(三) 相馬美恵
本屋の自動ドアを抜けて、少し歩いた先の公園で一休み。軽く動揺している自分を立て直そうとカバンを開いたら、一冊の本のようなものが見えた。
……携帯用の市街地図だった。
もちろん自分でカバンに詰め込んだもの。大丈夫、ちゃんと思い出せる。けど、すっかり存在を忘れていたから意味がない。
「お待たせいたしました。まもなく205系統が参ります…」
せっかく思い出したので、開いてみようか。でも、こんな近所の公園に出掛ける程度で地図を開くのは勇気がいるかも。誰も私が近所に住んでいるなんて知らないだろうけど、そもそもここは観光地じゃないから不自然だよね……と、いろいろ言い訳を重ねつつ少し歩く。
やがて見えてきたバス停で、機械音声がバスの接近を告げている。とてもハイテク。だからちょうどいいや。乗る気もないのにベンチに座り、ついに閉ざされた世界は白日の下にさらされてしまった。
それは入学式の日の帰りに買ったものだった。
この町で初めて買った本にはたくさんのページがあって、そのどれにも細かく道が載っている。とりあえず買った晩にパラパラとめくって、それから数日の間はカバンの中にあって、いつの間にか部屋の隅に埋もれていた……。
地図は何のためにある?
たとえば、ふわふわ浮いてる自分の座標を示してくれるもの? それはそうかも知れないけど、ふわふわ浮いてるなら座標なんて無意味だ。
「お待たせいたしました。まもなく204系統が参ります…」
そんな地図に、時々蛍光ペンでラインが引かれている。ピンクの細いライン。もちろん、それを引いたのも私自身だ。
生まれ育った町を初めて離れた三月の末に、私は目標を立てていた。
一つは、地図を買うこと。
それから、歩いた道を地図に書き込むこと。
別に、書き込むことが何かのためになるとは思わなかったけれど、どうせ何をしていいのか分からないから、気休めぐらいにはなりそうな気がした。
「52号系統です。整理券をお取りください。52号系統です。整理券を……」
目の前でバスの扉が開き、相変わらず変化のない音声が流れてくる。たたみかけるように流れるその音に、だんだん気まずくなった意識は自然に地図へと逃げていく。何も頭に入らないけれど。
やがて扉を閉めてバスが去っていくと、私もベンチを立った。次のバスに耐える自信はなかった。
ふぅ…。
ため息をついて、また地図を見る。バス停のマークの記されたこの地点に、マークは引かれていない。一瞬考えて、もう一度ため息をついて、地図を開いたまま歩き出す。
今日のカバンにマーカーは入っていただろうか。取り出した記憶もないし、最後に使った時からずっと、どこかに埋もれているに違いない。たった一ヶ月の薄っぺらい地層のどこかに。
「へーらっしゃいらっしゃいらっしゃい!」
「すみびぃやきにくぅ」
学生向けの店が並ぶ一角を通りすぎる。
目当ての学生はいないけれど、音だけは鳴り続ける。要するにこの呼び声は、たとえば私という個人に対してのものではない。私も四月からは含まれている、「学生」というカテゴリーへの呼びかけだ。
当たり前じゃないか。
テレビショッピングだって、テープの呼びかけ声だって、自分のためじゃない。何を期待していたんだろう。ただそれは、私が聞いても叱られない、それだけなのに。
「あなたとわたしのしーじーしー」
吸い込まれるように潜り込んだスーパーで、さらに激しい音の洪水と出会う。
もちろんどれも、私が聞いていい音たち。気後れせずに済む音たち。誰の声なのか、いつの声なのか何も分からないけれど、少なくとも自分の声じゃない音たち。
買い物をするわけでもなく、店内をうろつく。もう見慣れた食料品売り場をうろうろ、そして階段を昇って……。
そこには未知の空間があった。
天井の低い空間にはあまり人がいない。その代わりに衣料品が並ぶ。いくら気の迷いが起きても、大学生は買いそうにない服ばかり。なんて無意味な旅。
…なのに今の自分はちょっとはしゃいでる。
だって私はレミタンの新入部員だ。眠り続けていた地図を、昨日の夜に探し出したのも、そんな自覚が生まれからかも知れない。ちょっと盛り上がり過ぎだ。そろそろ帰ろう。どうせ食べ物を買うついでなんだし。
「たすけーられたりたすけたりー」
再び食料品売り場へ向かう。
が、階段を降りた目の前には、コロッケが並んでいた。
揚げたてのコロッケ。都会ではそういうものを食べるって、テレビで見たことがあった。私の家では買い食いは厳禁だったし、かじりながら歩くような空気もなかった。
「………」
「いくつ?」
「え?」
「………」
慌てて顔を上げたら目があった。
そうだった。ここはスーパーに同居する惣菜屋だから、ぼんやりしていてはいけないのだ。ああどうしよう…。
「…み、三つ」
「おーきに」
三つも食べられるはずがないのに。
頼みながら後悔する自分がいる。なんて器用なんだ。
「はい二百四十円」
「………」
皺だらけの手にぶら下がったビニール袋を受け取って、うなずきながらうつむく私。
うつむくのは財布の中の小銭を探すから。そう。無理矢理な言い訳だ。二百四十円。大丈夫、財布は忘れてないから――――。
「どこから来たの?」
「え?」
一瞬、息をのむ。
別に何も難しくない。
自分に言い聞かせて、それから表情に気をつける。
「学生さんでしょ?」
「は、はい」
「………」
百円玉が二枚。
十円玉は…、四枚あった。
「えー……っと、と、東北です」
「あら遠いのねー」
「はい、…まぁ」
震える手でお金を渡した。
そしておばちゃんは受け取って、額を確認した。
別に、それだけの話だ。
「おーきに」
「あ、ありがとう」
コロッケ三つ分の重みを加えたカバンを抱えて歩き出した私は、スーパーの出口で立ち止まり、ベンチに座った。そしておもむろに地図を開く。
そんな自分の姿がとても可笑しくて、一瞬頬がゆがんで、気を取り直してさらにカバンを探る。蛍光ペンはきっと見つかるだろう。これでもレミタン部員なんだから。
そしてもう一つ目標もできた。
次は絶対に「東北」なんて言わないこと。私はそんな、どこか分からないほど広い場所から来たわけじゃない。
真新しい線が光る地図を閉じて、再び歩き出す。次の行き先は自分の部屋だ。幸いここは、コロッケの冷めない距離だった……って、そんなことは地図を見なくたって分かるよね。




