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いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました

「短編版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/29

※こちらは短編になります。長編は下記リンクか作者ページ、シリーズから。


https://ncode.syosetu.com/n6818lz/

 6客目の白磁を棚に戻して、フィリーネは自分の分がないことを確認した。


 ――毎朝のことだ。来客用は揃いの6客。自分の茶碗は部屋にある。取っ手を小麦糊で継いだ古い陶器で、半分より上に注ぐと漏れる。


 窓辺のグラスには枯れたカモミールの茎が入ったままだった。先月、客間で余った1本を差しておいたが、水を替える暇がないうちに枯れた。――捨て忘れている。


 今日は姉のお見合いだった。


 公爵家の家紋がアネモネだと紋章録で調べてあったから、花は白のアネモネにした。花言葉は「期待」。姉の席にはちょうどいい。


 ――自分のお見合いに選ぶなら、カモミールがいい。花言葉は「逆境に耐える力」。似合いすぎて、少し笑える。もっとも、そんな日は来ないのだけれど。


 花弁の角度を直し、茶托の位置を拳ひとつ分ずらし、窓の開き具合を確かめる。午後の光が椅子の背に落ちる角度を計算して、カーテンの丈を片側だけ3寸詰めた。


 焼き菓子にはレモンの皮を入れた。公爵領はレモンの産地だ。


「フィリーネ、あなたの支度はいいのよ。席に出るのは姉が先でしょう」


 母の声を、焼き型を竈から引き出しながら聞いた。


 知っている。私の順番はいつも「あとで」だ。あとで、あとで、ずっとあとで。


 ――そして「あとで」は、まだ1度も来たことがない。



 セドリック・ヴェルティーン公爵は、時間ぴったりに到着した。


 フィリーネは隣の小部屋で茶葉を量りながら、壁越しに会話を聞いていた。


「お花が綺麗ですわね」


 姉の声だ。


「ええ」


「公爵様のお好みをお伺いして、アネモネをご用意いたしましたの」


 フィリーネの手が止まった。


「このお花を選んだのは、あなたですか」


 低い声。短い。余計な音がない。


「えっ? ええと、フィリーネが――あ、妹です。妹が選んだのかしら。私、お花のことはあまり」


「お茶も」


「それもフィリーネに。私、お茶の種類がよくわからなくて」


「菓子は」


「フィリーネが焼きました。フィリーネ、お菓子の上手な妹がおりまして」


「――カーテンの丈が左右で違いますが」


「フィリーネだと思います」


「窓の角度も」


「……フィリーネだと思います。あの子、窓の角度にうるさいんです」


 フィリーネは小部屋で額を押さえた。


 姉。お見合いの席で、全部の功績を妹に返さないでほしい。――もっとも、嘘をつけないのは姉の美点のひとつだった。


「この部屋を整えた方に、会いたい」


 セドリックが言った。


 母が「はあ」と間の抜けた声を出した。


 フィリーネは1煎目の温度を確かめてから――80度、公爵領の作法に合わせた――客間に向かった。



 客間の扉を開けた瞬間、紺色の視線がぶつかった。


「失礼いたします。お茶をお持ちしました」


 茶托を置く。カップの取っ手を左に向ける。匙の向きを合わせる。


「……取っ手が左を向いている」


「左利きでいらっしゃいますでしょう」


