(一) 庭田
坂道は花盛り。
同じような格好の男女と追いつ追われつ、時々疲れた顔で空を見る。
まぶしさに目がくらむ。いつもなら、眠っている時間だった。
生まれた町を遠く離れて、もう二年が経った。
何もかもが自分の敵で、新聞の拡張員の造り笑顔すら救いだった…、今となっては笑い話にしかならない時期もあったけれど、いつの間にか居場所を見つけている。
それはとても不思議なことだ。高校生だった自分にはまるで想像も出来なかった未来を、当たり前のように生きているのだ。
ふと、近づいてくる音。ちらっと右を向くと、小さな電車がそばを通り過ぎて行く。きっと中には沢山の学生が乗っているだろう。
桜並木の間を抜ける電車は、新入生を感動させるという。俺はどうだったろう。ただ困惑しただけかも知れない。故郷なら桜が咲くのはあと半月は先だから。
校門はざわめきに包まれている。既に構内のあちこちに出店があって、場違いなスーツ姿の新入生をつかまえる光景。
ふっと息を吐く。
俺たちもこれから新歓活動という業務にあたらねばならない。慌てて文学部の校舎を目指して走った。自分としてはこれでも早起きしたつもりだったのだが、周囲の空気はそうでもない。どうやら重役出勤と皮肉られる状況らしかった。
「やぁおっはよう!」
「遅い! 遅い遅い遅い!」
「ぐ…」
部室に入った途端、副部長になじられる。無言で手を合わせた俺は、すぐに長机を運び出した。
そうなのだ。困ったことに俺は部長なのだ。四回生が抜けたら、部員はたった五人の歴史民俗探検部。その名前だけで普通は避けて通りそうだ。
やることはもう判っているから、とにかく走る。階段を降りて、欅の大木の脇で人混みに飲み込まれて、しょうがないから他の出店の後ろに周って、ようやく空きスペースを見つけた。
「よし、これで千客万来ってやつだ」
「ラーメン屋じゃないんだから」
「ちょっくらサンドイッチマンやってくるぜ」
「やめい!」
人数のわりに騒がしい。どちらかと言えば陰気くさい部なのに、なぜか妙に社交的な奴らが集まっていた。
もちろん、それは悪いことじゃない。これで陰気な連中ばかりだったら、きっとクラブへの風当たりも強いだろうし、だいいちそんな場所にいるのは俺自身が耐えられない。
「では部長、第一声をお願いします!」
「ぐ、なんだよそれ」
「部長のくせに遅刻したのは誰だっけ?」
「そうだそうだ、庭っちは自覚が足らねーんだまったく」
「………」
ふつふつと怒りがこみ上げたが、必死におさえた。
さっきからやかましいのは、副部長の宮海と会計の浜中。はっきり言うが、この役職はすべてジャンケンで決まったのだ。三人でじゃんけんして、最初に負けた俺が部長、次の宮海が副部長。
本音を言えば、部長は宮海にやってほしかった。俺よりははるかにしっかりしているし、部員で唯一の女でもある。文学部は女性比率が高いから、そのほうが部員集めにも都合がいいのだ。
で、理想は浜中が副部長で俺が会計。浜中なんていかれた野郎に金の管理なんて無理不可能だ。ただの雑用に過ぎない副部長がふさわしい。
………。
「えーー、歴史民俗探検部でーす、よろしくおねがいしまーす!」
「えーって何よ、爺臭いわねー」
「やかましい、たった五人なんだからみんなで行くぞ!」
とにかく、悩んでも部長。今さら逃げ出しようもない。覚悟を決めて何度か叫んでみた。
もちろん何の効果もない。気のせいか、新入生はみんなこちらと視線を合わせることすら避けているように思える。
先輩が言うには、何事があっても泰若としてただ天命を待てばいいらしい。さすがにそれもなんだかなぁと思ったけれど、考えてみれば俺たち自身、ここに入ったのは事故のようなものだった。
しかし、しかしだ。
周囲のイベントサークルの類に負けるのはまだ仕方がないだろう。新入生は愚かにも、目先の甘言に騙されるものである。入ってしまえばそこには、サワガニよりもバカな会話とドロドロな人間関係が待っているというのに、まったく困ったことだが、とにかくそれは仕方がない。
だが、あちらを見よ。我々と比べても数段ダサイ平安文学研究会に、数人の新入生がたむろっている。おかしい。実に不条理だ。許し難い。あそこの幹事なんて、テレビに出ればモザイク必須の巨体野郎なんだぞ。
