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第9話

茜音は、実家を出てからまっすぐ家には帰らなかった。


 離れることを決めたはずなのに、  正直なところ、心はまだ揺れていた。


 ――もしかすると。


 今回は、陸翔は奈菜に出会わないかもしれない。


 そんな、ほんのわずかな希望が、  胸の奥で燻るように残っている。


 意味もなく車を走らせ、  夜の街をただ流れるようにドライブをした。


 気がついたときには、家の前に車を停めていた。

 空はすっかり暗く、街灯の明かりだけが静かに揺れている。


 冷え切った室内に入り、照明をつける。

 生活の匂いが、ゆっくりと戻ってくる。


 夕飯を取ろうと冷蔵庫を開けたが、

 胃のあたりがむかついて、食欲が湧かなかった。


 代わりに炭酸水を取り出し、口に含む。

 喉を通る刺激だけが、やけに鮮明だった。


 壁の時計を見る。


 ――まだ、三時間以上ある。


 陸翔が帰ってくるまでの時間は、  思った以上に長い。


 茜音は浴室に向かい、  ゆっくりと湯船に身を沈めた。


 熱い湯に包まれながら、  何度も深く息を吐く。


 考えないようにしても、  考えは勝手に浮かんでくる。


 風呂から上がり、  ソファーに座ってテレビをつけた。


 画面の向こうでは、  賑やかなバラエティ番組が流れている。


 笑い声。  拍手。  軽やかな音楽。


 けれど、それらは茜音の目にも耳にも、  ほとんど届いていなかった。


 時間だけが、  静かに、ゆっくりと過ぎていく。


 日付が変わるかという頃。


 玄関のドアが開く音がした。


 ――帰ってきた。


 茜音は、覚悟を決めるように深呼吸をひとつすると、

 ゆっくりと玄関へ向かった。


「……おかえり」


 声をかけると、  陸翔は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。


「寝てていいって言ったのに。  起きてたの?」


 襟元を緩め、ジャケットを脱ぎながら言う。

 その仕草は、いつもと変わらない。


 そして、そのまま茜音を抱きしめた。


「ただいま」


 近づいた瞬間、  むせ返るようなワインの匂いが鼻をついた。


 茜音は反射的に、陸翔の腕から離れる。


「……陸翔、すごく匂うけど。  そんなに飲んだの?」


「違う、違う。  そんなに飲んでないよ」


 陸翔は慌てたように言い訳をしながら、

 自分の服の匂いを確かめるようにくんくんと嗅ぐ。


「ホテルのスタッフが持ってたワインをこぼしちゃってさ。

 それが俺にかかったんだよ」


「……そう」


「すぐシャワー浴びてくるから。  ちょっと待ってて」


 茜音は何も言わず、  陸翔の持っていたジャケットを受け取った。


 浴室へ向かう背中を見送りながら、  ジャケットに顔を近づける。


 やはり、ワインの匂いがする。


 ――出会ったのね。


 奈菜に。


 茜音は小さく息を吐き、  ジャケットをランドリーバスケットに、

 少し乱暴に放り込んだ。


 そして、そのまま寝室へ向かう。


 布団に潜り込み、目を閉じる。  けれど、眠気は一向に訪れなかった。


 ほどなくして、  ベッドが静かに沈む。


 陸翔が戻ってきたのだと分かった。


 背後から腕が回され、  腰に触れる。


 首元に、温かな息がかかる。


 茜音は、そっと自分の手を重ねた。


「……陸翔。  今日、ちょっと体調がよくないの」


「大丈夫?  病院、行く?」


 陸翔は体を起こし、  覗き込むように茜音の顔を見る。


「大丈夫よ。  寝れば治ると思うから……」


「そっか。  今日は早起きしたもんね」


 そう言って、  陸翔は茜音をぎゅっと引き寄せた。


「明日は、ゆっくり寝てていいから」


 やがて、  陸翔の呼吸が規則正しくなっていく。


 穏やかな寝息。


 その腕の中で、  茜音は眠れないまま、  じっと暗闇を見つめていた。


 ――もう、始まってしまった。


 どれだけ願っても、  戻れない場所に。


 そのことだけが、  はっきりと胸に残っていた。


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