「何故わかる」


「紋章録に記載がございます」


「――紋章録まで読んだのか」


「来客の利き手を間違えるのは職業上の恥でございます」


「あなたの職業は」


「伯爵家の次女です」


「それは職業なのか」


「この家では、はい」


 沈黙が落ちた。セドリックは茶を1口飲み、カップを置いて言った。


「この屋敷を案内してもらいたい。――あなたの目で見た、この家を」



 案内はフィリーネがひとりで行った。


 セドリックの従者ヘルマンは客間に残り、姉とにこにこ茶を飲んでいた。


 客間を出る際、セドリックが足を止めた。


「椅子が6脚ある。来客4、伯爵夫妻2。――あなたはどこに座る」


「私は立っております。給仕の際は座りませんので」


 セドリックは何も言わなかった。ただ、6脚の椅子を1度だけ見渡して、廊下に出た。


「こちらが厨房です」


 棚を開ける。来客の好みを記した札が、季節ごと、人物ごとに並んでいる。セドリックは1枚を抜き出した。


「『ヴェルティーン公爵――レモン系統を好む。甘味は控えめ。左利き。茶は80度厳守』……いつ書いた」


「3ヶ月前のご訪問の後です」


「3ヶ月前にも来たことを覚えているのか」


「リンゴの砂糖煮を添えた紅茶をお出ししました。雨の日でしたので、お体が冷えていらっしゃるだろうと」


「……先々月は」


「ジンジャーのビスコッティです。お疲れの顔色でしたので」


「顔色まで見ていたのか」


「来客の体調に合わせるのは職務です」


 セドリックは棚全体を見渡した。47の壺にラベルが貼ってある。


「……あなた自身の分はあるか」


 フィリーネは少し間を置いた。


「私は来客ではありませんので」


「自分の好みの茶はないのか」


「選んだことがありません。――来客用の残りを飲みますので」


 セドリックの目が、一瞬だけ細くなった。


 庭に出た。


 客間に面した花壇は手入れが行き届いていた。バラの生け垣、季節の草花、石畳の目地まで掃き清めてある。


 歩きながら、フィリーネは無意識に枯れた花殻を摘んだ。2歩先で、もうひとつ。手が勝手に動く。


「いつもそうするのか」


「何をですか」


「歩くたびに手を入れる」


 フィリーネは掌を見た。花殻が3つ。いつ摘んだか覚えていない。


「――癖です。すみません」


「いい庭だ。……バラの品種は何という」


「ダマスクです。香りが強い種で」


「同じものを植えたことがある」


 フィリーネは少し驚いて、セドリックを見た。


「公爵邸にも庭が?」


「あった。枯らした」


「……枯らした」


「水をやりすぎた。1日に3度」


「――3度は溺れます」


「溺れた。根が腐って1列全滅した。植え直す方法がわからず、そのままにしてある」


 フィリーネは口を押さえた。1列全滅。3度水をやって。


「……笑っているか」


「笑っておりません」


「口元が動いている」


「――風です」


 セドリックは前を向いたまま、少しだけ口の端を上げた。


 ――この人は、自分の庭を自分で世話しようとしたのだ。下手でも、枯らしても、自分で。


 私は22年間、他人の庭を完璧に世話して、自分の鉢には水もやらなかった。どちらが正しいのだろう。


 屋敷の裏手に回ったとき、セドリックが2階の窓辺に目をやった。小さな鉢が見える。何も植わっていない。土が乾いて白くなっている。


「あの鉢は」


「……私の部屋の窓です」


「何も植えていない」


