5.2
どれほど眠っていたのだろうか。
了一は腕時計で時間を確認したが、たった十分しか経っていなかった。こんなところで眠っていたせいで、夢の中身ははっきりと覚えていた。
忘れたい昔の話だと笑い飛ばそうと彼は思ったが、部室にこびり付いた思い出がそれを許しはしなかった。
彼の足が、あの場所に行けと指図する。
そんなのは質の悪い妄想だと振り切ろうと目を閉じたが、この部屋が、彼自身が、それを求めていなかった。
彼は陰鬱な気分で立ち上がると、七年ぶりの部室を後にした。彼の行先は、もう決められていた。
物が溢れていた部室とは違い、ここは七年前と何一つ変わっていなかった。
床も、空も、ビルも。
目の前に広がる景色は、全てあの日のままだった。
校舎の屋上に登ったのは学生時代にたった一度しかなかったはずなのに、ここは彼にとって、そして桜にとって、何処よりも思い出深い場所だった。
飛び降り防止の三メートルもある金網に手をかける。
こんなものが、人の命を救いはしない。
彼は怒りを込めて金網を叩いた。大きく振動した金網は、無慈悲な金属音を立てるだけだった。
ここから見下ろす街は、随分と小さな物だった。街行く人も、どこかへ急ぐ車の群れも、目の前に広がるビルも、ここからは全てミニチュアの模型だった。
ふと横を見ると、金網越しに桜が立っていた。顔も服装も、七年前と同じままで。
「……さく、ら」
了一がそう呟くと、桜は彼に背を向けた。今、桜の眼下にはミニチュアの町が広がっていた。
「桜!」
桜を呼びとめようと名前を叫んでも、彼は振り返らない。
了一は金網に手をかけ力一杯登り始めた。
今度こそ、今度こそ止めるんだ。桜の死は、もう繰り返したくない。
彼は血が滲んできた指先に力を込め、金網の頂上まで登りつめた。背を向ける桜に、了一は精一杯手を伸ばした。あと少し、あと少しで桜に届く。指先が、桜の頭に触れそうになる。
「ふざけるなよ!お前一人が勝手に死んで、何か解決するのかよ!生きてくれ、生きてくれよ……」
涙をこらえて、了一は必死に桜に呼びかけた。ようやく了一に気がついた桜は、振り返り了一の顔を見た。
「なぁ桜、相変わらずお前は、笑っているんだな」
桜は、自身の死を決意してなお、変わらない微笑みを浮かべていた。
了一は桜に必死に手を伸ばす。
折れたって良い。千切れたって構わない。
あと少し、あと少しで届くのだから。
了一は桜に手を伸ばし続ける。自分が落ちるかもしれないが、そんな事はどうでもいい。人一人救えない男に、価値なんてない。
「さよなら、了一」
やめてくれ、そんな言葉は聞きたくない。
話がしたいんだ。もっと、もっと。
笑い合っていたいんだ。ふざけ合って、じゃれ合って。
生きていきたいんだ。
昨日も、今日も、これからも。
別れの言葉を口にした桜は、そのままミニチュアの街に落ちていった。桜が立っていた場所には、もう何もない。
また俺は、救えなかった。
そう考えた了一を体中から力が抜けていく感覚が襲った。このまま地面に落ちても、彼に悔いは無かった。
心を亡くした了一は、もう後悔も悲しみも感じなくなっていた。
ビル風に煽られ、了一の体が宙に舞った。風向きによってはこのまま地面に激突しまうが、彼にとってそんなことはどうでもいい事だった。
屋上に吹き込む突風が、了一の体を校舎に運んだ。
勢いよく床に叩きつけられた彼の背中に激痛が走る。痛みの余り、声にならない声が了一の口から洩れる。
彼はまだ、生きていた。
屋上で大の字になりながら、了一は煙草を取り出し火をつけた。吸いこむ煙は、後悔と無力感の味がした。
見上げる空は、相変わらず青い。
桜は死んだが、了一は生きていた。
それだけが今、彼にわかる唯一のことだった。
三本目の煙草に火を着けたころ、屋上の扉が開かれたが了一には気が付かなかった。ハイヒールの立てる気味の良い足音が彼に近づいて行く。
「おい君、ここは立ち入り禁止の上に喫煙禁止場所だぞ」
彼に差し込む太陽を、白衣を着た女性の影が遮った。
彼は逆光のせいで顔はよくわからなかったが、その声にはどこか聞き覚えがあっり、懐かしささえ感じていた。
「あぁ、すいませんね」
大儀そうに立ち上がった了一は煙草を床に押し付け、三本目の煙草を火をもみ消した。
「木崎?」
了一は自分の名前を呼ばれたことに驚き、傍に立つ女性の顔を覗き込んだ。眼鏡をかけ、髪も伸びて後ろで縛っていたが、その顔は同窓生の藤川藍に変わりがなかった。
「……藤川か?髪、伸びたな」
彼は彼女の印象の変化に驚いたが、落ち着き払った態度で彼女に挨拶をした。
「幽霊とかじゃないよ?幻覚でもないよな?」
そんな了一とは対照的に、藍は激しく動揺していた。
「おい、勝手に人を殺すな」
実際死にかけたけど、と言おうとしたが、久々の再開に水を差すような気がしたので彼はその台詞を胸の奥にしまった。
「いやだって、こんな場所にいるから」
藍は心臓を高鳴らせながら、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「俺だって、藤川にこんなところで再会するとは思わなかったよ」
恰好から察するに研究者にでもなったのだろう、もともと成績が良かった彼女にはなかなお似合いの職業かもしれないと彼は考えた。
何気なく頬を指で掻く了一の胸に、藤川がいきなり抱きついてきた。
「うわ、何するんだよ」
彼女が予想外の行動に出たので、了一も今度こそ動揺した。
「木崎……木崎……」
了一の胸に顔をうずめる藍が、泣きながら彼の名前を呼んだ。了一は軽く呼吸を整えてから、藍の髪を優しく撫でた。
「ただいま、藤川」
彼は涙を流す藍に優しく微笑んだ。
「おかえり」
彼女も、目を真っ赤にして彼に答えた。