5.3
了一と七年ぶりに再会した藍は、彼を自分の研究室に案内した。
研究室は了一の予想通り資料が散乱していたが、学生の時に見た彼女の部屋ほど散らかっていなかった。
彼女はポットに淹れられたコーヒーを紙コップに注ぎ了一に手渡し、自分のコーヒーを用意してデスクに腰を掛けた。了一は壁際に置かれた三人掛けのソファーに仰向けになって寝っ転がった。
「ところでお前、仕事はしてるのか?それとも社会の底辺か?」
ようやく落ち着きを取り戻した藍は、コーヒーを飲みながら了一の近況を尋ねた。
「失礼だなでか尻。ガワ屋だよガワ屋」
彼女の言い草が相変わらずの物だったので彼は懐かしい気分になったが、彼はそれを隠して軽口を叩いた。
「学生の時、あれだけなりたくないって言ってたのにな」
藍は無邪気に笑いながら了一の顔を覗き込んできた。
「うるさいなぁ……そういうお前はどうなんだよ。助教授ってどういうことだよ」
目を合わせていると恥ずかしくなってきたので、了一はわざとらしくソファーで寝がえりを打った。
「そのまんまさ。桜が死んで、お前もいなくなって……勉強に集中するぐらいしかやることなかったんだ。研究室の教授から院の推薦を貰って、そのままここに就職さ」
「年の割には随分立派な肩書だな」
彼女は了一と同い年だったが、それほど若い助教授がいたとは学生時代の記憶をいくら探っても出なかった。
それだけ彼女が優秀だということなのだろうと了一は一人で納得した。
「いいだろ?論文書いたらあっさり手に入ったぞ」
「そりゃまぁ、おめでたいことで」
「ところで、お前はどうしてこんなところにいるんだ?」
藍はようやく一番気になっていた事を了一に率直に尋ねた。
「どうしてって仕事だよ。宝くじが当たったラッキーな奴のお守りさ」
「そんな学生がいるのか……それなのにこんなところにいていいのか?」
「四時までって言ってたからな。それまでは相当暇だ」
「そうか。折角だからゆっくりしていけ」
藍は了一と時間を過ごせることをうれしく思い満面の笑みを浮かべたが、背中を向けている了一にはその顔は見えなかった。
「そうさせてもらうよ。あ、暇だから何か漫画ない?」
彼も暇をつぶすには部室よりこの部屋の方が居心地が良さそうだと思い、ここにしばらく居座ることにした。
ついでに、暇つぶしの道具を部屋の主に求めた。
「漫画はないが……そうだな、これでも読んでろ」
藍はデスクの上に置かれた一枚のプリントを了一に手渡した。授業用のプリントで、かつて了一が単位を取るのに苦戦していた科目だった。
「なになに、量子力学序説……うわ、俺が二番目に嫌いだった教科じゃないか。お前これ教えてるのか?」
「どうだ、懐かしいだろ」
「懐かしすぎて泣けてくるよ……さっきのお前みたいに」
了一はにやにやしながら屋上での藍を茶化し、とっさに頭を両手で防御した。経験上こういうことを言えば何かしら暴力を振るわれることを彼は理解していた。藍もデスクから立ち上がり、ソファーであおむけになって寝ている了一に馬乗りになり、彼の髪を強く引っ張った。
「痛い!髪は引っ張るなって!」
まさかここまで怒られるとは思わなかった了一は必死になって抵抗したが、その分強く頭皮に刺激が与えられるだけだった。
「さっきの事は、忘れろ」
藍が真剣な目で了一に命令した。
「忘れるから!だから引っ張らないでくださいハゲるのは嫌なんです!」
「よし、素直でよろしい」
了一の降参の言葉を聞いてようやく藍は彼の髪の毛から手を離した。
「相変わらず凶暴だなお前は……ほら、そのでかい尻をさっさとどかせ」
自分の腰のあたりに座る藍の尻を了一は軽く叩き、ここから退くよう促した。重いとか邪魔だとかそれ以前に、女性に馬乗りにされているという格好がなんとも恥ずかしかった。
「案外座り心地がいいな、この椅子は。もう少し堪能しておこう」
しかしそんな事では彼女は退きそうにない。実力行使でどかす元気も無くなっていた了一は、大きな溜め息を一つついた。
「俺の周りの女性でまともなのは若葉ちゃんだけか……」
「なんだ、女に恵まれてるのか」
「そうだな、ケイと若葉ちゃんと、あとお前」
この三人のうち、まともに彼の言う事を聞いてくれるのは若葉だけであった。残り二人からはもはや見下されているといっても過言ではない。
「三人か……相変わらず女っ気がないんだな」
「うるさいな、そういうお前はどうなんだよ。彼氏でもいるのか?」
「生憎忙しい仕事でね。彼氏はおろか友達だってできそうにない」
「それは良かった。お前が俺より早く結婚してたら笑っちまうからな」
「どういう意味だ、それは」
「そのまんまだぞ」
また攻撃されると思い彼はとっさに頭を防御したが、藍は攻撃するどころか恥ずかしそうに頬を掻き始めた。
「……なぁ、木崎」
「どうした?変な顔して」
了一は藍の顔を覗き込むと、悩んでいるような恥ずかしがっているような表情を浮かべていた。
「へ、変なとか言うなよ。その、ちょっと聞きたいんだが……」
藍は消え入りそうな小さな声で了一に尋ねた。
「熱でもあるのか?顔赤いぞ」
「う、うるさい!真面目に聞け!」
耳まで赤く染まった顔を指摘すると、すごい剣幕で怒られてしまった。
「わかったわかった。それで助教授様がこの俺に何を教えてくれるんだ?」
ここで抵抗しても無駄だと考えた了一は、諦めて彼女の話に耳を傾けることにした。
「その……お互いさ、もう恋愛に夢を見るような年じゃないだろ?