「――時間がありませんでしたので」


 セドリックは何も言わなかった。ただ、乾いた鉢を見上げていた。


 雨が降り始めた。


 フィリーネは反射的に傘立てから1本を取り、セドリックに差し出した。


「どうぞ」


「あなたは」


「来客が濡れるわけにはまいりません」


「あなたは濡れてもいいのか」


「私は慣れております」


 セドリックは傘を受け取らなかった。代わりにフィリーネの手から傘を取り、2人の間に差した。


「来客をやめる」


「は?」


「今は来客ではない。案内人と案内人だ」


「……公爵様、傘が小さいので寄らないと意味がございません」


「なら寄ればいい」


 フィリーネは半歩、寄った。肩が近い。雨の匂いがした。


 ――この人は、来客扱いを拒否した。この家に来てから、来客として扱われることを拒否した人間は初めてだった。


 書斎に入った。本棚を見て、セドリックの足が止まった。


「50音順ではないな」


「来客の関心に合わせて並べ替えております。領地経営、法令、農事の順です」


「……下の段に押し込んである本がある」


 フィリーネの背中が強張った。


「何の本だ」


「――花の図鑑です。私物ですので、来客の目に触れないようにしておりました」


「花の図鑑を読むのか」


「……好きなのです。花の名前を調べるのが」


 言ってから気がついた。「好き」は業務報告の言葉ではない。


 セドリックがこちらを見た。


「もう1箇所、見せてほしい場所がある」


「どちらですか」


「あなたの部屋だ」


 フィリーネの足が止まった。



 断れた。「私室は対象外です」と言えばよかった。


 ――けれど、この人は雨の中で来客をやめた。バラを溺れさせた話を、自分から教えてくれた。


「……散らかっておりますが」


「構わない」


 扉を開けた。


 窓辺の小さな机。書きかけの帳面。繕い物の籠。姉のお下がりを丈詰めしたドレスが椅子にかかっている。


 窓際の空のグラス。枯れたカモミールの茎がまだ入っていた。


「花瓶がない」


 セドリックが言った。


「花は全て客間に使います」


「全て?」


「全てです」


 自分のために花を選んだことは、1度もなかった。花の名前を調べるのは来客のため。水の温度を測るのは来客のため。菓子のレモンの皮も、カーテンの丈も、本棚の順番も――全部、誰かのため。


 それを寂しいと思ったことも、1度もなかった。寂しいと思う暇がなかっただけかもしれないが。


 ――嘘だ。1度だけ、思ったことがある。姉のお見合いの花を選んでいるとき、「私にも誰かが花を選んでくれたら」と。一瞬だけ。すぐに消した。消したはずだった。


「茶碗はこれか」


 取っ手を小麦糊で継いだ古い陶器。


「来客用は白磁の揃いですが、自分の分は」


「ない」


「はい」


「6客揃いの中に、あなたの席はない」


「……はい」


 セドリックは長い間、何も言わなかった。


 枯れたカモミールの茎を見ていた。空のグラスを見ていた。壊れた茶碗を見ていた。


 それから、口を開いた。


「――伯爵殿と話がある」



 客間に戻ると、空気が変わっていた。


「セドリック殿。管理を確認されたとのことだが」


「確認した。――問題がないことが問題だ」


 父が眉を寄せた。


「この屋敷の管理水準は公爵家の本邸に比肩する。使用人の数は本邸の4分の1以下。1人の人間が全てを支えている。――しかもその人間は、自分のための茶碗も花も持っていない」


