(十二) 宮海博美
その昔。
匂い。
嫌な匂い。
ヤニとコーヒーの入り混じった匂い。
私の嫌いな匂い。
「浄土教ではお金を功徳と言うそうな」
「ふつうに賽銭って言えばいいでしょ」
「宮サマは俺をイヤミな奴だと言いたいのか」
「アンタがイヤミじゃなかったら誰がそうよ」
思い出す必要もない連想ゲーム。今の私たちを包み込んでいるのは、モクモク白煙をあげる線香のエキス。幸せの青い雲かどうかは定かでない。
ぐるぐる回るお百度を、ついさっき目撃した。ついさっきどころか、今だって振り返れば見える景色。けれどそんな衝撃の光景をほんのわずかの間に忘れて、どうでもいい記憶に転換する自分がいる。この性格は損だと思う。
「…って、縁結びかよ」
「準ちゃんモテるのにねー」
「うるさい、買ってこいって頼まれたんだ」
でも、それはこの景色に対する過大評価にすぎないのかもしれない。過大評価の積み重ねこそがレミタンなのだと言ってしまえばそれまでだけど。
とりあえず、女子学生が三人もいるという一行で、縁結びのお守りに手を出したのはバカ野郎だった。衝撃の景色を引きずる気配など、どこにもありはしない。もちろん男が手を出したぐらいのことを衝撃とは呼ばない。
「と、撮るんですか?」
「当たり前でしょ。記録係なんだから」
「はぁ」
衝撃的ではない、ありがちな買い物風景を撮影する私を見て、相馬さんはまだ本気で驚いている。自分だって入部した頃はこれぐらい純真だったはず……なんて言い出したら、彼女を孤立させてしまう。
いくら英才教育といっても、入部したばかりの女の子を一人だけ呼ぶなんて、やっぱりおかしい。大物新人って言葉でごまかして済むものか。
「よし、じゃあ俺と記念写真だ」
「バカと一緒には写りたくないって」
「宮サマは私情を挟むな」
「なんの私情だって」
お守りを真ん中に、佐多山バカと相馬さん。まるっきり無意味。でも文句は言いつつ撮る私。
なんだって現代思想。サブもメインもどうでもいいから。
「次は私とー」
「ほい」
「あー?」
そして直美には試練を。相馬さんと二人で写るつもりだろうが、そうは問屋が卸さない。この表現は古い。
無理矢理浜バカとツーショット。
ありそうでなさそうなツーショット。
たった五人でも組み合わせは結構豊富。私は外れるから四人だけどね。
それにしても、楽しそうなみんなの顔。こんな景色は衝撃的かなぁ。そうでもないか。最初から楽しむつもりで来て、期待通りの成果を上げた。そう考えるなら、いつまでも渦ばかり面白がっている方がおかしい……のかな。小湊先生のように頭が回らないから、考えるほどに混乱する。
こういう時は一度整理する必要がある。整理というか、忘却。ちょうどいい具合に目の前には、私の気を散らせる男がいた。この部長という人間は、たぶん私より少しだけ先に進めているんだろう。
「庭っちはトリップ中だ!」
「庭っちを止めなきゃ」
「いい。どうせバカだからね」
副部長は気楽な稼業。
困ったら部長のせい。横から適当に口だけ挟めばいい。
「いや、そのりくつはおかしい」
「なんだ、もう終わった?」
頼りなく漂流する部長が帰還すれば、旅は終わりに向かう。半日をかけた旅路も、帰ろうとすればほんのわずかな時間。みんな疲れてきたから、途中の寄り道もほとんどなし。直美がダラニスケ買ったぐらいだった。
気がつけば時刻は午後三時過ぎ。相変わらず休日の観光地は人であふれていて、なのに占い屋のおばさんたちは人待ち顔。通過人数を考えたら、あまりに流行らなすぎなんだけど、一人捕まえればそれなりの時間は食うのだし、そんなものなのだろうか。
ともかく、何も気にしなければここは曲がりくねった路地に店が並ぶ町並み。そんな当たり前のフレーズで済むような、どことなく古くさくて、行き交う人々も年配が多い光景のなかを先頭ですいすい泳いでいく。我らが部長は。
人混みの隙間を縫うように進む部長は、最早左右など見もしない。
こいつは案外飽きっぽい。熱しやすくはないけれど冷めやすい、わりと厄介な性格だ。
「発車まで八分!」
「言わなくたって分かるけど」
目の前を電車が通っていったから、十分おきの次の電車までわずかな余裕。
こんなにあっさり帰っていいのかな、と思いながら後ろを振り返る。
