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6.1 七原桜

 空が、暗い。


 沈んでしまった太陽と街灯のせいで、見上げる空が余計に暗く見える。光を放つ無数の星は、蛍光灯に奪われた。


 空が、落ちてくる。


 黒のスプレーを吹き付けられた夜空が、天井のように視界を遮る。町がなければ、もっと遠いものなのに。




 月明かりが差し込む自宅の居間で、彼は電気もつけずに鳩時計を眺めていた。もうすぐ日付が変わり、新しい一日が始まる。

 十分後に訪れる十一月五日という日は、彼にとって大きな意味を持っていた。ポケットから煙草を一本取り出し、いつものように火をつける。

 煙を深く吸い込んでも、いつものように落ち着きを取り戻しはしない。真っ暗な部屋を月明かりと煙草の火だけが光を放っていた。


 テーブルの上には昨日のうちに購入した二本の桜の造花が置かれている。彼は毎年この日になると誰よりも早くこの花と同じ名前を持った友人が眠る墓に供えていた。

 本物の桜ならどれほど良かっただろうと彼は思ったが、冬に桜は咲きはしない。

 他の花とでも考えた事はあるが、信仰心など欠片も持ち合わせていない桜に仏花を供えたところで喜びはしないだろし、彼は何より桜の花が好きだった。


 七年前のこの日、桜は了一の目の前で自ら命を絶った。その光景が、今も彼の脳裏に焼き付いて離れない。


 何度も夢を見た。桜を救えた、あり得ない今日を。


 夢の中の桜は、いつも笑っていた。その笑顔を見ると、彼を救えなかった現実を突きつけられた。その度に彼は今いるここから逃げ出したくなった。

 自分の命も捨ててしまおうと考えた事は一度や二度ではない。自責の念に駆られた時、若葉が兄の名前を口にした時、ケイが笑った時、そして今。何事のない毎日を暮らしていくにつれ、彼の心は少しづつ軋んでいった。


 責められる方が良かった。

 お前のせいで桜が死んだのだと、お前は生きてる価値はないと誰かに保障して欲しかった。


 だけど、人々は優しかった。


 抜け殻のようになった了一に、誰もが優しい言葉を掛けた。

 君は、何も悪くないと。空になった了一に、惜しみない愛情を注いでくれた。そのおかげで、彼は今日まで生きていられた。


 だけど、それももう限界だ。


 彼は仕事を通して多くの人に出会い、皆それぞれの問題を抱えていた。だけど彼が彼らの心を救えたことは一度もない。七年間も生きながらえて誰一人救えない。あの日から、一歩も前に進んでいない。


 進みたかった。

 前へ、前へ。救いたかった。人を、自分を。


 進めなかった。ここから、あの日から。救えなかった。誰も、自分さえも。


 だからもう、終わりにしよう。


 七年間も生きてきたのに、自分は何一つ変わっていない。

 手にしたものは、何もない。

 彼は自室の引き出しの中に一枚の紙切れを残していた。それは自分の稼いできた金とケイを全て若葉に引き渡すと書かれた遺書だ。


 自分に生きてる価値はない。だからもう、終わりにするんだ。


 彼は親友が命を絶った今日が、自分の命日になることも悪くはないと考えた。人が死んだらどこへ行くかはわからないが、同じ日に死ねば少なくとも彼には近づけるだろう。

 彼に会えたら、また笑い合おう。下らない話をしよう。ふざけ過ぎる俺を、昨日みたいに叱ってもらおう。


 桜は死ぬ時、どんな気持ちだったのだろうか。どうして俺に、笑ってさよならと言えたのだろか。


 顔の筋肉を動かし、桜のように笑おうとする。ただ、涙が流れそうになるだけだった。


 心を落ち着かせようと煙草を吸っていると、鳩時計が喧しく鳴き始めた。

 彼はソファーから立ち上がり手に持った煙草を灰皿に押し付けた。車のキーを胸ポケットにしまい、包装紙にくるまれた桜の枝を手に持つと、玄関に向かって歩き始めた。


 靴を履こうと玄関マットの上に腰を掛けたところで、了一はケイに呼び止められた。


「今年も一人で行くんですね」


 ケイの言葉を聞きながらも、了一は黙ってスニーカーのひもを結んだ。


「私も連れて行って下さい」

「駄目だ」


 彼女の毎年変わらない一途な願いを、了一は冷たく断った。


「どうしてですか?」

「お前は、人間じゃない」


 普段は人と変わらない態度でロボットたちに接する了一だったが、今日は違った。彼と彼女の決定的な違いを冷静な口調で言った。

 これでいい、と了一は自分に言い聞かせた。

 人の死を背負うのは、同じ人間だけでいい。

 こう言えば、去年みたいに黙って部屋に戻るはずだ。

 

