(五) 宮海博美
「ごめんね、うちの曜日にしちゃって」
「しょうがないでしょ。部長さんの都合優先だし」
四月もいつの間にか半ばを過ぎた。
私たち三回生にとってもそれなりに忙しかったけれど、ゼミも決まったし一通り初回の講義は受けた。いつものような毎日が戻ってきた。
「で、博美はどう思った?」
「何が?」
「今の授業」
「うーん」
別のクラスだった直美とは、今までは般教ぐらいしか一緒に受ける機会がなかった。しかし専門科目が増えたら、ほとんど被ってしまった。ゼミも一緒。
…まぁ、ゼミはうちの部長も浜バカも一緒だけど。結局、レミタンとヒラブンは内容が被ってるということだ。
「文芸論の授業よりはマシ」
「それは極論すぎ」
「いいじゃない、直美はあれに耐えたんだから余裕でしょ?」
「うーん…」
四講目の社会学が終わって、二人で歩くキャンパスは相変わらず人が多い。出店がないぶん広くなったはずの通路も、ひっきりなしに行き交う学生たちで埋め尽くされている。この辺では有数のマンモス大学らしい景色だ。
肩掛けカバンを右側に背負って、上は似たような色のシャツ。だけど直美はスカートで自分はジーンズ。気が合う所もあれば合わない部分もある。
「今日はまだナンパされてない?」
「博美にされた」
「声かけてきたのあんたでしょ」
とりあえず、一人でいるよりは一緒の方が気楽だ。
直美は二年前の入学早々から声かけられまくりで、自分もわりと定期的に引き留められる。この大学は男子学生七割だから、そもそも需要のバランスが崩れている。彼氏がほしいなら是非入学すべきである…と、いない私たちが言っても信憑性がないか。
相手を選ばなければいいだけ? 声かける男は神様です? さすがの三波さんだってそこまでは言わないだろう。興味も湧かない見知らぬ男に「宮サマ」と声かけられて喜べるのは職業アイドルだけだ。
そんな時に二人で行動していれば、互いに逃げやすくなる。見え見えの打算が働いたとしても不思議ではない。
「なんでコーラなの?」
「博美はその質問百回はしてる」
「仕方ないじゃん。いつも新鮮な驚きだから」
春休みに改修された学食でコーヒータイム。まぁ直美がコーラだから半分コーラタイムだ。
性格はおっとり、見た目もお嬢様っぽい直美なのに、飲み物はたいがいコーラだ。それもペプシじゃダメだとか、こだわりまである。
ミスキャンパスにはそれぐらいの庶民性があった方がいいって? 直美は去年の一時期マヨネーズご飯にはまってた。正直、もうちょっとお高くとまってもいいと思う。
「ヒラブンは結局何読むことになった?」
「…堤中納言」
「とりかへばやは?」
「部長さんがどうも…」
以前より白っぽさが増した壁面。無駄に色とりどりのイス。リニューアル学食の印象は、ちょっと微妙。別に学食に多くを求める気はないけど。
少し離れた席には、何やらプリントを並べて話してるグループがいる。たぶんあれは受講登録の相談してる一回生だろう。たとえプリントがなかったとしても、雰囲気だけで何となく分かる。
いいなぁ、
自分たちもかつてはそうだったのに、いつの間にか学食の主のようにふんぞり返っている。人間はこうして年とっていく。
「直美は三回生…か」
「博美はもう二十一」
「何が言いたいの」
「年上のお姉さんだなって」
「直美は鼻水垂らしたガキだって?」
「ティッシュなら駅でもらった」
昨日が誕生日だった。レミタンの野郎二人にはババァ呼ばわりされたので、晩御飯おごらせた。もちろん南国なんて冗談じゃない。以前から気になってたお豆腐の店で三千円のコース。直美は自腹だったから、次は六月に払わせなきゃ…なんて。
「ねぇ博美」
「何よ」
「図書館で庭っちからかってく?」
「いい。昨日も邪魔したから」
明日のレミタンは部長の新歓発表で、そのまま宴会だ。部長を引き受けると漏れなくついてくるイベントだが、さすがに気の毒に思える。今さら新人が増えるとも思えないし。
…新人、か。
何もかも分かった気になって、年寄り顔で新入生に教えてる自分は嫌らしい。頼りになるお姉さん。作られたイメージを演じてる白々しさ。溜まっていくストレスは……、たとえば直美はコーラで解消する。そんな話あったっけ。
「だからね、博美もヒラブン出なさいって」
「…ちっとも脈絡ないし」
「意地張らなくたっていいじゃない、副部長さん」
「張ってないって」
どんな新入生だって、いつか上回生が聖人君子じゃないことに気づいていく。誰だって不安定。自分だって直美にやり込められて、だけど直美は同じような弱点を抱えていて、だからたぶん今は気を許してばかりいる。
だけど一つだけ否定しておこう。
直美といけない関係ということだけは、絶対ない。遠野の河童に誓ってもいい。あんまり価値ないか。