「……」


「伯爵殿。率直に申し上げる。フィリーネ嬢を、私の屋敷にお迎えしたい」


 母が「まあ」と声を上げた。父が目を見開いた。姉は首を傾げた。


「次女を手放すわけにはいかぬ」


 父が言った。低い声だった。


「フィリーネがおらねば、この家が回らぬのです」


 セドリックが黙った。


 長い沈黙。


「……おっしゃる通りだ」


 フィリーネの心臓が止まった。


 セドリックが1歩、退いた。


「失礼した。フィリーネ嬢に22年分の負債があるのは、この家であって私ではない。――次の22年をどう過ごすかは、ご本人が決めるべきことだ」


 父に頭を下げた。


「その選択は――私の隣でなくてもいい」


 踵を返した。


 ヘルマンが慌てて立ち上がった。姉が「あら」と目を丸くした。母が安堵したように息を吐いた。


 ――帰る。この人が帰る。バラを溺れさせて、庭を枯らして、それでも私の庭を褒めた人が帰る。


 フィリーネの頭の中を、22年分の「あとで」が走った。あとで着飾る。あとで茶を飲む。あとで花を選ぶ。あとで席に座る。あとで、あとで、あとで――。


 あとでは来ない。来たことがない。待っていたら来ないのだ。


 立ち上がった。


「お待ちください」


 セドリックの背中に向かって言った。声が震えた。


「お父様」


「何だ」


「私は――椅子ではありません」


 父の目が見開かれた。


「この家を支える椅子ではなく、この椅子に座る人間です。私の順番を、私が決めてはいけませんか」


 22年間、1度も父に反論したことがなかった。足が震えた。頭の中は真っ白だった。――それでも、立っていた。


 セドリックが振り返った。


「フィリーネ嬢」


「あなたは今、『私の隣でなくてもいい』とおっしゃいました」


「言った」


「――あなたに、私の選択を決める権利はありません」


「……」


「私が選びます。後回しではなく、今。――もう1度おっしゃってください。なぜ、私を」


 セドリックは口を開きかけた。閉じた。耳が赤くなっていた。――開いた。


「――ヘルマン」


「はい、閣下」


「もういい。全部言え」


 ヘルマンが恭しく一礼した。待っていましたと言わんばかりの顔だった。


「閣下は国境視察の帰路にこの屋敷に立ち寄られた折、視察報告書にこう書いておいでです。『当屋敷の管理者は極めて有能。茶の温度管理は芸術の域。なお、管理者の容姿については報告書の範囲を逸脱するため割愛する』」


「……もういいと言ったのは喋れという意味だ、逐語で読み上げろとは言っていない」


「また、帰路の馬車の中で閣下が仰った言葉を正確に再現いたしますと、『あの家の菓子をもう1度食べたい。できれば毎日。いや毎日は不自然か。月に1度は理由が作れるか。国境視察を月例にできないか』」


「ヘルマン」


「2度目のご訪問には公務上の理由がございませんでした。3度目に至っては出発前に靴を3足お履き替えになりました」


「ヘルマン」


「なお、1度目の帰路に閣下が自ら茶を淹れようとなさった結果、やかんが1つ犠牲になっております。蓋を閉めずに火にかけ、蒸気で厨房の天井が黒くなりました。2度目の帰路では温度計を鍋に落とし、鍋も1つ犠牲に。茶葉は7種お取り寄せになりましたが、閣下の感想は全て『違う』でした」


 セドリックの耳が真っ赤だった。


「――事実を申し上げたまでです、閣下」


 フィリーネは息を忘れていた。


 やかんを爆発させた。温度計を鍋に落とした。茶葉を7種取り寄せて全部「違う」。靴を3足履き替えた。報告書に容姿のことを書きかけて消した。――全部、この人が、帰った後にやったことだ。


