仕事を一つこなした了一は、居間のソファーに再び腰を下ろし気分よく煙草に火をつけた。
「そんなに嫌いなんですか?あの人」
台所で洗い物をしていたケイが、振り返って了一に尋ねた。
「あれを好きになれる男がこの世にいるなんて到底思えないな。言い寄る男がいるとしたら、間違いなく財布目当てだ」
彼女の容姿そのものを了一は良く言えば美人の部類に入るとは思っていたが、中身の方は十分すぎるほど醜悪だと考えていた。
「有名人ですからね、彼女。化粧品やらサプリメントの通信販売の会社の社長で、自社のテレビCMには間違いなく出てきますよ。最近営業不振らしいですけど」
彼はそんな有名人が自分の所を訪ねてきたとは到底思えなかったが、テレビが大好きなケイが言うのだから有名人には違いはないのだろう。
「どっかで見たことあったかと思ったが、そうだったか……道理で香水臭いわけだよ」
彼女が依頼に来たとき、彼女は虫も寄り付かないほど香水の匂いを周囲にまき散らしていた。そのことを了一は、虫除けのためではなく虚勢を張るためだと一人で納得していた。
虚勢を張っているのは、ピンクのスーツと、これでもかと嵌められた色とりどり宝石がちりばめられた高価そうな指輪を見ればわかることではあったが。
「嫌いなんですか?香水の匂い。リョーイチさんの手に持ってるものよりはいいにおいがすると思いますが」
「あんないい葉巻の香りを、香水の匂いが邪魔をするのは許せないな」
それを聞いたケイは、呆れたように溜息を一つついた。
了一は灰皿に煙草を押し付け、まだシンナー臭い工房に戻ると中断していた外装の取り外しを再び始めた。
電話を終えた彼女、一代で大手化粧品チェーンを築き上げた山田美智代は、陰鬱な気分で近くにあったキューバ産の葉巻に火をつけた。
忙しい、と電話で答えたものの実際はかなりの暇を持て余していた。
全盛期よりはめっきりテレビの仕事も落ち込んでおり、会社の経営や新商品の開発も副社長に任せていた彼女は、多くの時間をロボットと過ごしていた。
ロボットに用がある度に、彼の名前を呼ばなければならない。その度に、思い出の人の名前を遊び半分でつけてしまったことに、彼女は激しい後悔を覚えていた。
何度も彼を売ってしまおうと思ったが、彼に付けられた名前がそれを躊躇させた。それができないならと、彼女は姿も彼に似せてしまおうと考えたのだ。
初恋の彼の名前は瀬川拓人といい、高校一年生の頃に学級が同じだったことをきっかけにして知り合った。彼女は高校に入学してすぐ、実家が貧乏だった事にその地味な容姿が加わって、クラス全体のいじめの標的にされた。
拓人はそんな美智代と距離を置かずに、放課後のお喋りにも付き合ってくれた。一学期が終わり、告白しようと決心した美智代だったが、彼は二学期のはじめに両親の仕事の都合で福岡に転校してしまった。
美智代は彼に思いを打ち明けることができなかったが、彼の存在は彼女を前向きに変えるには十分だった。それから彼女は二年生に進級するとすぐにクラスの人気者になり、大学時代の友人の勧めで興味を持つようになった化粧品の会社を作り、今では白金台に豪邸を建てるほどの億万長者になった。
放課後、夕焼けの光が差し込む教室で交わした他愛のない世間話。
帰り際、並んで座った公園のベンチ。そんなありふれた遠い日の思い出と、色あせた二枚の写真だけが、彼女の心に残った彼の姿だった。
テレビの企画や探偵に頼み彼を探してもらおうと何度も考えたが、そんなことは金儲けによって肥大化した彼女のプライドが許しはしなかった。
今頃は容姿を変えられているだろうロボットの代わりに雇われた家政婦が、最高級の紅茶を彼女のデスクに置いた。
「不味いわね、これ」
誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。