「そうだな」
「だから、さ」
「だから?」
ガワ屋という特殊な職業のせいもあるだろう、確かに彼は恋愛には夢を見なくなっていたが、それがこれからの会話にどう繋がるかはよくわからなかった。
「結婚、しよう」
藍が了一の目をしっかりと見据え、真っ赤な顔ではっきりとそう言った。彼女はやっと、七年越しの思いを包み隠さず彼に告げられた。
「……はい?」
彼女が口にした言葉の意味を、彼は聞き取れはしたが理解できなかった。久しぶりに再会したことで十分驚いていたのに求婚されるとは何事だろうか、それとも自分をからかう為の冗談じゃないのかと彼は考え始めた。
「真剣だぞ、私は」
そんな了一の戸惑いを察したのか、藍が了一に念を押す。
「あ、いや、その」
そんな彼女とは対照的に、了一は激しく動揺した。
何を喋っていいのかわからず、場繋ぎの言葉が口をつくだけだった。
「うるさい、問答無用だ」
藍は了一の顔を二つの手のひらで優しく包むと、自分の唇を彼の唇に近づけた。堰を切って溢れ始めた七年分の想いは、そんな事を容易にさせた。
「藤川せんせーっ、前回の課題ででちょっとわからない所があるんですが!」
二人の唇が触れそうになる直前、研究室の扉が威勢のいい女子生徒によって開けられた。
「……失礼しました」
尊敬する先生と謎の男の情事らしきものを目撃した彼女は、先生の恋路の為に何も見なかった事にして扉を閉めることにした。
「待て、待ってくれ!これは誤解だ!」
藍が帰ろうとする女子生徒に必死に呼びかける。先ほどまでの落ち着きはどこに行ったのか、完全に取り乱していた。
了一は少し残念だなと思ったが、それ以上に安心感でいっぱいになった。彼は女子生徒の誤解を解くためにはまずこの体勢をどうにかすることが先決だと考えた。
「落ち着け藤川、あとそのでかい尻をどけろ」
先ほどと同じように藍の尻を軽く叩いたが、取り乱した彼女に効果はなかった。
「元はといえば、お前がこんなところにいるから悪いんじゃないか!」
それどころか藍は逆上して了一の首を締め始めた。先ほどまでの雰囲気は跡形もなく消え去り、ただ修羅場があるだけだった。
「せ、せんせーっ!何してるんですか!」
引き返してきた女子生徒が扉を開けると、今度こそ藍の暴走を止めに入った。
「た……たすけてくれ」
声にならない声で、了一は名前の知らない女子生徒に助けを求めた。
乱入してきた女子生徒の名前は岬佳奈子といい、藤川の研究室に入っている大学三年生だった。
肩までかかる長い黒髪の彼女は、了一にとっては命の恩人といえなくもない。
「結局、こちらの方はどちら様なんですか?」
岬は藍の研究室のソファーで寝転んでいる男性が気になって仕方なかった。そもそも研究に関係ない人が研究室でくつろいでいるというのが理解できなかった。
「私の大学時代の友人だ。部外者のくせに屋上で煙草を吸っていたからひっとらえたんだ」
「だいぶ語弊がある気がするが……大体合ってる」
藍は了一について簡単に説明し、了一もその説明におおむね同意した。
「それで部外者さんは何しに来たんですか?」
「仕事だよ、仕事。ロボットを届けに来たんだよ。ガワ屋って言って改造が仕事なんだ」
「あ、それ知ってますよ」
了一のいい加減な説明で岬は簡単に彼の職業を理解した。
「なんで知ってるの?」
最近自分の職業を冗談半分に言ってもすんなり受け入れられる度に了一は驚きと多少の誇らしさを感じていた。
「友達が言ってましたよ。俺は遂に理想の彼女ができたーっ、て」
「もしかして橋元って人?」
「あー、そうだったと思います……」
岬は橋元の嬉しそうな顔を思い出して苦笑した。彼は頭のいい聞き上手として評判だったが、学内きっての変人という噂の方が優勢だった。
「いつの時代も彼女がいない学生というのは虚しいものだ。な、木崎」
