ひめちゃんの初めてのお使い
※持ち回り企画短編、犬吉杯参加作品。お題は「忍者」です。
「あら、お醤油切れてる」
お母さんの声に、姫ちゃんはふっと目を覚ましました。
「おとーさーん。お醤油買ってきてくれなーい?」
台所から声をかけるお母さんに、お父さんがテレビを見ながら「うぇーい」と返事をします。そんなお父さんを見て、お母さんは「もう、空返事なんだから」と溜め息をつきました。
姫ちゃんはピンと良いことを思いつき、玩具箱からいそいそとお財布を取り出しました。この前お母さんにかってもらったばかりの、魔法少女マジカル☆リルちゃんのお財布です。
桂木姫乃ちゃんはもう三歳のお姉さん。お醤油を買ってくるのなんてへっちゃらのはず。姫ちゃんはそんな自信を胸に、玄関へと向かいました。
お父さんのおっきな革靴と、お母さんの高いヒールに囲まれた、お気に入りの靴。姫ちゃんは三歳のお姉さんなので、一人で靴を履くのも余裕です。左右も間違えないようにすんなりはいて、開くドアを潜り抜け、意気揚々とお出かけです。
そんな姫ちゃんの前に、『だいいちのかんもん』が出現しました。
階段です。
姫ちゃん一家の住んでいるアパートには、エレベーターなどと言う洒落た物は存在しません。二階から一階に降りるには、どうあってもこの階段を降りなければならないのです。
その一段の高さは、実に姫ちゃんの身長の半分ほど。単位で表すなら0.5姫ちゃんにも及びます。いつもならお父さんに抱きかかえられて降りるその階段ですが、今日の姫ちゃんは違います。何故なら、姫ちゃんは三歳のお姉さんなのですから。
ぎゅっと目をつぶり、えいやと気合いを入れてジャンプ。恐る恐る目を開くと、なんと言うことでしょう。姫ちゃんはしっかり階段を降りきっていました。
流石、三歳のお姉さんです。
姫ちゃんはポカポカ陽気に胸を弾ませながら、道を行きます。姫ちゃんは三歳のお姉さんなので、当然お醤油を売っているスーパーへの道も知っていました。ずんずん、ずんずんと進んでいきます。
けれど、突然そんな姫ちゃんの歩みがぴたりと止まりました。
『だいにのかんもん』。加藤さんちの、犬のクロです。
クロは姫ちゃんを見つけるやいなや、しっぽをぶんぶんと振りながら姫ちゃんに飛びつきました。がしゃんと鎖が音を立て、姫ちゃんはびくりと体を竦ませます。勿論クロは鎖に繋がれていて、更に姫ちゃんとクロの間には柵が立っているので、クロはそれ以上姫ちゃんには近づけません。
しかし、大きな犬が飛びついてくるその様はやはりどうしても怖いのです。
頑張って、姫ちゃん!
姫ちゃんはぐっと眉に力を入れると、一歩、踏み出しました。
そしてもう一歩……更に、もう一歩。
恐怖に怯えつつも、しかし姫ちゃんはしっかりとした足取りで進みます。
何故なら……
姫ちゃんは……
もう、三歳のお姉さんなのですから――!
見事にクロのいた場所を乗り越え、姫ちゃんは疲労困憊。しかし、目指すスーパーまではもう少し。姫ちゃんの足でも10分で辿りつく、近所でうれしいスーパーなのです。
そしてそこに、姫ちゃんを『さいごのかんもん』が待ち受けていました。
横断歩道――そして、信号機です。賢い姫ちゃんは、信号が青になれば渡って良いということを知っています。
しかし残念なことに、姫ちゃんは見落としていたのです。その信号が、ボタン式だということを……!
やがて青に変わった信号に、姫ちゃんはニコニコしながら手を挙げて、横断歩道を渡り始めました。おやおや、姫ちゃん。左右確認を忘れちゃってますよ、気をつけて! 三歳のお姉さんといえど、まだまだ不用心みたいですね。
信号無視の大型トラックが破砕する音を背に、姫ちゃんはようやくスーパーへと辿りつきました。ぎゅっとお財布を握り締め、姫ちゃんは早速お醤油を探します。
その途中、姫ちゃんはぴたりと足を止めてしまいました。どうやら、お菓子が気になってしまったようです。姫ちゃんの視線の先にあるのは、魔法少女マジカル☆リルちゃんガム。フィギュアがついてくる食玩です。
姫ちゃんの玩具箱の中にはマジカル☆ユニスちゃんが一体と、三体もダブったマジカル☆スピナちゃんがリルちゃんを待っているのです。
パッケージのリルちゃんと見つめあう事、数分。ちょっぴり教育に悪そうな露出度の高いリルちゃんは、まるで小悪魔の様に姫ちゃんを誘います。
しかし、とうとう、姫ちゃんはその誘惑を振り切りました。偉いぞ、姫ちゃん!
姫ちゃんは500ミリリットルのお醤油を見つけ出してぎゅっと抱きかかえると、少しよろつきながらもレジに持って行きました。
「あらー、お嬢ちゃん、お使い? 小さいのに、偉いわねえー」
レジのおばさんの褒め言葉に、姫ちゃんも満更でもない様子でふふんと胸を張ります。そして意気揚々と、そのお財布の中身を全て取り出しました。その金額、なんと38円。
「あー……」
レジのおばさんは困ったように眉根を寄せました。足りません。びっくりするほど足りません。この金額でマジカル☆リルちゃんガムまで買おうとした姫ちゃんの豪気さにはびっくりです。
「他に、何かもらってなあい? お母さんから……」
黙って出てきたのですから、そんなものあろうはずがありません。首をふるふると振る姫ちゃんに、レジのおばさんも弱り顔です。
「一応お財布、見せてくれる? ……あら、なんだ、あるじゃない」
おばさんは財布の中に入った一万円札に気付き、ほっと胸をなで下ろしました。
「はい、じゃあ、九千と七百二円のお返しね。大丈夫? もてる?」
袋に入れてくれるおばさんにこくりと頷き、姫ちゃんはお醤油を抱きかかえて家路へとつきました。
その足取りは軽く、飛ぶようにお家へと帰り着きます。
「……あら、姫乃。お醤油買ってきてくれたの?」
こくこくと頷く姫ちゃんを、お母さんは目をまん丸にして見つめました。
「すごいわねえ、偉いわねぇ」
「ひめ、もう、さんさいのおねえさんだもん」
なでなでなでと頭を撫でるお母さんの大きなお腹を見て、姫ちゃんは胸を張ってそう言いました。
頑張ったね、姫ちゃん。
「あっ、お菓子まで買って。もう、しょうがないんだから」
お醤油の袋をまさぐり、そこから出てきた食玩の大きな箱に、お母さんはクスクスと笑いを漏らしました。