私たちの一行以外の人たちも、なんとなく帰り支度。まぁここは駅なんだから当たり前か。
「では部長より挨拶を」
「む、やっぱり俺か。佐多山のナイスガイじゃダメか?」
「部長の仕事でしょ!」
怒鳴りつけて、ちょっと我に返って相馬さんの顔を覗く。乱暴な女だと思われたら、さすがに悲しい。少しだけ反省してみる。当の彼女がどう感じてるのか、表情からはうかがえないけれど。
ただ……、私にも言い分はある。
そもそもこいつは自分でしゃべる気満々なのだ。誰にも譲る気がないのに、嫌がってるふりだけしている。いずれ分かってくれるよね。はぁ…。
「今日はお疲れ様でした。とりあえず反省会は……、ダメなんだっけ?」
「準ちゃんはお守りあげるんだよねー」
「直美はそうやって傷口に塩を塗るから」
「まだ疑ってんのか!」
そうしてレミタンは帰路につく。
通勤用電車の中で居眠りするのはカッコイイ女のすることではないと、意識していた過去が頭をよぎる。そんな隣ではミスキャン女が、コーラを手に目を閉じている。お互い、いびきが聞こえたら叩き起こす契約を結んでいるが、どちらかが起きていなければならないのは理不尽だ。
田舎のそれとは違う、スムーズな加速音に耳を澄ます。
ガタンガタンという振動がたまにしか起きない理由を、クラスの鉄道好き男に教えてもらったのは、もうだいぶ前だった。というか、そいつには「ジョイント音に注目するなんて素質がある」とか言われながら告白されて、一秒逡巡して断った記憶もあった。別に思い出す必要もなかった。
薄暗い車窓から、視線は吊り広告へ。
たぶん一生行く機会のなさそうな百貨店のセール。交通費さえあれば自分の意志で行けるのに行かないのは、大人になったから。なったから? まぁ私は二十歳過ぎてる。どうでもいい話で、無駄に思い出した過去を頭から消そうとする。
ちなみに、一秒逡巡したのは迷ったからではない。一度でも親切に教えてくれた相手と、この後どういう関係になるだろうと思った。それだけである。
結局、若干気まずい感じの時もあったけれど、今はごく普通に接している。同じクラスだから嫌でも顔を合わせる機会はある。出来れば他の子とうまくいってほしい。別にルックスも性格も保証はしないけれど、マニアにはマニアの魅力があるに違いない。自分は鉄道マニアよりもマニアな部の副部長なのだし。
「ぐぁー」
「なんだ庭っち、もう終わりか」
「何をサダジュン、俺の本気はこれからだ」
「席取りダッシュはみっともないって知ってた?」
乗り替えの混乱――単にバカが目を覚ましただけ――で一瞬かき回された空気は、また落ち着きを取り戻していく。残り時間は三十分。三つ確保出来た席に直美と相馬さんを座らせて、最後の一つにはじゃんけんの勝者。二人は一応、私に譲るつもりだったんだろうけれど、なんとなく最後の電車では立っていたいと思った。
動き出すロングシートの電車。
さっきと大同小異な車内は、さっきよりも多少にぎやかで、それでも座った三人はすぐに眠りに落ちていく。バカはともかく、直美と相馬さんが眠るとほっとする。相馬さんはきっとストレスを感じていただろう。こんな同級生四人に放り込まれたら、普通は逃げ出したくなる。まぁ相馬さんは大丈夫そうだけどね。
それにしても……。あか抜けない部分もあるけれど、相馬さんは直美と並んでも遜色ないよねー。きっとこれから大変だろう…と同情したりする。大きなお世話だ。
そういえば、直美と私の両方に告白した男が、今までに三人いた。初対面の相手だから、二人の性格の違いは最初から問題じゃないんだろうけど、見た目だって似てはいないのだから、なぜだろうと不思議だった。
で。
二人で相談した。告白から逃げる相談ではない。そんな相談しても無駄だし。二人のどっちでもいいっていうのは、いったいどういう趣味なのか。それを誰に聞こうか相談した。その結果、とりあえずバカ…というか浜中準に聞いてみた。一応物を尋ねた相手をバカとは呼ばないでおこう。聞いた自分もバカなんだし。
浜中準の回答は明快だった。記念受験みたいなものだ、と。
