(八) 相馬美恵
前の日の晩は午後十時に寝た。
正確に表現するならば、午後十時にふとんにもぐって、それから眠ろうと努力した。かなり長い間、努力した。ありていに言えば、緊張していた。
「いいかミエミエ、もうすぐ見えるのだがなぁ」
「美恵ちゃんはそれでいいの?」
「えーと、……あんまり良くないです」
両隣には大学の有名人。今日も目のやり場に困るほどきれい。目の前の二人もいろんな意味で人気があるらしい。普通なら気後れして当然の環境で、向かう先は名前も知らなかった観光地。
だから私はレミタンのエリート候補?
まだ何もしていない。候補になるはずもない。せいぜい、お食事会への出席がいいだけだ。
お食事会の飲み代はほとんど上回生に払ってもらっているから、少なくとも家計は助かる。仕送りだけで成り立っている家計なんて、ままごとみたいなものだけれど、お金には限りがあることを、生まれて初めてリアルに感じているから。
今日もちゃんと予算を組んだ。往復の交通費、お昼ごはん、その他。入場料は特にかからないらしいけれど、三千円でおさまるかどうか怪しい。相馬家の家計にとってはかなりの痛手である…なんちゃって。
「役行者がおるぞ」
「宮サマ、カメラカメラ!」
「急かさないでよ」
ぱたぱたと走り回る皆さんの後を必死に追いかける。レミタンは体育会系だった。知らなかった。
村上さんも遅れ気味なのは、ヒラブンの人間だから一歩ひいている? よく分からないけれど、きっと肉体派ではないと思う。それを言ったら部長さんと浜中さんも……。
「記念写真撮るか?」
「ここで撮らなくてもいいよねぇ、直美」
「え、…うん」
先月、私は教室の長テーブルの上で眠る人を見た。わりとショッキングだった。椅子を並べて横になる浜中さんが行儀良く見えたぐらいに。
普段のレミタンは、なるべく動かないことを目指しているとしか思えない。悪くいえばグータラな会。しかしそれは今日のような場面で俊敏に動けるように準備していた……ら怖い。まさか。
真ん中に座らされての記念撮影が終わると、もう今日の予定は終わりのような気分になる。写真を撮られたのはいつ以来だったろう。高校の卒業式で友だちと撮り合ったから二ヶ月ぶりか。たいしたことなかった。
あの時は遺影に使うと言って笑っていたかも知れない。もう覚えていないことに今気づいた。今こうして駆け足で路地を抜けていく記憶は、いつまで残るだろう。
「だんご三兄弟だぞ、ナオナオ」
「古っ」
「四兄弟ですけど…」
「ぬ、やるなミエミエ」
思わずツッコミを入れてしまい、はっと我に返った時には褒められていた。このままではミエミエになってしまう。
だけど、茶店で立ち止まってしまう皆さんを見て、少しだけほっとする。
いつものレミタンだ。
……いつもなんて知らないのに。
「五平餅は要らないのか!?」
「自分で買えバカ中!」
生まれた町とは違う空気を吸いながら、ずる賢い自分を呼び起こしてみる。
だけど間近でおしゃべり中の団体に気押されて、ダメな自分に戻る。ほんの一瞬だけ本日の予算を忘れた。ただそれだけ。
「ところで相馬さん」
「は、はい」
急に声をかけられると、まだ緊張する。
でも…、だいぶマシにはなったかな。
「探検は好きか?」
「え?」
「あ!、あれは何だ!!」
「えっ!?」
部長がいきなり立ち上がって叫ぶので、慌てて指さす方向を見た。
………。
浜中さんが五平餅をかじろうとして固まっていた。
「まだまだ修行が足りんな」
「バッカじゃないの」
「いえ…」
単にからかわれただけと気づくまで、数秒かかった。
この数秒は、相馬美恵の頭の中では数十秒にも思えた。たいしたことないな。
「キミはまだ探検が分かってないな」
「…は、はい。………たぶん」
部長は酔うと「キミ」と呼ぶ癖がある。さっきまではそう思っていた。
もしかしたら、もっと深い意味があるのかも知れない。
「たとえばだ」
「はい」
「その五平餅は、あそこのバカと二人しか食ってない」
「は、……はい」
「なぜだ」
「え?」
部長はとりあえず真顔だった。
何を聞かれているのか理解出来ないので、誰かに助けてもらおうと目を泳がせてみたが、あいにく頼りとする二人はよそを向いている。というか、隣のおばさんたちの声が大きくて…。
「あのバカは地元民だ。従って他人より上を行かなくてはならない」
「はぁ」
「だから五平餅だ。相馬さんはなんだ。異星人だから珍しくて…」
「今までと違いすぎて、異星人みたいな気分なのは確かです」
「そ、そうか」
ああでも、私は焦っていた。それだけは分かった。
もう一ヶ月間を過ごしている六畳の部屋の中でも、まだどことなく残る浮遊感から、どうにかして逃れようとしている。今日のこの場でも。
ここでは誰も落ちつかない、落ちつく必要はない。だから楽しい………探検。
「父親は歌手だった?」
「そんな事実は……、ないと思います」
「はぁ」
そうして一度上昇した気分は、浜中さんの歌からまた下降していった。
浜中さんは何も悪くない。むしろ、あんな歌ともいえない歌をこの地で耳にしたことは、感動的ですらあった。
でも、なぜ笑ったんだろう。
思い出したくもない親の話題で、なぜ最初の反応が笑顔なんだろう。自分のことが分からなくなって私は目を泳がせる。それがこの場で望まれた反応ではないことはもちろん知っていたし、できればやめたかったけれど、五平餅を食べながらでは無理そうだった。




