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無色の緑の考えが猛烈に眠る。そんな夕方。

作者: えりんだむ

 こんな経験はないだろうか。

 ふと目覚めれば早朝五時である。しかし自分は目覚まし時計のアラームを七時にセットしたはずではないか。なぜ今日に限ってこんなに早く起きれたのか、昨日特別早くに寝たわけではない。自分という人間は、いつもより遅く行動する様なことはあっても早く行動するようなことは絶対にない。なのになぜ、今日に限って日の出を拝めるような幸運に恵まれたのか。ふとカーテンの隙間から覗く太陽の赤い光に気付き、ああこれは朝日だと思っていたが、なるほど夕日だったのか。自分は早起きしたのではなくて極めて寝過ごしたのだ。うっかり八兵衛的失敗をやらかしたおちゃめな自分に苦笑しつつカーテンを開くと、そこには巨大な、真っ赤に燃え盛る隕石が……

 まああるわけがないだろう。それはナンセンスギャグの世界だ。そんな経験をしている人がもしいるならば、恐らくそれは恐竜時代の記憶が継承されている奇人である。是非考古学者や心理学者を訪ねるがいい、そして最終的には病院へ行きたまえ。

 問題はこの世界が現状ナンセンスギャグで構築されているわけではないことである。そもそもナンセンスギャグが横行するような世界だと、ナンセンスギャグはナンセンスギャグではなくなる。常識的な世界、普遍的な認識に満たされた世の中こそが、ナンセンスギャグをナンセンスギャグたらしめているのである。では我々が存在するこの世界がもしナンセンスギャグに満たされたものであったら、今の常識的な世界がナンセンスギャグなものとなるのだろうか、それともさらに上の次元を行くナンセンスな世界が、三次元ナンセンス世界において展開されるのだろうか。そこは未だ我々三次元常識世界の人間のあずかり知らぬところであり、その手のナンセンスプロフェッショナルが喧喧囂囂侃侃諤諤、さらには喧喧諤諤となって百家争鳴の様相を呈しているのであった。

 ここまで来ても恐らく八割の人間が一体『ナンセンスギャグ』となんだかハッキリわかっていないだろう。もっとも手っ取り早い例を挙げるなら、イギリスの数学者であり論理学者であり写真家であり詩人であり作家である、ルイス・キャロル氏の著作、『不思議の国のアリス』が著名である。この作品はその隅々までナンセンスギャグにあふれている。何より作者が論理学者だというのが面白い。しかし悲しいことに、世間ではディズニー映画版『ふしぎの国のアリス』は知っていてもその原作は読んだことのないという人間がとても多いのである。何を隠そう私だって一ページも読んだことがない。こんなことでは素晴らしきナンセンスギャグが愛しき読者に伝わらない、これは私が望むべきところではない。そしていい加減ナンセンスギャグという言葉がゲシュタルト崩壊してきたころだろう。そこで不肖この私、周囲からも実践躬行の男と名高いこの私が、この身を呈してナンセンギャグというものを披露したい。括目せよ。

 

「なあドンちゃん、俺はなあ、真実の愛というものを見つけてしまったんだよ」

「今年に入って八つ目だ。まるで西洋松露を探し出す豚のようだな」

「……豚、豚。飛ばない豚はただの豚……」

 うっとりとした表情で真実の愛(2014⑧)を見つけ出したという円森に、私と金木はうんざりとしていた。

「豚は酷いなあ」

「豚の方がまだ誠実だこの軟派野郎」

「……なんぱ、なんぱ…円森が難破……」

 私はあくまで円森に冷淡だった。金木はあくまで妄想の世界の住人だった。

「なんだ、お前。この前の、えっと、なんだっけか……美紀さん?」

「美加ちゃん」

「そう美加さん。あの娘とはどうなった」

「フラれちゃった」

「そりゃよかった」

 食堂で小さな円卓を囲って、我々は食事を摂っていた。鶏唐揚げ定食を前に、私はむっつりとしていた。

「浮ついた生活を続けていると、今に痛い目に遭う」

 そんな私の友人としてのありがたい警告にも、円森はどこ吹く風だった。コンビニエンスストアで購入した握り飯を頬張りながら得意そうに笑う。

「わかってないなあ。青春だヨ青春!」

「学生の本分は勉強だろ」

 苛々としながら味噌汁を啜ると、浮いていた葱が気管に入って大いにむせた。菓子パンをちびちび齧っていた金木が背中をさする。

「そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃない。学生の本分は青春を謳歌することだよ。君のそんな息の詰まりそうな生き方は社会に出てからするものだ」

