置きっぱなしの傘
父は、いつも何も言わない人だった。
怒ることも少ない。
笑うことも少ない。
褒めてくれた記憶なんて、ほとんどない。
何を考えているのか、分からない。
子どもの頃は、それでもよかった。
大きな背中におぶわれて眠ったこと。
肩車をしてもらって見た花火。
雨の日、大きな傘の中で手を引かれて歩いた帰り道。
その背中は、山みたいに大きくて、
その手は、どこまでもあたたかかった。
けれど思春期になると、父の無口さは、私を少しずつ寂しくさせた。
「行ってきます」
「……ああ」
「ただいま」
「……おかえり」
会話は、それだけ。
学校のことも。
友達のことも。
好きな人ができたことも。
進路に悩んで眠れなかった夜も。
本当は聞いてほしかった。
たったひと言でよかった。
頑張れ。
大丈夫。
お前ならできる。
そんな言葉が欲しかった。
でも父は、何も言わない。
高校三年の冬。
進路で悩み続けていた私は、とうとう父に気持ちをぶつけた。
食卓には、母が作った湯気の立つ味噌汁。
けれど私の胸の中は、ずっと冷たいままだった。
勇気を出して聞く。
「お父さん……私、この道に進みたい。どう思う?」
父は黙って聞いていた。
新聞をゆっくり畳み、静かな声で言う。
「あかねがやりたいことをやればいい。自分のことは自分で決めろ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
違う。
聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
背中を押してほしかった。
頑張れ。
そのひと言でよかった。
迷ってもいいんだと、言ってほしかった。
ひとりじゃないと、感じたかった。
なのに、また突き放された気がした。
ずっと胸の奥に溜め込んでいた寂しさが、堰を切ったようにあふれ出す。
「お父さんって、私に興味ないよね」
「何考えてるか分からない」
涙があふれる。
震える声で、吐き出すように言ってしまう。
「ちゃんと私を見てよ……!」
父は少しだけ目を伏せて、
何も言わなかった。
部屋の空気が、しんと静まり返る。
その沈黙が、あまりにも寂しくて、あまりにも苦しかった。
でも私は、その時、気づけなかった。
その胸の奥に、どれほどたくさんの言葉があったのか。
それから数年。
就職して家を出て、ひとり暮らしを始めた。
父との距離は、近くも遠くもないまま。
実家へ帰っても、会話は少ない。
けれど玄関には、いつも大きな黒い傘が立てかけてあった。
骨組みが太く、しっかりと重みのある特注の傘。
男の人が使うには少し大きすぎるくらい、大きな傘。
子どもの頃、雨の日になると、その傘の中は広かった。
肩も、鞄も、制服の裾も濡れなかった。
いつも父の肩だけが、少し濡れていた。
あの時は気づかなかった。
私が濡れないように、父が少しだけ外側へ傘を傾けてくれていたことに。
ある朝。
父が突然倒れた。
あまりにも突然で、心が追いつかなかった。
病院へ駆けつけた時には、もう間に合わなかった。
最後まで、父は何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
ありがとうも。
ごめんねも。
大好きも。
何ひとつ。
四十九日を終え、実家の片づけをしていた時だった。
机の引き出しの奥から、古びた革の手帳が出てきた。
何気なく開いて、息が止まる。
そこには、色あせてボロボロになった小さな写真が何枚も挟まっていた。
生まれたばかりの私。
七五三で、少しすました顔の私。
運動会で一等賞の旗を持って笑う私。
卒業式で花束を抱えて泣く私。
全部、私だった。
どれも何度も見返したように端が擦り切れていた。
裏には、父の字。
はじめて笑った日。かわいくて泣きそうになった。
次の写真。
運動会、一等賞。自慢の娘。胸を張って歩いた。
次のページ。
受験勉強、毎日遅くまで頑張っている。眠れているだろうか。無理するな。頑張れ。
合格発表の日の写真。
よくやった。本当に良かった。声をあげて喜びたかった。
就職して家を出る日の写真。
寂しい。でも笑って送り出した。ちゃんと食べろ。無理するな。困ったら帰ってこい。
涙で文字が滲む。
ページをめくる手が震える。
そして、あの日の記録。
あかねに「興味がない」と言われた。
違う。誰より気にかけている。誰より応援している。
でも言葉にできない。
不器用な父で、ごめん。
堰を切ったように涙があふれた。
知らなかった。
何も知らなかった。
父は、ずっと見ていてくれた。
ずっと、愛してくれていた。
帰り際、空からぽつりと雨が落ちてきた。
母が、玄関から一本の傘を持ってくる。
あの黒い大きな傘だった。
「これ、持っていきなさい」
「……お父さんの傘じゃないの?」
母は涙ぐみながら、やさしく笑った。
「違うわよ」
「それ、あかねのために特注で作ったの」
「荷物が多くても、絶対濡れないようにって」
胸が詰まる。
震える手で、傘を開く。
内側の骨のそばに、小さく書かれた父の字。
あかね専用
濡れるなよ
風邪ひくな
その文字を見た瞬間、立っていられなくなった。
雨の中で、傘を抱きしめる。
父の匂いが、かすかにした気がした。
生きているうちに、聞きたかった。
たったひと言でいい。
その声で。
ぶっきらぼうでもいいから。
聞きたかった。
涙が止まらない。
子どもの頃みたいに、声をあげて泣いた。
「お父さん……」
震える声が、雨に溶ける。
「会いたいよ……」
大きな傘が、静かに雨を受け止めていた。
あの日と同じように。
誰も濡らさないように。
やさしく、やさしく。




