(九) 相馬美恵
五十川さんと並んで歩く今日の行き先は、大学から約十分にある繁華街。
レミタンの後に何度か行ったことはあるけれど、まだ私はこの町の地理を覚えられない。だからただ部長さんの後について、ゆるやかな坂道を下っていく。
四月の夕暮れがこんなに暖かいことが不思議だ。
去年なら、今ごろ桜が満開になっていた。たぶん今年も同じ景色が広がっているだろうけれど、私には分からない。
…離れた町のことはなるべく考えないようにしている。
いかにも高級住宅街という雰囲気の道を抜けて、四車線の大通りに出た。焼肉屋の変な音楽、お菓子屋の飾り付け、餃子のにおい…。沢山の人が歩いている。みんな車に乗っていて、歩道には誰もいないのが当たり前だったのに。
「お、いたいた」
到着した居酒屋は、とりたてて目立たないビルの二階。のれんをくぐったら、奥まった座敷に人影が見えた。見たことのない顔だ。
「こんにちわー、席はどうしましょうか桑川さん」
「…村上に任せてある」
「あ、そうですか」
そうか、この人が桑川さんなのか。貫禄がありすぎて顧問かと思った。
座敷を見渡しながらヒラブンの人たちに軽く会釈をして、とりあえず端の方に座る。今日の席は全部指定されると部長さん……は二人いるから庭田さんか、えーと、庭田…さんにも聞いていたけれど、なるべく目立たない位置で隠れていたかった。
「席ぐらい俺が決めてやるのになぁ、庭っち」
「お前にだけは決められたくねぇだろうな」
「どういう意味だ!」
それにしても、当たり前だけど私は生まれて以来、こういう店に入った経験は今月ぐらいしかない。だから初めての店は、いつも不思議な空間だ。
全体的に妙に暗くて、何となく独特のにおい。ちょっと光る床。なぐり書きの「本日のおすすめ」。テーブルの角は取れ、でこぼこした表面はあちこちテカテカしている。
落ちつかない……わけではない。
むしろ居心地がいい。不思議だ。座敷の隅でゴキブリのようにコソコソと見回すほどに馴染んでしまう。
「ごめんごめん、ちょっと遅れた」
「二分の遅刻だ」
「庭っちがそれ言うの?」
やがて宮海さんと村上さんが一緒にやってきて、これで全員がそろったらしい。
すぐに席の指定が始まった。上座に桑川さんと庭田さん、次は…宮海さんかな?
「ここ、五十川さん」
「えっ?」
隣にいた五十川さんが、かなり焦った声で移動する。その先の順序もまるでバラバラだった。
一番端をねらっていた私もちょうど真ん中あたりで、斜め向かいに村上さん、隣に浜中さん。不思議だ…。
「えー、不肖わたくしめが本日司会を賜りました浜中…」
「ほんとに不肖の子だよねー」
「宮サマの不肖の隠し子、浜中でございます!」
「…だったらすげぇな」
「どこがっ!」
さっそくいつものノリになった。
でも、ヒラブンの人たちは黙っている。向こうはいつも大人しいのだろうか。それとも単に白けているだけ?
「ではレミタンとヒラブンの合同新人歓迎会を始めたいと思いま~す」
「おー」
「………」
「とりあえず拍手だろ」
「え、は、はい」
だけど浜中さん、司会なのにこんな中途半端な位置でいいのかな?
私に拍手の指導をするにはいい場所だけど。
「まずは部長、会長の挨拶から」
浜中さんの声に、庭田さんと桑川さんが一瞬見つめ合った。で、先に立ち上がったのは桑川さん。たぶん四回生だから先に、ということみたい。桑川さんは横幅があって、髪の毛で隠れている目許もきつそうに見える。あの至近距離で見つめられたら勝てそうにない。
…私はそもそも、ここの誰にだって勝てないけれど。
挨拶そのものは、二人ともほんの一言。庭田さんが座るとすぐに浜中さんの声で乾杯となった。私の手には小さなジョッキ。
一応ノンアルコール。でも苦い味だから、先月まで飲もうとも思わなかった。なのにいつの間にかなじんでいる。すごく気分が落ち込む。
「では鍋が煮える前に自己紹介お願いしまーす」
「何言えばいいんだー」
「名称、産地、得意技なんか言ってくれー」
自己紹介は席順なので、レミタンもヒラブンもごちゃまぜ。やはり端から…と、今度は庭田さんが先みたい。もっとも、さっきも挨拶したから簡単に終わった。
長いテーブルに左右に並ぶ人数は二十人ほど。いわゆる上座に庭田部長と桑川会長、反対側の端は二回生席。庭田さんは前回のミーティングで、会ごとに分ければいいと主張していた。その発言が終わるか終わらないかの瞬間、宮海さんに一言で否定されてしまった。ちょっと怖かった。
そういえば浜中さんもごちゃまぜ派だった。宮海さんと意見が合う姿を見たのは初めてだったような気もする。
「えーっと、三回生の宮海です」
「宮サマと呼んでね」
「浜バカ!」
宮海さんはいつもキリッと凛々しい人だ。
庭田さんや浜中さんは「リアル宝塚」だって言ってた。リアルの意味は知らないけど、何となくバラの花が似合う気もする。私の想像もよく分からない。
「改めて、三回生の宮海です。レミタンの副部長やってますのでよろしく!」
「得意技はエルボースマッシュ」
「ランカシャースタイルだよな」
「そういう内輪なやりとりはやめなさい!」
庭田さんと浜中さんは、身振りを交えながらツッコミを入れてくる。もしかしてプロレス好きなんだろうか。プロレスを見たことはない…けれど、そもそも何で得意技を言わなきゃいけないんだろう。まさか私も?