「お前のそれは青春じゃない。もっとちゃんと出来ないのか」

「ちゃんと自分の人生を楽しんでいるさ。君は楽しいかい? 自分の人生の主人公はいつだって自分だっていうのに!」

「それならお前の人生はピカレスクだ」

「? なあにそれ」

「わからんならいい」

「だいたいさあ」

 円森はのけぞった。

「君は何の為に生きてるのさ。付き合い始めてから今まで、笑ってるところすら見たことない。まばたきの出来る能面じゃないのか君は」

「なんだと」

「しかも般若面だ」

 そんなことはないだろうと思ってちらりと横に意見を求めたが、金木はおどおどとするばかりである。しかしこちらとて能面呼ばわりは心外だ、歯をむき出して笑顔を作ってみたが、円森が戦慄し金木が半泣きになった。

「君は二度と笑うな」

「ぬ」

 不服だ。私は唐揚げを齧った。

「青春とは愛の探求さ。俺の人生は果ての無いラブストーリー。主人公からしてみれば、恋愛こそが全てだろう?」

「くだらないメロドラマだ」

「アメりんを見たまえ」

 金木は再度おどおどとした。指が隠れそうなほどのダボダボのYシャツ、それに埋もれるようにして金木は視線をきょろきょろと私と円森の間を行き来させた。線が細すぎて、金木は割り箸と見分けがつかない。

「彼の人生はナンセンスギャグに満ち溢れている、主人公はいつでも彼自身さ。実に充実していそうだろう」

「むむむ」

 否定はできぬ。確かに金木の人生においての登場人物はほとんど彼一人である。

「人生の主人公……」

 私は箸を止めた。自分の生き様に不満などないが、しかし確かに、あまり若さを活かした、ぴちぴちした鮮魚のような生活はしていないように思える。青春を謳歌することが学生の本分だというのにも納得しているが、勉学こそが青春だという考え方もある。もし問題があるとするならば、それは私がそこまで勉強が好きでないということだった。義務感のみでそれをこなしているに過ぎない、のかもしれなかった。確信は持てない。

「むむむむむむ」

 私は考え込んだ。昼時の食堂で、唐揚げを前に私は人生の深みにはまりつつあった。

「ただでさえ男子校にいるんだ。青春に対するハングリーさで負けてどうするんだ。さあ進め男子諸君! 世の中の女子は君たちに攫われるのを待っている!」

「なまはげかお前は」

「なんだあドンちゃん? 可愛い娘を一人紹介してやろうかあ?」

 私は迅速にこの男を黙らせるべく、その口に唐揚げの一切れを突っ込んだ。しかし円森がにやりと笑った時点で自分がとても惜しいことをしたことに気付き、奴の口から唐揚げを取り返そうとしたが、すでに後の祭りであった。衝動的な行動には読者諸賢も気を付けられたし。


 北門前に一本だけ金木犀が植えられている。ちょうど今が十分咲きの時期で、黒く艶やかな葉を花が覆い尽くすその姿はまるで金粉を散らした洋菓子のようである。無論その香りは無類であり、この時期になるとわざわざ北門から校舎に入る生徒も多い。そしてこの時期、駅から校舎までの長い坂道の両脇に規則正しく並んだ二列の銀杏並木も、銀杏の実を丸々と太らせて生徒たちの頭上に落とすようになる。その数といえば千や二千は下らないだろう。その一つ一つが公害級の悪臭を放つので、可哀想な金木犀は嗅覚をやられたむくつけき野郎どもに顔を突っ込まれる毎日である。ちなみに落ちてくる銀杏の事を、我々は『天罰』と呼ぶ。