黙って話を聞くとに飽きた藍が、女性となかなか縁がない了一を茶化した。
「なんで俺に振るんだよ」
「彼女がいないからだ」
「うるさいなぁ……俺はもう時間だから行ってくるよ」
了一は不機嫌そうに部屋の時計を見ると、約束の時間を五分過ぎていたので元第二コンピュータ部の部室に戻ることにした。
「ちょっと待て」
部屋を出ようとした了一を、藍が呼びとめる。
「まだ嫌味を言い足りないのか?」
「違う、これ持って行け」
藍は了一に先ほど渡した授業用のプリントを一枚手渡した。
「おいおい、量子力学なんて二度とやりたくないぞ」
「そうじゃない裏だ裏」
「裏?」
言われた通りプリントの裏を確認すると、どこかの住所と電話番号が書かれていた。
「私の今の住所と電話番号だ。暇な時は遊びに来い」
顔を少しだけ赤くしながら、藍は毅然とした態度で了一に告げた。
「お、せんせー積極的ですねーっ」
藍の表情の変化を見逃さなかった岬が、すかさず彼女に茶々を入れた。
「ですねーっ」
了一も岬の口調を真似て藍をからかった。
「ホラ、仕事があるならさっさと行け。私だって忙しんだ」
藍はさらに顔を赤くしながら、了一を研究室から追い払った。
部室の前まで戻ると、橋元が時計を見ながらそわそわしていた。
「木崎さん、どこ行ってたんですか?」
あくびをしながら歩いてくる了一の姿を見て、彼が帰ってしまったのではないかという橋元の不安はようやく解消された。
「散歩だよ、散歩」
そんな橋元を尻目に、了一はあっけらかんと答えた。
「それより来て下さい!みんな待ってますよ!」
「みんなって?」
「サークルのみんなです。さあ早く」
急かす橋元をなだめて、了一は部室から大きなスーツケースを取り出した。彼は鍵を閉めた時元の場所に戻そうかとも思ったが、結局は自分のポケットに入れておくことにした。それから早歩きでどこかへと向かう橋元の後を追った。
橋元について行った先は小規模な講義がごくたまに開かれる二階の隅の教室で、中には橋元によく似た風貌の男子生徒が四、五人待ち構えていた。
「つ、ついに来たか……」
そのうちの一人が了一が引きずるスーツケースを凝視した。
「それよりここ、使っていいの?」
謎の集団も確かに気になったが、それよりも部屋の許可が貰えてるかどうかの方が彼には気になった。
「この時間からだと多分ばれません」
了一の疑問に、橋元が自信たっぷりに答えてくれた。
「お前らちゃんと部室使えよ」
「でも、空き部屋がなくて」
部員たちにとっても部室の確保は悩みの種らしく、皆口々に意見を出し合い始めた。
「あるだろ、あそこ」
了一は橋元に先ほどまで荷物置き場代わりに使っていた部室の存在を暗に指摘した。
「でも幽霊が出るって……」
部員たちもどこの事だか直ぐに理解したらしく、その中の一人が学校の七不思議のような冗談とも本気ともとれる事を口にした。
「それはないな。出るとしたら屋上だ」
桜が楽しく遊んでいる学生を脅かすとは思えなかったが、何よりも屋上に幽霊が出ることは彼が身をもって体験していた。
彼のまるで全てを知っているかのような言葉に、部員たちは苦笑した。
「で、でも申請貰うのって大変なんですよ!何回も失敗して」
空いている部室以前に、申請の問題が残っていた。
桜も部室を確保するために奔走していた事を彼は思い出した。彼もしばらく案がないかと考えると、一つの案が浮かんだ。
「同じ名前使えばいいんじゃない?」
「同じっていうのは?」
了一の突然の思いつきに橋元は質問した。
「だから、申請するときにあそこが前使っていた名前を使えばいいんだよ。それなら事務の人も文句は言わないだろ」
以前部室を獲得していた部活なら、部室の使用許可も簡単に降りるだろうと了一は考えた。
