第5話
しばらく玄関の前で座り込んでいた茜音は、重たい身体を引きずるように立ち上がり、リビングのソファーに腰を下ろした。
背もたれに身を預けると、ようやく息ができる気がする。
胸の奥に溜まっていたものを、ゆっくりと吐き出した。
――陸翔との出会いは、お見合いだった。
祖父の代から続く政治家の家系に生まれ育った茜音だが、それなりに自由に育ててもらってきた。
厳しく躾けられた記憶はあっても、進路や仕事を強制されたことはない。
兄の啓介はお見合いで春奈と結婚したが、夫婦仲は驚くほど良かった。
それでも、自分は違うと思っていた。
恋愛をして、好きになって、結婚する。
自分はきっと、恋愛結婚をするのだと。
大学を卒業し、啓介の友人が経営する会社で働いていた頃。
ある日、父に呼ばれた。
「お見合いを、してみないか?」
その言葉を聞いた瞬間、茜音は強く反発した。
家のために自分を犠牲にする家族ではないことは、分かっていた。
それでも、お見合いを持ち出されたとき、胸の奥がひどくざわついた。
――私も、駒なの?
そんな思いが、どうしても拭えなかった。
そんなとき、義姉の春奈が声をかけてくれた。
「何も知らずに反発するより、一度だけお見合いしてみたら?
それでも嫌なら、私も一緒に反対してあげる」
穏やかな笑顔で、続ける。
「それに、一度経験しておけば、次からの断り方も分かるでしょ?」
結婚する前から、春奈はいつも茜音に優しかった。
押しつけることも、否定することもない。
その言葉に背中を押され、
茜音は「一度だけ」と決めてお見合いを受けることにした。
事前に釣り書きと写真は渡されていた。
けれど、茜音は目を通さなかった。
どうせ断るつもりだったから。
そんな軽い気持ちで臨んだお見合いの席に、現れたのが陸翔だった。
陸翔は、製薬会社の社長になったばかりだった。
江戸時代から続く薬問屋の家に生まれ、代々受け継がれてきた家業を背負っている。
ホテルのラウンジに現れた陸翔は、背が高く、
すでに席についていた茜音の前に、迷いのない足取りで歩み寄ってきた。
その瞬間。
茜音は、恋に落ちた。
――一目惚れだった。
留学経験のある陸翔の所作は、どこまでも自然で洗練されていた。
椅子を引く仕草も、会話の間も、視線の向け方も。
そのすべてが、茜音の胸をときめかせた。
お見合いから三か月後。
何度もデートを重ね、陸翔からプロポーズを受けた。
茜音は、迷わなかった。
心から喜び、その手を取った。
――それが、なぜ。
なぜ、こんな未来になってしまったのだろう。
水川奈菜は、明るく無邪気な女性だ。
というより、「女性」よりも「女の子」という表現の方がしっくりくる。
茜音の三歳下。 陸翔の四歳下。
本来なら、社会人二年目。
けれど奈菜は、大学時代に両親を不慮の事故で亡くし、学業を続けられなかった。
生活のために、アルバイトを転々としていたと聞いた。
そういえば、陸翔は奈菜のことを、こう言ったことがある。
「こんな、けなげな子」
――けなげな子。
茜音は、その言葉を小さく口に出してみる。
自分が政治家の家に生まれ、
何不自由なく育った人間だと言われているような気がした。
苦労を知らない、お嬢様。 守られる側で、何も失ったことのない人間。
私が、本宮の娘でなければよかったのかしら。
ふと、そんな考えがよぎる。
いくら考えても、結論は出ない。
陸翔は、予定通り会食に行くだろう。 そこで、奈菜と出会う。
もう、止められない。
運命の歯車は、すでに回り始めている。
そこまで考えたとき、 茜音は、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。
震える指で、番号を呼び出す。
画面に表示された名前を見つめながら、 一度、深く息を吸った。
そして―― 通話ボタンを押した。