友達としゃべってるうちに盛りあがって、その勢いでとりあえず告白して、断られたらまた友達に報告して盛りあがる……と、聞いてるうちに腹が立ったので蹴った。どの辺が物を尋ねる態度なんだ。でもたとえ相手がふざけていようと、こっちはそのたびにストレスためているのだ。無差別に攻撃されるロールプレイングゲームみたいな毎日なんて、冗談じゃない。
相馬さんも、誰か護ってくれる仲間が必要だ。五十川さんは…、ちょっと頼りなさそうだなぁ。フォロー出来る範囲では私たちもどうにかするけれど、一回生とは全然生活サイクル違うから…。
「宮サマは帰省か」
「えっ? あ、うん」
「俺は今、人を驚かすような質問をしたのか」
「突然話しかけるからでしょ」
ふと周りを見渡すと、直美は目を覚ましてこちらを見ていた。瞳が輝いてる。非常に良くない傾向だった。
それにしても、帰省…ねぇ。
じいちゃんが寂しがるから帰って来いと電話があった時、一瞬迷った自分を思い出す。今はバイトもしてないし、お金がないから出かける予定もない。まぁお金があっても出かける予定はないけれど。
「博美もうちに来たら?」
「仕方なく聞いてあげるけど、何のために?」
「一緒にいたら楽しいから」
「却下」
どうせ部屋を掃除する気もないのだから、さっさと帰省すればいいのだ。たとえ直美と親しくとも、親しくない家族と一緒に過ごすよりは、自分の家族と一緒の方が自然なのだ。分かりきった結論に至った時、もう電車は終点のホームに突入していた。
駅前広場に出て、部長の顔を見る。
挨拶はさっきしたから、ここでは特に何も予定していない。しかし部長は黙って立っている。何かしたくて、けれど何をやっていいか思いつかない、そんな状況だろう。
「よし庭っち!、ここで一枚だ」
そこにナイスな助け船。
別にナイスじゃないけれど、なんだかんだ言ってバカ二人は以心伝心だった。
「またぁ?」
「いやいや、思い出は多いに越したことはない。なぁ相馬さん」
「えー…」
「アンタ後輩を便利に使いすぎ」
コンクリ塀の上にカメラを置いて、五人並ぶ。記念写真はなぜか部長の仕事。別に私の腕に不満があるわけじゃない……と思う。おそらく。
というか、もうニヤニヤしてこっちを見ている。
結局、こいつの目的はワンパターンなのだ。
「しかし何だな」
「何となく思っただけなら言わない方がいいわよ」
「まぁそう言うな」
カメラを向けながらにやつく男はどう見ても不審者。しかし既に私は相馬さんの隣でポーズをとらされていて、うかつには動けない。
「いたいけな少女が両腕をつかまれているかのようだ」
「急げよ庭っち!」
「心配するなっ…と」
突然のシャッターに驚いたふりをする、部長のくだらない芸を見終わった瞬間、私はポーズをやめてその芸人の側に近づく。
隣に並べば、少しだけ見上げる関係。
でも今は見上げる必要がない。なぜなら会話は不要だから。
「言いたいのはそれだけ?」
「うむ、他愛のない話だ」
「私はまだ少女のつもりだけど…」
「話をややこしくしないでよ、直美」
「いだだだ…」
回し蹴りは、羞恥心さえなければ楽な技だ。
高校生の自分には出来るはずもなかった。そんな過去すらあり得ない嘘のように、しなやかな脚の動き。自画自賛しても仕方ないのに。
とりあえず、相馬さんをダシにして我々をからかっても、結局は相馬さんに返ってくるだけ。そういう真似をやらかさないよう、きっちりしつけてやらないと。暴力はしつけの敵だけど。
「きょ、今日は一日ありがとうございました。では私はこれで…」
「おう、気をつけて帰れよ」
「すぐそこですから」
そうして解散の時。
後ろ姿の相馬さんに何かを言いかけて、やめた自分がいた。
たぶんそれは嫌な自分だ。
「じゃあねー、博美」
「気をつけて帰ってよ」
「送って」
「知るか」
いつもなら一緒に帰る直美とも、今日はお別れだ。直美はこのまま実家へ帰省。どうせ月に一度は帰ってるんだし、荷物の用意もしないで今日のお土産持っていくだけのお気軽なやつを、帰省とは呼びたくない。でも、いなくなればちょっと寂しい…かも知れない。
「宮サマよぉ」
「何」
もっとも、私だって明日には帰省する。遠すぎて帰るに帰れないこいつが、一番の貧乏くじなのかも。そんな感じには見えないけど。
「反省会やるか?」
「アルコール抜きで」
「ウィ、サバビヤン」
駅前の商店街はいつもと違う客層で賑わっていて、なんとなく肩身が狭い。