「誰も前の部活の名前知らないですよ」
天然パーマの部員が了一の思いつきを批判した。
「第二コンピュータ部だ。顧問も藤川助教授に頼めばなんとかなるだろ」
そんな批判を彼はあっさり跳ね退けた。顧問になりそうな人物のおまけつきで。
「あいつの説得に困ったら木崎って人に脅されたって言っとけ。じゃあ俺は帰るぞ」
了一は大きなスーツケースを丸ごと橋元に渡し、教室を後にしようとした。
「色々ありがとうございました」
橋元はロボットと部室の二つの事に対して了一に感謝の言葉を述べた。
「残りの金はちゃんと振り込んでおけよ?あ、忘れるところだった」
ポケットから部室の鍵を取り出し、了一は橋元に向かって軽く投げた。とっさに投げつけらたそれに一瞬驚いたが、古びた鍵をなんとかキャッチした。
「大事に使えよ」
一言だけ言い残して、彼はようやく教室を後にした。
手ぶらになった了一は真っすぐ家に帰ろうと思ったが、折角旧友と再会できたのでもう少しだけその仲を温めることにした。彼は藍の研究室をノックなしで開け、堂々と中に入って行った。
「よう藤川」
「なんだ木崎、まだ帰ってなかったのか」
いきなり扉を開けられたことに藍は驚いたが、来訪者が了一だったので彼に向って柔らかい微笑みを浮かべた。
「腹減ったから飯食いにいこうぜ。奢ってやるよ」
「お前が奢るなんて……明日は富士山が噴火するな」
了一の予想外の言葉に、藍は七年前と同じような軽口で返した。
「俺だってたまにはそんな気分になるんだよ。ほら行くぞ」
色々文句を言われると奢る気が失せそうだったので、そうならないよう彼は資料とにらめっこをしている彼女を急かした。
「ちょっと待てろ」
女性のちょっとという時間が男性のそれと大きく異なることを理解していた了一は、気長に準備を始める藍の姿を眺めていた。相変わらず手際の悪い物だったが、それがどこか懐かしく思えた。彼女が机の上に散乱した資料をまとめて、適当な引き出しに無理やり詰め込んだどころで作業を手を止め、重々しく口を開いた。
「屋上にいたのは、あいつの事を思い出したからなのか?」
「俺にだって、感傷に浸ると気があるさ」
藍の唐突な質問に、彼はわざとらしく肩をすくめた。
「あまり浸りすぎるなよ。お前にまで死なれたら寝覚めが悪い」
彼女は努めて冷静な口調でそう言ったが、その声には不安と寂しさが隠れていた。
「俺が死ぬのは、美人の膝枕の上でって決めてるんだよ」
だから了一は、何時もみたいに冗談を言う。軽薄な態度の裏に何があるのかまでは藍には分らなかったが、そう答えてくれた彼の気持ちをうれしく思った。
「悪かったな、変な事を聞いたよ」
中断させていた作業を再開させ、藍は今日使った資料や本を部屋の隅に除けていった。一昨日の資料の場所は彼女にはもうわからなくなっていたが。
「よし準備ができた」
片づけを終えた藍はコート掛けに掛けられたダークグレーの上着を脇に持ち、藍は了一と一緒に研究室を後にした。
「どこ行く?あんまり高いところは駄目だからな」
二人で玄関に向かって歩きながら、了一は財布に見合う飲食店を頭の中で探し始めた。
「それも大事だが……忘れるなよ?」
眉間に皺を寄せ必死に飲食店について考える了一に、藍は呆れた顔で彼に考えておいて欲しいもう一つのことを思い出させようとした。
「何をだよ」
ただ彼にはそんな事はすっかり忘れていたらしく、真顔で藍に聞き返した。
「結婚のこと」
藍は頬を少し赤く染め、小さく呟いた。
「やっぱり一人で飯食いに行くかな」
了一は自分が忘れていたことの重要性を思い出し、今すぐ彼女の横から逃げ出したくなった。
「おいおい食事はちゃんと奢れよ……って逃げるな!」
藍の言葉を全部聞き終わる前に、了一は出口に向かって一目散に走り出した。