(二) 宮海博美
………。
何か不快な夢を見ていたような、そんな後味の悪さとともに目が覚める。
身体の節々が、まだだるい、寝ていたい、とつぶやいてる。だからぐっと腕を伸ばし、無理矢理その叫びをおさえて跳ね起きる。
時刻は朝の七時半。窓から射し込む光はゆらゆら揺れて、その先端は足元に届く。散乱する衣服。そして乱雑に積み上げた本とプリント。それは覚めない悪夢だ。
洗面に向かい、歯を磨く。歯磨きはサンスターのガムと決めている。歯周病は許せないし、白い歯でい続けたい。父親の総入れ歯への嫌悪かも知れない。
無地のシャツにジーンズ。いつも同じなのは、単にあれこれ悩むのが面倒くさかっただけだ。スカートなんて柄じゃない。お嬢様になんてなれやしない。そんな言い訳だけはいつも用意してる。
この世界はすべて嘘だから。
昔聞いた言葉が、今の自分を生かしてる気がする。
一歩部屋を飛び出せば、私は私でなくなっていく。
出逢った沢山の友だちや後輩は、私のすべてに知らない説明を加えて、いつの間にか見たことのない自分が造られていた。私自身が知っている自分とは一番遠い自分を、やがて演じなければならなくなった。
それがなぜなのか、私にも判らない。
ただ私はその知らない自分にあこがれていた。それが手に届かない虚像なら、なおさら魅力的だった。
銀杏の木に囲まれた自転車を止める。キャンパスは四月初めの異様な空気。散りかけた桜の花より、これから伸びる緑の方が落ちつける。
………。
急に詩人の真似をする自分がおかしくて、歪んだ顔を隠そうと見上げた先には体育会の横断幕。現実に引き戻すには十分な威力だ。歩幅を広げ、そして背筋を伸ばして、やや右手奥の建物を目指す。
「おはよう」
「宮サマ登場っ!」
ぐ…。扉を開けたとたんにこれだ。
「やかましいっ! たまには爽やかに挨拶しろ!」
「ふっふっふ、それならしてやろう」
「するなっ!」
「どっちなんだ」
疲労感とともにカバンを置く。
レミタンに部室なんて立派なものはないから、学生の共同研究室が集合場所。そこには二年の子が二人と浜中こと浜バカ、またはバカ中がいる。
まったく、バカのくせに朝は早いからよけい腹が立つ。単に自宅生だから、親に叩き起こされてるだけだと知っていても、キャラに合わないから腹が立つ。
「部長は?」
「いるわけねーだろ」
「あっそ」
そりゃあ、確認するまでもないことは判っているけど、一応副部長の責任だからね。
部長はたぶん、あと十分ぐらいで来るだろう。たまに寝過ごすから油断ならないけど、そうでなければ集合時刻ギリギリから五分遅れと決まっている。
とにかく、待っててもしょうがないので、いるだけのメンバーで打ち合わせ。今日も出店で客寄せするだけだから、あとは各自抜けなきゃいけない時間を確認する。二年のオリエンテーションと、あとは講読の予備登録に健康診断。二年は二人そろって他のサークルと掛け持ちだから、その辺の調整も。
ま、あっと言う間だ。私に出来ることなんだし、部長の手を煩わすことはない、と言い訳。
「遅れたっ!」
「知ってる!」
「それは良かった」
用件が済んだ頃に主役登場。寝癖だらけの頭で、よれよれのカバンを肩から下ろす我らが部長だ。
「で、部長」
「部長って呼ぶな」
………。
「痛ぇ」
「気のせいでしょ」
「宮サマを怒らせるとは、さすが部長だぜ」
「うるさい!」
部長は部長。いい加減認めようとしないコイツには時々本気で腹が立つ。時々というか、毎日かも知れない。
このわずかな遅刻だって、たぶんわざとやっている。そんなことに気づかないほど鈍くもないし、気づいてもらえないなら明日から時間通りに来るだろう。
「で、今日の目標は何ですか?、部長」
「ナオナオに負けないスマイル」
「そりゃ無理だ」
「アンタは黙ってろ!」
まだつかまえた新入生はたった一人。そりゃまぁ、楽しく遊びましょうサークルじゃないから、十人や二十人は期待出来ない。でも一人じゃ存亡の危機だ。だいいち、その一人はすごーく頼りなさそうで……。
