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置きっぱなしの傘

作者: 香月 深青
掲載日:2026/06/01


父は、いつも何も言わない人だった。


怒ることも少ない。

笑うことも少ない。

褒めてくれた記憶なんて、ほとんどない。


何を考えているのか、分からない。


子どもの頃は、それでもよかった。


大きな背中におぶわれて眠ったこと。

肩車をしてもらって見た花火。

雨の日、大きな傘の中で手を引かれて歩いた帰り道。


その背中は、山みたいに大きくて、

その手は、どこまでもあたたかかった。


けれど思春期になると、父の無口さは、私を少しずつ寂しくさせた。


「行ってきます」


「……ああ」


「ただいま」


「……おかえり」


会話は、それだけ。


学校のことも。

友達のことも。

好きな人ができたことも。

進路に悩んで眠れなかった夜も。


本当は聞いてほしかった。


たったひと言でよかった。


頑張れ。


大丈夫。


お前ならできる。


そんな言葉が欲しかった。


でも父は、何も言わない。



高校三年の冬。


進路で悩み続けていた私は、とうとう父に気持ちをぶつけた。


食卓には、母が作った湯気の立つ味噌汁。


けれど私の胸の中は、ずっと冷たいままだった。


勇気を出して聞く。


「お父さん……私、この道に進みたい。どう思う?」


父は黙って聞いていた。


新聞をゆっくり畳み、静かな声で言う。


「あかねがやりたいことをやればいい。自分のことは自分で決めろ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。


違う。


聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。


背中を押してほしかった。


頑張れ。


そのひと言でよかった。


迷ってもいいんだと、言ってほしかった。


ひとりじゃないと、感じたかった。


なのに、また突き放された気がした。


ずっと胸の奥に溜め込んでいた寂しさが、堰を切ったようにあふれ出す。


「お父さんって、私に興味ないよね」


「何考えてるか分からない」


涙があふれる。


震える声で、吐き出すように言ってしまう。


「ちゃんと私を見てよ……!」


父は少しだけ目を伏せて、


何も言わなかった。


部屋の空気が、しんと静まり返る。


その沈黙が、あまりにも寂しくて、あまりにも苦しかった。


でも私は、その時、気づけなかった。


その胸の奥に、どれほどたくさんの言葉があったのか。



それから数年。


就職して家を出て、ひとり暮らしを始めた。


父との距離は、近くも遠くもないまま。


実家へ帰っても、会話は少ない。


けれど玄関には、いつも大きな黒い傘が立てかけてあった。


骨組みが太く、しっかりと重みのある特注の傘。


男の人が使うには少し大きすぎるくらい、大きな傘。


子どもの頃、雨の日になると、その傘の中は広かった。


肩も、鞄も、制服の裾も濡れなかった。


いつも父の肩だけが、少し濡れていた。


あの時は気づかなかった。


私が濡れないように、父が少しだけ外側へ傘を傾けてくれていたことに。



ある朝。


父が突然倒れた。


あまりにも突然で、心が追いつかなかった。


病院へ駆けつけた時には、もう間に合わなかった。


最後まで、父は何も言わなかった。


私も、何も言えなかった。


ありがとうも。


ごめんねも。


大好きも。


何ひとつ。



四十九日を終え、実家の片づけをしていた時だった。


机の引き出しの奥から、古びた革の手帳が出てきた。


何気なく開いて、息が止まる。


そこには、色あせてボロボロになった小さな写真が何枚も挟まっていた。


生まれたばかりの私。


七五三で、少しすました顔の私。


運動会で一等賞の旗を持って笑う私。


卒業式で花束を抱えて泣く私。


全部、私だった。


どれも何度も見返したように端が擦り切れていた。


裏には、父の字。


はじめて笑った日。かわいくて泣きそうになった。


次の写真。


運動会、一等賞。自慢の娘。胸を張って歩いた。


次のページ。


受験勉強、毎日遅くまで頑張っている。眠れているだろうか。無理するな。頑張れ。


合格発表の日の写真。


よくやった。本当に良かった。声をあげて喜びたかった。


就職して家を出る日の写真。


寂しい。でも笑って送り出した。ちゃんと食べろ。無理するな。困ったら帰ってこい。


涙で文字が滲む。


ページをめくる手が震える。


そして、あの日の記録。


あかねに「興味がない」と言われた。

違う。誰より気にかけている。誰より応援している。

でも言葉にできない。

不器用な父で、ごめん。


堰を切ったように涙があふれた。


知らなかった。


何も知らなかった。


父は、ずっと見ていてくれた。


ずっと、愛してくれていた。



帰り際、空からぽつりと雨が落ちてきた。


母が、玄関から一本の傘を持ってくる。


あの黒い大きな傘だった。


「これ、持っていきなさい」


「……お父さんの傘じゃないの?」


母は涙ぐみながら、やさしく笑った。


「違うわよ」


「それ、あかねのために特注で作ったの」


「荷物が多くても、絶対濡れないようにって」


胸が詰まる。


震える手で、傘を開く。


内側の骨のそばに、小さく書かれた父の字。


あかね専用

濡れるなよ

風邪ひくな


その文字を見た瞬間、立っていられなくなった。


雨の中で、傘を抱きしめる。


父の匂いが、かすかにした気がした。


生きているうちに、聞きたかった。


たったひと言でいい。


その声で。


ぶっきらぼうでもいいから。


聞きたかった。


涙が止まらない。


子どもの頃みたいに、声をあげて泣いた。


「お父さん……」


震える声が、雨に溶ける。


「会いたいよ……」


大きな傘が、静かに雨を受け止めていた。


あの日と同じように。


誰も濡らさないように。


やさしく、やさしく。

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