「三回生の村上です。今は下宿してます」
「昔は違うんですか?」
「えーと、実家はジュンちゃんの近所です」
村上さんの挨拶が始まると、会場が一瞬静まった。宮海さんとは違った穏やかな声。もちろん間近で見る村上さんは、やっぱりきれいだ。一回生の間でもすぐに噂になったぐらいの人だから。
……だからすれ違いざまに私が挨拶したら、まわりがちょっと驚いていた。
自分にも違和感がなかったわけじゃない。私なんかが会話していい相手じゃない、そんな気がしたから。
「得意技はなんですか?」
「え、えーと…」
「二十歳です」
「勝手に決めないでよぉ」
今度も浜中さんとのやりとりはまるで漫才のよう。これもプロレス? 私にはまるで理解出来ないけれど、宮海さんは普通に笑ってるし、庭田さんも当たり前って顔。ヒラブンの人たちも苦笑している。
これがこの世界の普通。
そうなんだ。私はだから………。
「じゃ、次」
「…え? あ、はい」
どうでもいいことで落ち込んでいたら、次は自分の番なのを忘れていた。
どうしよう。村上さんの後にしゃべるなんて、ちょっと厳しい。えーと……。
「新入生の相馬です。出身は…」
しゃべりながら、どんどん自分が自分じゃなくなっていく。奇妙な浮遊感。
あ、もしかして緊張してる?
そんなの当たり前?
「よろしくお願いし…、します」
「得意技は?」
「え?、…………」
完全に頭が真っ白だ。
どうする?
どうする?
「当面は百万ドルの笑顔ぐらいでよろしく」
「ひゃ、百万ドル?」
その瞬間の声は、ここ数年あげたことがないほど甲高く響いた。鸚鵡返しに叫んで、まわりのひきつった表情が目に入った時、ようやく浜中さんがフォローしてくれたことに気づく。
………。
何をしているんだろう。
私はただ迷惑をかけるだけで……。
「なんか古くさいなぁ」
「本日の終値で約一億二千万円よりカッコイイだろ」
「まぁ…、ともかく笑顔でよろしくね、相馬さん」
「……は、はい」
宮海さんに名前を呼ばれたら急に気が抜けて、へなへなと座りこんだ。
すぐに次の人の挨拶が始まり、何事もなかったかのように自己紹介は進んでいく。何事もなかったかのように。
……そうか。
私は笑っていなかったのか。
今さらの指摘を聞いてますます落ち込んでいく。逃げ出したのに居場所ばかり探しているでたらめな人間。今さら思い出さなくたっていい…のに。
「まぁちょっと飲んで落ちつこうか」
「え?」
いきなりコップを突き出されて、慌てて夢から覚めた。
浜中さんだった。
なんだか後光が差していた。
「無理に飲ませない方がいいんじゃない? 顔色悪いし」
「何をいうか、これは身体にいいジンジャのーエールってやつだ」
「居酒屋に身体にいい飲み物があったらホラーだわ」
いつの間にか宮海さんも隣にいて、浜中さんにぶつぶつ言っていた。
…………。
こういう時、新入生はどうしたらいいのか考えようとして、やめた。
「あの…、さっきはすみませんでした」
「気にしなくていいって。うちの部長も似たようなもんだったし」
「途中で一分ぐらい黙ったからな、庭っちは」
「はぁ…」
蔑まれると思っていたのに、まわりはさっきまでと何も変わっていないことへの違和感。だけどそこで何かを考える余裕もなく、ただ注がれるままに飲んでみる。不思議な水は、飲めば飲むほどに私を落ちつかせる。とても危険だ。
浜中さんは、あの叫び声は大物の証だと笑う。
あんなみっともないことで慰められると、それはそれで首をかしげたくなる。けれど、部長さんも同じだったという事実には、思わずほっとする。
なぜほっとするの?