 この季節になると、銀杏の芳醇な香りと金木犀の馥郁たる香りが混然一体となったなぞの臭いも相まって我が校の混沌も極まる。女三人集まれば姦しいと言うが、男が三人集まっても臭いだけである。戦前に建てられたとされる、風通り皆無の校舎に閉じ込められ、逃げ場もなく煮詰められた二千人分の男汁は高濃度の瘴気を発して、その場の人間をことごとくある種の酩酊状態にする。それを吸い続けることによって『女性』という概念は段々と希薄になり、都市伝説あるいはテレビ画面の中のみに存在する生物と化す。やがてこの世界の『女性』という存在を理解することが困難になると、彼らは一つ次元を下げてそれを認識しようと苦悩し始める。苦悩した結果さらに間違えた方向に『女性』を解釈した彼らが、「三次元に回帰したぞォーーッ!」と言いながらその手にしているのは美少女フィギュアとかいう無機物である。もはや彼らの中で『女性』といえば母親か偶像のどれかである。哀れなり男子高校生。

 円森晴一郎という男もそんな男子校に通う普遍的な高校生の一人であった。知り合って間もなかった頃の彼は、二次元においての『女性』を知り尽くした上で三次元に回帰することを良しとせず、さらに『女性』というある種哲学的生物を徹底的にその根本から解体するべく、まずは二次元と一次元の間、つまり一・五次元である『文字』から『女性』を模索することから始めた。そこで白羽の矢が立ったのが文芸部に属するこの私である。今でこそあの誘いは舌を噛み切ってでも断るべきであったと後悔する日々だが、当時の私は小説の題材に困っており、円森の個人的研究に助力することを唯々諾々と約束した。研究の甲斐あり文字上の『女性』というものを完全に昇華させるには一次元、つまりは『線』としての『女性』を咀嚼し消化するしかないことが分かり、同じく当時数学に関して異様な才覚を発揮していた金木の協力を得て、次なる次元へと研究のフェーズを移行させた。そこでも金木のもはや不条理なまでの非論理的論理思考によって、『女性』はそもそも『線』ではなくその真なる正体は〇次元、要するに『点』に存在することが、なんだかよく分からない数式によって証明されたのであった。さあこうなったら『点』としての『女性』というものを解明するしかない、さすればついに、長年の研究にも芽が出るというものだ。これでようやく、『女性』の真理に辿り着ける。そう意気込んでいたときに、その事件は起こった。

 円森が恋人を作ったのである。

 彼はなんと、私と金木という長年共に死線を掻い潜ってきた盟友を0次元に置いてきぼりにして、たった一人で三次元へ旅立ったのだ。

 度し難い裏切りに、私と金木はしばらく精神的ショックによって〇次元から抜け出すことが出来ず、点字でしか生活が出来なくなったのであった。これを私達の間では『多次元的女性解明研究突発的頓挫事件』と呼ぶ。しかし天罰覿面、わずか二週間後に円森は彼女に袖にされ、今度は彼が〇次元に閉じこもった。これに関しては、人類が未だ〇次元以下の次元の解明に成功していないことに感謝である。さもなくば円森はさらなる低次元へと自らの精神を閉じ込めていたことであろう。最初こそ手を取り合って神に感謝した私と金木であったが、円森のあまりの憔悴のしように流石に胆を冷やし、彼がこのまま〇次元から抜け出せなくなる前になんとかしなければならぬと、かつて熱を上げた研究を逆から無心状態の円森に読み聞かせた。なんとか三人共に三次元へと生還したが、その時点でもはや円森はかつての円森ではなくなっていた。太縁の眼鏡はカラーコンタクトに、黒い癖毛は茶色い直毛へと変貌した。彼のなかでどのようなパラダイムシフトがあったかは不明だが、今のように軽薄な男になったきっかけはこの事件で間違いない。その責任の一端は確かに私や金木にもあるが、しかし大方は自業自得である。残念なことに彼自身は今の自分に満足しているようで、『イマドキ』の高校生に進化したかのように振る舞っているが、かつての変態性は大いに健在であり、私と金木はそれがいたいけな女性の前に突如暴発しないか気が気でならない。少女たちの身の安全のためにも、私は彼を正道に導かなくてはならない。