 優しい機械達にこんな重荷を背負って欲しくはなかった。了一はもう片方の靴ひもをしっかりと結び、立ち上った。その背中を、ケイが強く抱きしめた。


「行かないでください」

「離してくれ」


 ケイの腕を振り解こうと、彼は彼女の指先をつかんだ。

 白く、綺麗で、冷たいその手が了一には彼女の本質を表しているように思えた。

 了一は思わず自分の手を見た。汚れて、無骨で、生温い。


「だって、だって……」


 彼女が彼を抱きしめる力は弱まりはしない。


「今のリョーイチさん、最期に見たマスターみたいだから」


 不意に振り返った了一の顔を、ケイは見上げた。目は光を失い、何も捉えてはいない。無表情で、死ぬ直前の桜によく似ていた。


「お前……」


 了一は今日まで、桜が死ぬ前に誰かと会っていた事など知らなかった。桜の死の真相を誰一人知らないままだと、ずっと思っていた。


「私も連れて行って下さい……そうしてくれたら」


 ケイは言葉を途切らせ、了一の目をしっかりと見つめた。その瞳には、しっかりと彼女の顔が写っていた。


「全部、お話します」




 了一はケイを車の助手席に乗せ、桜の墓がある栃木県まで車を走らせていた。深夜の高速道路に他の車は見当たらず、ついアクセルペダルを踏み込み足に力が入ってしまう。

 折角のスポーツカーだというのに、時速百キロ以上出すのは久しぶりだった。もっとも、今の彼には楽しいドライブなど無縁ではあったが。


 三十分ほど車を走らせていたが、車内の二人は黙ったままだった。

 了一はただ真っ直ぐに車を走らせ、ケイは助手席の窓に流れていく景色を目で追った。いつものように他愛の無い会話をするような気分にはお互いなれはしない。特に了一は七年間も桜の死の真相を隠していたケイに対して怒りさえ覚えていた。

 ただ、七年間過ごして知った彼女の性格を考えると、それには理由がある様に思えてならなかった。

 怒りと信頼の葛藤は彼の中で苛立ちに変わり、彼は左手で器用に上着のポケットから煙草を一本取り出し、それを口にくわえた。

 車に置きっぱなしにされていたライターに手を伸ばし、煙草の先端に火をつける。車内には灰色の煙が充満した。

 エアコンの操作で煙を車外に出そうとしたが、その前にケイが助手席側の窓を半分ほど開けた。


「リョーイチさん、私の服が臭くなるので外で吸ってください」


 煙草の煙を嫌がるケイが、了一に無理なお願いをする。季節はもう冬になりかけていたので、彼は運転席側の窓を意地でも開けたくなかった。


「嫌だね、よく考えたらこれは俺の車だ。俺が煙草を吸って何が悪い」


 だから彼女の願いを頑として拒否したが、小さなことがきっかけでケイとまた会話できるようになった事が彼には少し嬉しかった。

 彼は左手に持つ煙草を勢い良く吸い込み、盛大に吐き出した。


「全く、子供ですねリョーイチさんは」


 ケイは了一のその横暴な態度を見て小さなため息をついた。


「お前ほどじゃないよ」


 そう言うと、了一は自然と笑いが込み上げてきた。ケイも同じようで、助手席の窓に映るケイの顔が笑い始めた。笑いを堪え切れなくなり、了一はとうとう声を上げて笑い始めた。

 いつもの口喧嘩が、ただ楽しかった。

 ケイもつられて笑い始める。黙っているよりも、笑っている方がいい。そんな当たり前の事に、了一はやっと気づいた。

 確かに彼女は了一に隠し事をしていたが、ただ黙っていたという訳ではないのだろう。だからその答えを聞くのは、もう少し後回しにすることにしよう。

 そう考えると彼の心は鉛のおもりが取れたように軽くなり、時速百キロを超える深夜のドライブを楽しめるようになっていた。

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