聞かれても分からない。
「後悔してる? こんな会に入って」
「い、いえ、そんなことはないです」
「本当にぃ?」
寄せ鍋をつつきながら、慎重に答える。
少なくとも後悔はしていない。それどころか私には、追い出されたらどうしようという不安しかなかった。
「季節外れの鍋に失望したとか?」
「いえ、それは……」
「なんだ、鍋は栄養のバランスがいいんだぞ!」
だけど、宮海さんの顔を見ていると、何か答えなければいけないような気になってくる。ふと見渡したら、村上さんもこっちを見ている。二人がかりで尋問だ。
「…皆さんがきれいで、気後れはしています」
「そうか、そうだろうな」
「浜バカは昔きれいだったらしいよ、自称」
「えーと…」
けれど、結局は浜中さんに茶化された。
目の前の二人に気後れするのは紛れもない事実。私だけじゃない。五十川さんもそう言っていた。当たり前だ。二人とも大学の有名人なのだから。
「とにかく、何かあったら相談してね」
「は、はい」
「庭っちに「責任とってください!」って叫ぶのはどうだ?」
「それ、絶対意味が違うと思う」
村上さんの突っ込みを聞きながら、うつむいて鍋をつつく。
みなさん、あの瞬間を忘れてないんだ……。
………。
…………。
それはとても恥ずかしいことだ。
なのに、覚えてもらっている。記憶に留められていることがとても嬉しい。たぶん今の私は浮かれている。
「やぁさっきは画期的な挨拶をありがとう」
「い、いえ…」
…と、部長さんがあらわれた。
私はそれだけでダメージをうけた、かもしれない。
「こいつはなぁ、庭田地蔵って異名をとったナイスガイだぜ!」
「それは単なる不幸な過去だ」
「…………」
思わず吹き出してしまい、慌ててごまかしてみる。
だけど、部長さんはどちらかといえば静かな人だから、それほど意外ではないのかも。
「クックック、庭っちの暗黒時代はまだまだ終わらねぇ」
「とっくに終わっとるわ!」
「いいや、俺たちが終わらせねぇぜ! なぁ宮サマ」
「アンタの仲間にしないで」
そしてまた始まったやりとり。
しかし一つだけ、さっきまでと違っていることに私は気づいてしまった。
部長さんの様子が変だ。妙に声が大きい。それに視線も定まっていないような…。
「ふっふっふ、俺を本気にさせたようだなサダジュン!」
「あー始まった」
「え? 何ですか宮海さ…」
「朗報ですっ!!」
「えっ!」
思いっきり耳元で叫ばれてしまう。
………。
おそるおそる覗き込んでみたら、私の方は向いていなかった。というか部長さんが見つめているのは、壁に貼られた「本日のおすすめ」だ。
「我らが不肖浜中準、カッコ通称バカ閉じカッコのストーカー被害にお悩みの皆さーん!」
「こらやめろ庭っち!」
我らが不肖って…。
「みんなで叫ぼう魔法の合い言葉!!」
「叫ぶなバカッ!」
「あ?、ヨ、ヨ、…ヨーコに言いつけるぞっ!」
そして部長さんは叫んでしまった。直前に宮海さんが止めたから、怯んでしまってちょっとだけ声が小さくなったけれど、もちろんその場の全員がこちらを向いている。たまたま通りかかった店員や、近くの席のお客さんも、見てはいけないものを見たという顔で。
…………。
とりあえずうつむいておこう。
私は関係ないです。ないですから。
「ヨーコさんをバカにしちゃいけないよね」
「うるせぇナオナオ、ヨーコはなぁ、もう終わった相手なんだよ」
「ふーん」
部長さんは相変わらず怪しい目つきでしゃがみ込んでいて、宮海さんは怒っていて、村上さんは冷静で、浜中さんはふてくされている。
もう何がなんだか分からない。でも、ヨーコさんはちょっと気になる。浜中さんのそういう話ってまったく聞いたことがなかったから…。
「で、相馬さんに提案だ」
「は、はい」
と、しゃがみ込んだままの部長さんが突然話しかけてきた。
ひとりでに背筋が伸びる。
「連休の二十九日に用はあるかね?」
「え?、い、いえ、今のところは何も…」
努めて冷静にふるまおうと、頑張って頭の中にカレンダーを描いてみた。描くまでもないけれど。
本当に、まったく予定なんてない。
でも帰ろう……とは思わない。
別に家出したわけじゃないけれど、自分は生まれた町を捨てた、そんな気分でここにいる。だから大学が休みになったら独りぼっちになるしかない。
「よし、じゃあ調査に行くぞ」
「なになに、デートに誘ってんの?」
「え?」
宮海さんの言葉に一瞬戸惑ってきょろきょろしたら、浜中さんも村上さんも笑っている。
………。
大丈夫、なのかな?
「英才教育ってやつだな」
「は、はぁ」
「選ばれし者ミエーソだ」
「何そのセンスのかけらもない名前」
浜中さんの呼び名だけは全面的に拒絶したい。けれど、それは要するにみなさんもう知っていて、……みなさん参加するってこと?
挙動不審になった私の前で、村上さんが雑炊を皿に盛り、私の前に置いてくれた。
「私たちも一緒だから心配はいらないと思う」
「あ、…はい」
ほっとして雑炊を一口食べ、それから慌ててお辞儀する。
村上さんの笑った顔を見ていると、落ちついていく私。いい人だなぁ。
「庭っちと準ちゃんは酔ってなければ安全無害」
「本当かなぁ」
だけどそこで宮海さんがつぶやいて、少しだけ村上さんの表情が変わった。
そして最後の会話に、私はついていけなかった。
「片方はいつか豹変するんじゃない?」
「博美の願望?」
「アンタの、でしょ」
※再公開にあたり一部を書き替えた。