「フィリーネ嬢」


 セドリックの声が低くなった。耳は赤いまま、目は逸らさなかった。


「1度目は帰路の立ち寄りだった。茶托が左を向いていた。花が紋章の花だった。菓子にレモンの皮が入っていた。――帰ってから、同じ茶を淹れようとした。できなかった」


「……」


「2度目は、用はなかった。本棚が私のために並んでいた。花の図鑑が下の段に押し込んであった。――帰ってから、花を自分で活けようとした。枯らした」


「……」


「3度目は――もう、理由がなかった」


 声が、1段低くなった。


「あなたの部屋を見た。空のグラスがあった。枯れたカモミールの茎。壊れた茶碗。――それを見たとき、管理者が欲しいのではないとわかった」


 セドリックは1歩、戻った。さっき退いた1歩を、取り返すように。


「他人のために全てを整えて、自分には枯れた花しか残っていない人を――放っておけなかった」


 フィリーネは口を開きかけた。


「――違う」


 セドリックが、自分の言葉を遮った。


「放っておけなかったのではない。あなたのために、花を選びたかった。私が。――やかんは壊すが、花は選べる」


「……やかんは壊さないでください」


「善処する」


「善処では――」


「この場合は見逃してほしい」


 フィリーネの目の奥が、どうしようもなく熱くなった。


「……それは――お見合いのお言葉ですか。それとも人事の面接ですか」


「見合いだ」


「やかんを壊す方が、お見合いで花を選びたいと仰るのは――」


「言っている。――人事の書類は持ち合わせていない。やかんなら壊してある」


「やかんは結構です」


「茶碗も割ってある」


「それは困ります。――お受けいたします」


「条件は」


「お茶の温度は80度を厳守してください。90度では茶葉が死にます」


「善処する」


「厳守です」


「……承知した」


「本棚を主題別に並べ替えます」


「好きにしろ」


「花の図鑑は、上の段に置いてよろしいですか」


「――当然だ」


 ヘルマンが扉の脇で、声を殺して笑っていた。


 姉がにこにこと拍手した。



 翌朝、フィリーネはいつもの時間に目が覚めた。


 厨房に降りた。47の壺が並んでいる。いつもなら今日の来客用を選ぶ。手が伸びかけて――止めた。今日は、もう来客のために選ばなくていい。


 母が入ってきた。壺のラベルを1つ1つ見ている。


「フィリーネ、この……ジャスミンの壺は、どのお客様に出すの」


「4番目の棚の札に書いてあります、お母様」


「あら……湯の温度は何度にすればいいのかしら」


「それも札に」


 母の顔を見て、フィリーネは少し胸が痛んだ。――けれど、振り返りはしなかった。


 庭に出た。水やりの桶を持ちかけて、置いた。


 父が花壇の前に立っていた。じょうろを持っている。どの花にどれだけやればいいのか、わからない顔をしていた。


「フィリーネ。バラには――何杯だ」


「根元に1杯です。葉にはかけないでください」


「……この白い花は」


「カモミールです。お父様」


 父は黙った。22年間一緒に暮らして、庭の花の名前を1度も聞いたことがなかった。


 書斎に寄った。帳面を開きかけて、閉じた。父が机の前に座っている。便箋が広げてある。「娘をよろしく頼む」と書きかけて、止まっている。


 ――フィリーネの好きな花を知らない。好きな色も。好きな季節も。何を書けばいいのか、わからないのだ。


 玄関先で、姉が待っていた。


「フィリーネ。お花の水替え、何曜日だったかしら」


「毎日です、お姉様」


「……毎日?」


「毎日です」


 姉が遠い目をした。それからフィリーネの手を握って、少しだけ泣いた。


「ごめんなさいね」と言った。「知らなかったの。本当に」


 フィリーネは姉の手を握り返して、振り返らずに門を出た。



 公爵邸に着いた日のことだ。


 案内された部屋の扉を開けた。


 ――テーブルの上に茶が用意されていた。手で触れる。熱い。90度はある。


 カップの取っ手は右を向いていた。フィリーネは右利きだ。合っている。けれど角度が微妙にずれていて、慣れない人が置いたとわかる。


 茶托の脇に、1輪の花。カモミール。茎が不揃いで、切り口が斜め。小さなグラスに無理やり差してある。花を活けたことのない人間の仕事だった。


 窓辺に小さな鉢が置いてある。土が新しい。何か植えた跡がある。――芽は出ていない。3度水をやったのだろうか。


 本棚がある。50音順だ。けれど1冊だけ、上の段に置いてある本がある。花の図鑑。新品だった。


 カーテンの丈が左右で違う。――真似しようとして、失敗している。


 椅子が1脚。座面にクッションが置いてある。刺繍は不揃いだった。公爵が、自分で縫ったのだろう。


 廊下から足音がする。


「……温度が」


「90度だろう。わかっている」


「カーテンの丈も」


「……善処する」


「厳守と申しました」


「明日には直す」


「それから、クッションの刺繍が――」


「――それは言うな」


 フィリーネは笑った。声を出して。


 全部間違っている。茶の温度も、花の角度も、カーテンの丈も、クッションの刺繍も。


 全部間違っていて――全部、私のためだった。


 手が動きかけた。花の茎を、いつもの角度に直そうとした。――止めた。


 カーテンの丈に目がいった。左右で3寸違う。――直さなかった。


 椅子を引いた。不揃いの刺繍のクッションに、そのまま座った。


 窓辺のカモミールが、少しだけ傾いていた。


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