「やっぱナオナオの力はすげーなー」
「あんな程度の女など、掃いて捨てるほどいるだろ」
「お前なぁ、現実を認めろよ」
正直に言えば、浜中の言う通りだと判っている。
ヒラブンのナオナオこと村上直美は、ミスなんちゃらに選ばれた女だ。今も約十メートル先で新入生を捕まえてニコニコ笑ってやがる。
あの笑顔はきっと腹黒い本性を隠すものだ。俺はずっとそう思い続けている。大学のクラスが同じだから、いつか見破ってやろうと観察し続けて、それどころか「そんなに言うなら試してやろうぜ」と浜中に騙され、ミスなんちゃらに彼女を応募させてしまった。我が青春の汚点だった。
…要するに、いい加減自分が嫌になってきたのも事実だった。
「なぁ」
そこでまた浜中に腕を引っ張られる。
こいつは何かというと体を触る危険人物なのだ。
「なんだよ、腹減ったのか?」
「そりゃ腹減ってるが…って、違うだろコラ。あそこ」
「え?」
浜中が指差した先を見る。欅の木の辺りを、せわしなく人々が行き交う…なかに、一人ぽつんと女の子が立っていた。
後ろ姿からでも新入生だと判る。こぎれいな服装で、ストレートの黒髪で、どこか落ち着かない様子で。
「…どうしろと」
「決まってるだろ、勧誘しろ」
「俺がか」
「部長だろ」
「押しつけといてそれかよ」
「文句言うな。まだ一人も入ってねぇんだぞ」
「うむ…」
途切れることなく新入生はやって来る。なのに、「歴史民俗探検部 レミタン」と書かれたこの長机に立ち止まる人間は皆無といって良かった。
………。
普通「レミタン」なんて書いたら逃げるよな。困ったことにこれが伝統らしいから、何も言えないのが辛い。
とにかく、ゼロでは困る。ただでさえ部員が足らないのだ。せめて各学年三人はいてほしい。
ああ、それは贅沢な要求なのだろうか。
振り返る。女の子はまだ同じ場所で、小さな背中を振るわせていた。
「なぁ宮サマ」
「その呼び名やめなさい!」
「凛々しいねぇ、ヒューヒュー」
「なんか用があったんじゃないの!? 浜バカ」
「あったあった。こいつに突撃させようと思うんだが…」
「……あの子に? へー」
不穏な会話がガンガン耳に入って来る。
というか、どう考えても俺に聞かそうとしてるだろ、クソ。
「よっしゃあ! 行ったるわい!」
「行け行けガメラ~」
「やかましい。宮サマもあそこの百分の一ぐらい愛想笑いしとけ!」
「人間自然体が一番よ」
宮海は密かにナオナオをライバル視している。それをからかうのは、レミタン最大の娯楽と言っても過言ではない。
過言だけどな。
ゆっくりと新入生に近づく。新入生はまだ気づいた様子がない。ふっふっふ、勝った…ではない、勝ってどうする。
幸いというか、ひっきりなしに人が行き交う。これで堂々と声をかければ、少なくとも変質者には見えないと思いたい。
「な、なあ君、良かったら…」
「は、はいっ!」
胡散臭い営業用スマイルに、恐怖心の固まりが振り返る。
その瞬間がすべてだった。
「良かったら、ウチの話聞いていかないか。べ、別に怪しい宗教じゃないから、なんならこのビラだけでも…」
「…………」
「な、何か?」
「す、すいません、あの…」
そのまま大きなカバンを開けて、慌てて書類を取り出した彼女が、今度はじっとこちらを見つめた。
思わず後ずさりしてしまう、真剣なまなざし。俺は何か悪いことでもしたんじゃないか。
「こ、こ、これ、教えてくださいっ!」
「いや、その、あんた……、声がでかいって」
「ご、ごめんなさい! ではっ!」
「ま、待て!」
ダッシュで去ろうとする彼女の腕を掴む。
我ながら何がそうさせたのか判らないけれど。
「よし、俺に任せろ! 頼むから逃げるな、逃げないでくれ!」
「…………」
それはどうやら、相当に恥ずかしいシチュエーションだったらしい。
痴話喧嘩だとか援助交際だとか、散々からかわれたけれど、それは後の話。この場で俺は訳も判らず必死に彼女を引き留めていたし、彼女もじっと俺の顔を見つめていた。
新入生相馬美恵は、こうしてレミタンの一員となった。