 絶対に、である。


 その日所用があるとのことで、円森は早々に帰宅してしまった。所要も何もデートだろう。悲哀な雰囲気に包まれた私と金木は二人で再開された女性研究を少し進めた後、とぼとぼと銀杏並木を下っていた、落ちた銀杏の実を踏んだら一貫の終わりなので、私と金木は半ばツイスターゲームのような慎重さを以て歩いていた。正直なところ、超弦理論の研究に突入した段階でなんだかこれは違うんじゃないのかと思い始めたのだが、もはやここで研究をやめる訳にはいかなくなったのだ。そもそも文系の私には荷が重い。

 今後の研究方針について金木と語り合っていると、突然『それ』は現れた。山雨来たらんと欲して風楼に満つといった感じの、円森が忽然と姿を消した時点で悪い予感はしていたが、しかるべき警戒を怠っていたようだ。不覚である。

『それ』はいつも突発的なつむじ風を伴って現れる。むしろつむじ風そのものと言えよう。風は的確に我ら『多次元的女子懐疑学派』に所属する英傑達の心を一瞬にして荒涼としたツンドラ地帯に変え、何とも形容しがたいふにゃふにゃとした矮小な生物に変えてしまうのであった。毅然とした態度、いやに鋭い眼光、真っ直ぐに伸びた背筋。そしてなんともタチの悪いことにつむじ風は美人であった。

「あら、こんにちは」

「これはどうも御無沙汰でありますな」

 すでに語尾がおかしい私だったが、しかしこの状況で正気を保っていられること自体が私のメンタルの強さを如実に表していると言えよう。可哀想に金木は既に私の背中に隠れてしまっている。

「本日はどのようなご用件で?」

 私はつむじ風に尋ねた。

「用事がなければ来ちゃいけないなんて、随分と格式の高い学校なのね」

「いや、用事さえなければ誰も来たがらない」

 くすりとつむじ風が笑った。

「まあいいわ。今日は銀杏の葉も黄色がかってきていて綺麗ね。素敵だわ」

「臭いだろう」

「それも含めて素敵なのよ」

 つむじ風は銀杏並木を見上げたままそう言った。

「円森なら先に帰った」

「……」

 つむじ風は少し黙り込んだ。真上を向いていた頭を、一つ嘆息した後にこちらに戻した。私達を透かすような瞳は、若干寂しそうに見えなくもなかった。秋のせいだろう。

「……そう。まだ『研究』は続いているというわけね」

「? 研究? ああ、続けているが」

 なぜ我々の研究の事を知っているのか気になったが、きっと先ほど私達を一瞥したときに思考をスキャンでもしたのだろう。あの目ならそんなことをしてもおかしくない。とりあえずつむじ風に隠し事は不可能である。

「用事といえばそれらしいものはあるのよ。立林曇太郎。そして、」

 つむじ風は私の後ろを覗き込んだ。金木は竦みあがって私の背中をむんずと掴み、私は金木を庇うように胸を張った。

「金木雨彦。貴方たちに伝えたいことがあるの」

「伝えたいこと?」

 つむじ風はやけに神妙だった。実にらしくない。私は胆を冷やした。

「円森君の研究は危険な方向へ向かっているわ。貴方たち、彼の仲のいいお友達でしょう? どうにか手綱を握ってあげられないかしら」

 その高慢な台詞に私は激昂した。

「仲がいいものか! 研究の主導権を今握っているのは俺と金木だ。奴は裏切りによって研究より追放された。余計な詮索は不要なり! 貴女は速やかに奴と縁を切って家に帰り温かくして寝るがいい」

 つむじ風も激昂したようだった。

「彼と縁を切るかどうかは貴方の決めることじゃないわ。今彼が独りでやっている研究は間違った方向に進んでいるの。貴方たちのそのくだらない研究とやらはさっさと中断して、彼を説得しなさい」