もっとも、そんなことを口にすれば、「学生はいつだって肩身が狭いだろ」とか言うのだろう。こいつは。
「南国は…」
「閉まってるでしょ!」
バカな提案を一言で却下しつつ、その薄汚い店の方向に歩く自分がいる。私の部屋はそちらにある、という言い訳も可能。でも、学生は学生の住む場所に帰っていく、それだけのことだと思う。
やがて大学へと続く坂まで来て、二人で顔を見合わせて、登らずに通りすぎる。一日歩き続けたから、結構へばってる。
「おお、我らがオアシス」
「そのまんまじゃない」
すぐに明かりが見えた店に、吸い込まれるように入る。
数えるほどしか入った記憶がなくとも、人の気配のない学生街のなかでは砂漠のオアシスだった…では隣と一緒じゃないか。自己嫌悪。
「相馬さんも楽しんでくれたかなぁ」
「楽しんでたでしょ。あの子は大物だわ」
「宮サマ以来の怪物か」
「誰が怪物だって?」
窓際のソファーに座った途端、吸い込まれるような感覚。地面よりも深く、どこかへ落ちて行くような…。
やっぱり自分は疲れていた。今さら確認するほどのことじゃない。すぐに運ばれてきたコーヒーを口にしながら、ため息をつく。吐いた息の向こうには、もう一人の腑抜けの顔も見える。夕方の喫茶店にはくたびれた景色が似合う。
「反省点は……、やっぱり相馬さんしか誘わなかったことでしょ」
「ほほう」
「ほほうって、それって他の新入生が気を悪くするじゃない」
「ふむふむ」
カップを手にしたまま、壁の油絵を数秒にらんでみる。
部長のふざけた反応には、時々本気でムッとすることがある。たとえばこの瞬間のように。
「宮サマに豆知識だ」
「………」
なのに、そんな私の苛立ちを見透かしたように、こいつは勝ち誇った顔、そして勝ち誇った声。
ああそう。そうですか。行き場のないムカムカは、コーヒーで晴らすしかない。
「一応、全員に声はかけたからな」
「ふぅん」
「どうだ参ったか」
「はいはい」
まともに返事するのも腹立たしいので、さっきのお返しで済ます。でも私の負けだ。完敗だった。
まぁ目の前のこの部長は、どうしようもないバカ部長だけれど、私が気付く程度のことが分からないほどどうしようもないバカでもない。残念ながらそういう意味での優越感は抱けない相手。
もっとも、そんな優越感を抱けるやつとは仲良くしたくない。ストレスたまるだけだから。
「それに、帰省するアテもないならいい暇潰しだろ?」
「自分に言ってんの?」
「宮サマは裏切ったからな」
三時間と十時間の差は小さくない。その言い訳を知っていながら痛いところを突いてくる。図にのせてしまったかもしれない。
あっという間に温くなったコーヒーで、また気を紛らわせる。当の相手の前で紛れるほどの、どうでもいい緊張。私はたぶん……、そんな時間が嫌いじゃなかった。
「一週間ぐらい帰ってんのか?」
「三泊四日」
「交通費が勿体ないじゃねーか」
「余計なお世話だ。アンタもバイトぐらいしなさいよ」
「ふっふっふ。ちゃんと入れてある」
「え?」
ようやく落ち着きかけた時に、意外な展開が待っていた……よ。
この無精な男がバイト?
思わずまじまじとその顔を見てしまった。
「ちょっとガイドをやってくる」
「はあ?」
「こちらが南国でございむぁーす、てな」
「まさか」
面白くもない冗談を聞き流しながら、思い出した。そういえば、卒業した黒森さんがそういう会社に勤めてるんだった。
もちろん観光地にはり付く学生ガイドじゃなくて――こんな不機嫌な顔にガイドされても楽しくないだろう――、ガイドブック用の取材。
もうそんな話になってたのか。
ちょっと予想外の展開に焦ってしまう。
「宮サマにもいずれ話があると思うぞ」
「…こんぴら案内ならいつでも出来るのに」
「たまにしかいない奴には頼まんだろう」
そこでまたムッとする。
こいつは言わなくていいことばかり口にする。
「まぁともかくさらばだ宮海博美」
「フルネームで呼ぶ意味は?」
「語呂がいいから」
「あっそ」
いろいろ腹が立つけれど、今の自分はこいつに立腹するような立場なの?
よく分からないから嫌がらせ。五月になればまた、自慢話を無償で聞かされるはずだから、少しぐらいいよね。
「またね、よっくん」
「その呼び名、さっさと忘れてくれ」




