(十) 村上直美
金曜日の朝は遅い。
アパートの小さな窓から漏れる陽射しは、もう朝日と呼べるものではないかもしれない…と、ゆっくり身体を起こした。
おはよう。
どんな時間でも、そう言えば朝になる。魔法の呪文。
さっと顔を洗って、それから肌のお手入れ。面倒くさい。けれどサボったら博美に叱られるから、仕方なくクリームを塗る。
肌の張りは大切だから、睡眠時間は八時間。ここ一年の博美はチェックが厳しい。特に学園祭が終わってからは。
私は彼女にとって理想の女の子。あるいは理想の…。
通学に時間がかかってきついから、親に頼みこんでアパート暮らしになったのが去年の春。とたんに私の生活リズムは崩れた。誰かが起こしてくれないとダメなほど、一人暮らしに向いていないことが分かった。
このままでは理想の女の子失格だ。そこで立ち上がった博美は、敵か味方か謎だらけの同級生。正確にいえば、敵だったはずなのによく分からなくなった仲間。いつの間にか鶴龍砲。ほめすぎ。
とにかく去年の今ごろ、いつも生活指導を欠かさない、まるで母親みたいな存在に博美はなった。母親というより、私が理想にすべき女の子。誰かに強制されなくとも、彼女は私の理想だ。
ノートを入れたカバンの隅に、におい消しの小型スプレーを一つ忍ばせる。今日は楽しい新歓だから。
うちの会長の桑川さんは困ったことにスモーカー。ヒラブンで吸うのは会長だけで――もちろん私も大嫌い――、レミタンは古湊先生が吸うけれど今日は学生のみ、要するに一人だけだ。どう考えてもみんなの迷惑なんだから、どうにかして禁煙させたい。
私は…、タバコなんて金の無駄だと親に教え込まれた。健康のためだとは一度も言われなかったと思う。もちろん今なら博美が全力で阻止すると思う。
「おはようございまーす」
「あ、今日は早いじゃない」
学校へは徒歩十分。
ざわめきに包まれながら教室に向かえば、いつもの笑顔。
「相変わらず朝からイヤミな博美ね」
「まぁね」
なんだろう。
最近の私は少しレズっ気があるのかもしれない。本当なら一番仲良くなれそうにない相手なのに、毎日博美の顔を見ては安心する。
…嘘?
嘘です。
「気が合う」二人の仲が悪いわけはないのです。なんちゃって。
片側に大きな窓が並ぶ階段教室の四月。前方は柔らかな陽射しに包まれ、ゆらめく光彩が教授の背後を隠している。
一度も黒板を使ったことのない教授はステージを左右に動き回って、だけどその行き先を誰も見ていない授業中。
おとなしく座っている周囲を、ひじもつかずに見つめる私は、時々息苦しさに目を閉じる。
いつもまわりには気を使って。
波風を立てぬように。どこまでも凡庸であるように……と、抑えつけられている。
そんな妄想の続きで私はいつも誰かに叱られる。
単なる自己防衛の言い訳。
同じことしかできないのに、自分は違うと思いたいだけ。
刻々と位置を変える陽射しに包まれながら、私は黙ってうなづく。
隣で寝息を立てる相手は、そこでいつも曖昧な苦笑いを返してくれる。
聖徳太子だってできない芸当だ。
二限の授業は十分早く終わったので、博美と並んで階段を駆け下りる。
目指すは学食。
お昼休みは混雑するから、なるべく早めに行かなければならない。それは当たり前だけど、博美は「席取りはセコい!」主義者だから、結果としてトレイを持ったまま客席をうろうろしないとも限らない。意外に面倒くさい。
文学部の校舎から外に出て、向かい合う建物へと急ぐ。その瞬間、強い風に髪が乱れる。だけど博美は気にせず進む。ルートはいつも限りなく直線に近い。後輩の目には格好良く映るらしい。
この風はキャンパスの名物。坂を登った高台にあるから、どうしても避けられない。その代わり空が広いし、夏は熱風で冬は凍える。代わりになってない。
「今日はサバかぁ」
「じゃあ私が頼むから」
「し、仕方ない…」
お金に余裕がある限り、多少高いけれどなるべく日替わりを頼む。
ただし二人の時はどちらか一人だけ。お互いに違うものを頼めば情報量が二倍になると、これも親に教えられた。たぶん博美は納得していないけれど、もう一年は続いている。
今日は無条件で私が日替わり。実は博美は青魚が苦手だ。
「グルメ旅行が心配じゃない?、博美」
「あんな自称グルメは大丈夫だって」
「そう?」
「どうせみんな平等に苦しむだけ」
天井の低い店内にはもうかなりの学生がいる。きっと二限が空いてる人。たまに授業中だったはずの知り合いがいたりするけれど。
無事に席を見つけて腰をおろしながら、とりあえずからかっておく。余裕のない時の博美は会話にのってこないから。
「四人で決まりなの?」
「さぁ、とりあえず私から誘う相手は直美ぐらいだし…」