「くだらないだと!」

「ええ。この一大事と比べたら些末なものよ」

「ならば貴女が直接奴に伝えればいいだろう」

 つむじ風はむっつりと膨れた。

「彼、逢ってくれないもの」

 その恥じらう乙女の姿でついに私の堪忍袋が爆散した。つむじ風から視線を切ると、私はズンズンと並木を歩き出した。

「いくぞ金木」

 すれ違いざま、つむじ風から微かに金木犀の香りがした。足早に金木が付いてくる。時折振り返ってつむじ風を確認しては首を引っ込めているようだ。

「ちょっと! 待ちなさい! 話は終わってないのよ!」

「もう聞きたくない! 銀杏に気を付けてさっさと帰りたまえ!」

 私は一切振り向かなかった。

「なんなんだあれは。袖にされたんじゃあなかったのか」

「……恋する乙女」

 ボソッと金木がつぶやいた。苛々として私は息を吐いた。

「独りで研究だと?」

 私は一人、つむじ風の言葉を反復した。彼女の追って来る気配はない。

 何を隠そう、つむじ風―――日照陽子こそが、『多次元的女性解明研究突発的頓挫事件』の原因となった、円森を袖にした初恋の相手なのであった。


 帰宅後、日照さんから聞いた話について円森に詰問するべく、私は携帯電話からメールを送った。残念ながら私の使う携帯電話は厚さが五センチメートルにもおよぶもので、というよりもそもそも『閉じる』ことができる、いわゆるガラケーというものなので、ラインだかポイントだかフラットだかには未対応なのであった。

 しかし奴からの返答は一向に無く、その代りメーラー蛇衛門たる侍から返信が来た。奴の知り合いだろうか? 私は憮然として携帯電話を投げ捨てた。


 次の日、円森は登校してこなかった。

 あの馬鹿が風邪を引くわけがないので、きっと何かのっぴきならない理由があるのだろう。我が校は欠席単位が日かぞえではなく授業コマ数かぞえなので、一日欠席するだけで六コマもの単位を失うことになる。そのため多少の風邪でも無理をして登校する者も多く、迷惑にも風通りの悪い校内で細菌を撒き散らしているのだ。

円森は教師陣の信頼と登校日数のみで進級しているような男なので、このように意味もない欠席は絶対にしないはずである。誘拐でもされたのではないかと金木と話合ったが、あんな食費のみが延々と掛かる以外何も役に立たない人間欲しがる物好きがいる訳がない。延々と女を口説いてくれるかもしれないが、それなら直接女を誘拐すればよかろう。そして自分探しの旅に出たにしては、奴は自我が強すぎた。ここに来てようやく、もしかしたら本当に奴は病床に伏せているのではないかと私と金木はちょっぴり心配し始めたのだった。どうやら金木の使うSNS上でも、奴からの応答はないらしい。そこまで弱っているのだろうか。ほんの少し心配になった。ほんの少しである。


まったくもって心外ながら金木がどうしてもと言うので、私達は奴の家までお見舞いに行くことにしたのであった。金木は大変に可憐なのでどこぞの不逞の輩が荷台に積んで彼を連れ去ってしまうかもしれない、私はそれを心配してついて来ているだけなのである。

電車を乗り継ぐことおよそ二十分、円森の家は私達三人の中でもっとも学校に近い場所にある。夏季休暇中の研究は設備の整った円森家でさせてもらっていたので、家の場所も知っていた。

「ついたな」

 閑静な住宅街、そこに円森宅はある。

「……なんかいつもと違う…」

 金木の言う通り、目の前の無駄に大きい円森の家は、なんだかおかしかった。おかしいということは分かるが、なにがおかしいかは全く分からない。私は異常な気持ち悪さを感じていた。この違和感、その正体は一体何処にあるのか。

「カーテンもしまっていないに部屋が真っ暗じゃないか」

「……人の気配がない」

 人のいない家というのはそれだけで超然とした雰囲気がある。こちらを飲み込もうとするような気迫が、円森家からは放たれていた。

「旅行か? とりあえず呼び鈴だけでも押してみるか」

 ピンポーンと鳴り響く呼び鈴。その瞬間足元の地面がボカンと開いて私と金木は真っ逆さまに底の見えぬ暗闇に落っこちた。読者諸賢も余所の家の呼び鈴を鳴らすときは注意されたし。