「ひとまず一人一殺を方針とする」
「不穏な表現使わないで」
「何言ってんだ、悩殺とか言うだろ」
「言うけど言うな」
ここで下手に同意すると、新入生にウインク攻撃しかねない。この部長様はやる気がないようで、何の躊躇もなくバカなことを始めるのだ。行動力がないようであるから、程々にセーブさせなきゃいけないのだ。
でも、そんなヤツだから部長になった。そして自分は抑え役の副部長。悪くない組み合わせだと思うのだ。
「おはよ」
「うん、おはよう博美」
昨日より少しだけ静かな5号館前。いつもの位置に長机をセットしたら、とりあえずご近所まわりに出掛けておく。
………。
私を名前で呼ぶ人間は、学内に一人しかいない。去年秋のミスキャンパスだ。
「部長さんは?」
「四回生は忙しいから」
「そっか…」
二人でぼんやりと校舎を見つめる。単にヒラブン部長がいそうな方向というだけで、深い意味はないけれど、そういうくだらない瞬間に同じ行動をしてしまう。あっち向いてホイで負けた気分だ。負けたのは直美かもしれないけど。
「庭っちは遅刻しなかった?」
「した」
まぁいいや。浜バカとハモるよりはマシだ。
直美の周囲には二回生が二人。どちらも文庫本を読んでいて、勧誘に精を出してる感じではない。
ヒラブンの部員はだいたい大人しい。部長さんも大人しい――というか多少不気味な人だから、バカ中みたいな騒がしいヤツは入らないだろう。ウチの部長が言うにはお通夜みたいな会。あまり内容がかぶらないにも関わらず、互いにライバル視するのが伝統らしい。
そういえば、おとといヒラブン部長に会った時は、「直美にさっさと譲りたい」と言っていた。実際、三回生で頼りになりそうなのは直美ぐらいだし、さっさと引き受ければいいのにと思う時はある。
けど、それを私が言うのはどうなんだろう。部長はやはりそれなりに忙しい。体よく逃れた自分に、直美のことをとやかく言う資格はなさそうだ。
「今日はなぁ、二人ぐらいつかまえろぉ、って感じ?」
「違う違う、一人一殺を方針とする」
「残念」
二人で男の声を真似る姿は、とても他には見せられない。だいたい、ちっとも似てない。直美は意外に声が低いから、まだマシかなぁ。
「ヒラブンは目標何人だっけ?」
「一応…、四人ぐらい」
「もう達成したわけねー」
「…すぐにやめなきゃね」
くすっとほほえむその笑顔で、直美は男女を問わず悩殺……じゃない、惹きつける。人種が違うんじゃないかってぐらいの美人に声を掛けられたら、たいがいの新入生は立ち止まる。それで四人しかつかまってないんだから、いかに不人気なクラブか分かろうというものだ。
「そっちは一人入ったんでしょ?」
「部長が無理矢理捕獲したんだけど」
「けっこう可愛い子だって聞いた…」
「可愛い?」
自分の声が裏返ったことに気づく瞬間、騒がしい図書館裏の木陰で、直美は遠い目をしている。やれやれと一度ため息をついて、それから頬をつねってみるのだ。
「痛い…」
「あんたはすぐ勝手な物語に逃げるから」
「ん…」
何もかも正反対という評価の直美と自分が、結構似た者同士だってこと。
気づいてしまったのはいつだったろう。
たぶん………。
「庭っちにはあと二人ぐらいつかまえるよう言っといて」
「言われなくとも部長は大活躍の予定だから」
「博美」
「え?」
そろそろ出店に戻ろうとした瞬間、腕を捕まれる。
公衆の面前でスキンシップをはかるのはやめてほしいと時々思う。
「庭っち解禁予定日は?」
「鮎の友釣りよりは遅いでしょ」
予定調和の台詞を吐いて、戻ろうとする先では我らが部長と会計が踊っていた。今から怒鳴ってやめさせて、それからあの不気味なダンス――きっと名前はレミタン踊りだろう――について議論して、そんな不毛な未来の先に新入生の姿はあるのか。なんだか頭が痛くなってきた。