連休に企画されたレミタンの「探検」。庭っちと準ちゃんが提案する行き先は、電車で三十分ほどにある神社周辺だった。
そこは私の実家に近いから、昔一度は行ったこともある。だけど二人がいうには相当に怪しくて楽しいらしい。まず二人の目が輝いて、ちょっと面倒くさそうな顔で博美ものった。
面倒くさそうな顔だけど、本当はかなりはしゃいでる。いくらごまかそうと、博美はそういうのが好きだからレミタン副部長になった。
「ま、それはあの二人がどうにかするでしょ」
「では博美さん、本日の議題に移りましょう」
「直美さんはサバ食べてご機嫌ね」
「うん」
サバが食べられない博美は、それだけで不幸。柔らかい感触を楽しみながら、思い出したようにご飯を食べる。決してグルメは満足しない味。でもこの缶詰みたいなサバでも私は十分満足している。
それはともかく、今はやるべきことがあった。今晩のコンパの席決めだ。
その場で決めたらいいような気もするけれど、博美は納得しない。まぁ…、その場に着いたらさっさと座ってしまい、しかも「面倒くさい」とごね始める人間が少なくとも一人はいる。副部長としては仕方ない。
「とりあえずトップは向かい合って上座で」
「庭っちは災難ね」
「桑川さんもあしらえないんじゃ部長は務まらないから」
そしてもう一つ。ヒラブンで何かをする時にいつも困るのが桑川さんの位置だ。
二回生の夏から会長で、知識は豊富だし頼りになる人だけど、かなり気難しいのが玉に瑕。ついでにスモーカー。いつもは仕方なく私がそばに座っている…けれど、今日は私も世話役だしそうもいかない。
ちゃんと決めておかないと、会長のまわりだけポッカリ空いてしまう。
「えーと、じゃあ次は五十川さんで」
「え?、会長の隣?」
「新入生には社会を知ってもらわないと」
「うーん…」
百パーセント納得はしないけれど、反論もしない。
確かに、桑川さんなんて可愛いものだとは、うちのOBも言っていた。それに会長は自分から交わるような人ではないから、別に新入生を困らせはしないはずだ。その代わり……、会長が孤立しそうだ。
………。
どの席でも一緒だ。余計なことを考えるのはよそう。もう一口サバをかじって、お茶を飲んで気分を落ち着けた。このお茶のまずさだけは改善してほしい。
「…こんな感じでいい?、直美」
「私と準ちゃんが向かいでいいの?」
「何?、バカの相手は嫌だって?」
「そんなこと言ってない」
五分ほどで座席表は完成。たいした人数でもないから、両方のメンバーを交互に並べればおしまいだ。
私の近くには準ちゃんと相馬さんか…。
「ま、バカの暴走をほどほどに止めるのが直美の仕事」
「準ちゃんは女の子に優しいから大丈夫」
「優しい?」
「庭っちよりは」
「…まぁ、それは」
不服そうな博美を少しからかって、最後の一切れを食べた。
周囲には、席が空くのを待つ学生が立ち並んでいる。ゴールデンウイークが終われば三割ぐらい減るだろう。出席をとる科目が増えたから、昔ほど減らないらしいけれど。
………。
「大学らしい大学」に行きたい。
もちろん自分の学力と相談しながら、なるべく大きな大学に行きたい。高校生の頃はそんなことばかり思っていた。だからこの混雑は自分で希望したもの。だいたい、混雑といってもほんの十数分耐えるだけだ。
二十四時間これだったら滅入ると思う。だからアパートだけは学生の住んでない所にした。
「ところで博美」
「え、何?」
博美がちょうど食べ終える辺りで声をかける。食事中に邪魔すると機嫌が悪くなるから。
ちなみに、私の日替わりは数分前に済んでいたりする。博美は食べはじめると途端にスローペースになるのだ。
「本当に鍋でいいの?」
「直美はしつこい」
「そんな意地にならなくても…」
もう桜が散って半月、今日のこの街は五月下旬並みの陽気らしい。天気予報によれば。
どう考えても鍋の季節ではないが、博美が予約を入れた日はちょっとだけ寒かったから、体の芯から温まるメニューになった。
さすがに当日では変更も難しい。きっとこのまま鍋が決行されるのだろう。我慢大会というほど暑くもないし、まぁいいか。
「あとは……、二次会どうする?」
「どうするって…、博美はカラオケ行くんでしょ?」
「何?、不満?」
立ち上がった瞬間の博美は文句なしに美しい。
整った輪郭、鋭い目線、やわらかそうな唇、程良い弾力の頬…って、私は何を見とれているのだろう。
「不満はないけど、わざわざ訊ねる必要もない」
「直美は口が減らないから困るわ」
マイクを持ったら離さない上回生。新入生にとっては、それもきっと衝撃的な光景だと思う。
でも本当に衝撃的なのは、こっそりと演歌をオーダーし始めた時だ。それは今のところ、庭っちにも見せない内緒の博美。だから今日は三次会のカラオケも覚悟している。