 気が付けば再び銀杏並木に立っていた。辺りは霧に包まれている。あまりに濃い霧のせいで、金木の姿が見えなかった。

「……ポケットの中には自分が入っている」

 唐突に、どこかでで金木がつぶやいた。私もにわかに、自分の学ランのポケットの中に自分が入っているような気がした。いや、絶対に入っている。

「ん? 鍵が落ちているな」

 足元に鍵が落ちていた。鈍く光るそれは、差し込み部分の塗装が少し剥げている。私はそれを拾おうとして屈んだ。

「あ、おっと」

 屈んだ瞬間、ポケットから『私』が零れ落ちてしまった。『私』はまんまるで青くきらきらと光る球体であった。ポケットから零れ落ちた『私』は銀杏並木を転がっていく。見失ってはまずいと思い、私は『私』を追いかけた。

「おい! 待て!」

 もつれる足。深い霧。『私』は坂の下へ消えて行った。

 私は己を見失った。


「ギィェェェエエエエ! ハッハッハッハァ!」

 私は我を忘れて駈けずり回っていた。

 金木を見つけることのできぬまま、私は『私』を追って銀杏並木の坂道を全速力で駆け下りていた。濃い霧に包まれて何も見えない。私はそれでもひたすらに坂を走って下っている。

「……我」

 どこからか響く金木の声。霧に反響してまるで私を包み込むよう。

「……レタス」

 途端に足元からぼこぼことレタスが生えてきた。どれもこれも真っ白に茹で上がって霧を湯気で揺らしている。

「レタスが花咲かせて無いんじゃ意味がねえだろォ!」

 私は無数のレタスの内の一つを蹴り飛ばした。それは回転しながら霧の向こうへ消えて行った。

 ズドンと地面が揺れた。

「……スルメ」

 金木の声。姿は見えない。

 一枚のスルメイカが走る俺の横につけてきた。

「やあ急いでいるようだね。君はまるで出来立てのフランスパンのようだ!」

「うるせぇタコ! 黙って飛んでろ!」

 私は坂を下りる。まだまだ終わりは来ない。

「……メトロノーム」

 金木はそう言った。

 目の前に巨大な影が現れかと思うと、それは馬鹿でかいメトロノームであった。120のテンポでリズムを刻んでいる。

「速えぇんだよバカヤロー!」

 私は横を漂っているスルメイカを掴み、眼前に迫るメトロノームに投げつけた。スルメは見事にメトロノームの遊錘に直撃した。テンポが40に変わる。

 途端に私は、自分が何か二次元的な、なにかフラットな物に変貌していくのを感じた。世界の奥行きがなくなり、私は二次元世界の住人へと転じた。もはや足元のレタスを避ける術はない。

 二次元の地面がズドドと揺れた。

「……ムヒ」

 ここで私は、あたりを包む濃い霧の正体は、ミスト状になったムヒであることが分かった。この清涼感。

「目に沁みるゥウ!」

 しかし止まるわけにはいかない。このままでは『私』に追いつけない。己を見失ったままになってしまう。

「……日照陽子」

 モワッと霧をかきわけ、二次元の虚空から日照さんが落ちてきた。私は見事なモーションで彼女を両手で受け止めた。

「なに? どういうこと!」

 彼女は私の腕の中でひどく動転していた。私は構わず、お姫様抱っこのまま坂を駆け下りる。

「貴方、立林曇太郎? なんなのよこれ」

 目がぐるぐるしている。二次元的な表現だ。

「知らねェーよ! 次元の坂でも下ってんじゃねーの?」

「『ねェーよ』?」

 日照さんは首をかしげた。

「いつもと口調が違うじゃない」

 驚くべきことに彼女は既に平常心であった。つくづく恐ろしい女性である。

「今まさに己を見失っテんだ!」

 私は豪語した。

「それより気を付けろ! 口閉じろ! 舌噛むぞ!」

 彼女を腕の中に抱きながら、私は坂道を下る! 下る!

「……コメット」

 いやに無感動な金木の声。

「金木雨彦もいるの? ……きゃあっ!」

 首を出しかけた日照さんであったが、我々の頭上に降り注ぐ彗星に気が付くとすぐに首を引っ込めた。

 真っ赤に尾を引く彗星が、地面をえぐっては爆発する。それを置き去りにするように、私は走る。

「か、体が段々『荒く』なって来ているわ!」

 日照はさん両手を広げてまじまじと見つめている。確かに、私の見ている光景もだんだんと『荒く』なって来ている。いわばWiⅰからファミコンへとグレードを下げたような、ドットが大きくなっているような、そのような変化が顕著になってきたのである。

「……鳥皮」

 金木がそう言った瞬間、鳥皮へと変化した地面が途端にぬるっとして、我々はすべるように二次元の限界を突破した。極限まで画素が荒くなり、世界は線のみによって表される一次元と化した。

 我々はもはや傾きがマイナスの線分上を動く点Tと点Hであった。

「このままでは〇次元にまで次元が落ちてしまうわ! どうするの?」

 xの増加に合わせてやはりますます次元が落ちているが、まだ二次元の名残りがあるようで、我々が喋ると線分が心電図のようにギザギザと揺れた。

「次元を下った先に何があるというの?」

「ラスボスかもなァ!」

 いよいよ波すら立たなくなった線分。〇次元に突入してしまえばもはや坂は下れまい、実質的な終焉である。元の次元へ戻れなくすらなる。

「も、もう限界!」

 点Hが目を閉じる。終点はすぐに目の前だ。

「……我!」

 金木の声が響き、私は我に返り、世界もまた、ある程度常識に沿った次元へと帰還した。


「もう目を開けて構わない。安心してくれたまえ、日照さん」

 三次元に立った我々の目の前には、鉄の扉がデンと構えてあった。

「……? 扉? ここは?」

 私にお姫様抱っこされたままの日照さんが辺りをぐるぐると見回した。

「私達、次元を下っていたんじゃ?」

「あれはきっと、次元を極限まで落とすことによって、平行次元との境を曖昧にしたのだ」

「へ?」

 日照さんはきょとんとした。普段は見られない表情である。

「要は一次元を下っていたとき、我々は気付かぬうちに隣の次元の世界線に移っていたということだ」

「さっぱり分からないわ」

「まあそうだろう。貴女は研究に参加していないからな」

 私の横から金木が進み出て、扉の正面に立った。

「金木雨彦じゃない。今までどこにいたのよ」

「……元の次元」

 ボソッと金木は呟いた。

「正気を失い、不条理を受け入れた俺だけが、次元の坂を下れたということだ」

「???」

 戸惑う日照さんを尻目に、金木はポケットから坂の初めに落ちていた鍵を取りだすと、鍵穴に差した。

「ともあれ、犯人は明確だ」

 我々は扉をくぐった。


 扉を開けた先は学校の屋上であり。その真ん中あたりに円森が立っていた。

「やはりお前か」

 へらりと笑って円森が腕を広げた。

「ようこそ王子様ご一行!」

「お前のお姫様だろう」

 私の腕の中にいることに気付いたらしい日照さんが急激に発熱し始め、私をしたたかに殴りつけた。私もいい加減重いので、彼女をやさしく地面に降ろした。

 地面に足をつけるやいなや、日照さんは肩を怒らせ円森に向かって猛進していき、両手を広げたままの無防備な円森の右頬を平手で思い切り打ちぬいた。

 パァン! という快音とともに円森がぶっ倒れ、私と金木は拍手喝采であった。このまま左頬も差し出してメシアの再来となるかと思ったが、円森はよろよろと苦笑しながら立ちあがった。

「こんなことして! 世界がめちゃくちゃじゃない!」

 申し訳なさそうに円森がエへへと笑った。

「おい円森。なんだこれは。俺たちの研究と関係があるようだが」

「俺たちの研究をもとに、俺がさらに独自の研究成果を付け足したものさ」

「俺と金木を巻き込んだのもそのせいか」

「うん」

 素直に円森は頷いた。

「次元を移動するには、レタスのシャキシャキ感、スルメイカのしわしわ、メトロノームのテンポ、ムヒの清涼感、彗星のエネルギー、鳥皮のヌチョヌチョ感が不可欠だったんだ」

 円森は滔々と語る。

「それで、これらを瞬時に言い出せるアメりんと、女の子を抱えながら坂を駆け下りる体力のあるドンちゃんの協力が必要だったんだ」

「理由はなんだ? 次元を変える意味はあったのか」

「これは証明なんだ」

 円森は空を見上げる。抜けるような青空だ。

「俺はついに、本物の女性と触れ合ううちに、『女性』の正体にたどり着いたんだ」

「俺と金木をほっといてそんなことをしていたのか。なんだ、邪魔でもすると思ったのか」

 ここでうんと言うのであったら、我々の信頼関係はここで終わり、私は絶交を切り出すつもりであったが、円森は目を見開いて否定した。

「違う違う! 断じてそうじゃない! ドンちゃんたちを信頼しているのはホント! ただ『これ』は俺個人の問題だから……」

「お前個人?」

 円森は、目の前で立ち尽くしている日照さんに向き合うと、何やら真摯に話し出した。

「あの時君を拒絶したのは、俺がまだ『女性』を理解していなかったからなんだ」

「……」

 黙り込む日照さん。

「でもたくさん研究して、ドンちゃんとアメりんの協力も借りて、やっとわかったんだ、君の、女性のことが。これでようやく、君と真面目に付き合える。ねえ、陽子ちゃん。俺ともう一度初めから――――――」

「貴方が理解したのは『女性』であって『日照陽子』ではないわ」

「……」

 円森が捨てられた子犬のような顔になった。

「でも、」

 日照さんは一度しかめ面を作ったあと、ふっと微笑んだ。

「これからたくさん教えてあげる」

「そ、それって……」

 日照さんは太陽のように笑った。

「これからもよろしく。晴一郎君」

 そのとき、空からあめが降ってきた。キャンディー紙に包まれたそれは雨ではなく飴である。ナンセンスギャグどころかもはやただのオヤジギャグである。我々を直撃する色とりどりの飴、私はそれを一つ拾って、包装を剥がした。綺麗な青い飴玉である。口に入れると、

「なんだ。ただのガラス玉じゃないか」

 私はプッとガラス玉を屋上へはき出した。ガラス玉は地面に衝突すると粉々に砕け、ガラス玉だった粉塵は風もないのに舞い上がった。それはメビウスの輪のように急激に漂い始め、我々を包んだ。視界が淡い青に包まれ、どうやらこのナンセンスギャグの世界から強制的に退場させられるようである。


 本日何度目かの銀杏並木である。夕方であることを鑑みると、どうやら元の次元へ帰って来れたようだ。全員の安否を確認しようと私はその場を見まわしたが、もはや円森と日照さんは二人だけの世界を構築しており、私と金木は蚊帳の外である。

「帰るぞ、金木」

 金木は頷いた。私達は再び二人してとぼとぼと帰路についた。

「どうやら今回も主人公は俺達ではないようだ」

「……うん」

 私は嘆息した。

「奴め青春を謳歌するとかなんとか言っていたな。人生の主人公は自分なんだと。でもなあ、」

「……こんな青春は、ごめん」

「まったくもってその通りだ」

 銀杏をよけながら、私は鼻を鳴らした。私と金木は銀杏の臭いに悶絶し、円森は日照さんの発する金木犀の香りに陶酔するのだろう。

「明日は英語の考査があったな」

 金木はどんよりとした。

「なあに怖がることはない、俺が教えてやろう」

 私は振り返った。並木の上では二人が抱き合っていた。舞い落ちる銀杏の葉は紙ふぶきのよう。私は唾を吐いてぶつぶつ呪詛を振りまいた。

「あれよりはずっと分かりやすい」


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