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第37話

——守るものがあると、人は強くなる。


啓介の言葉が、陸翔の頭の中で何度も反芻されていた。


(……もしかして)


その考えを、打ち消す理由が見つからない。


茜音は、飲み物を頼むときは決まって紅茶だった。

香りを楽しむのが好きで、体を冷やすものはあまり口にしない。

それが、あの日の話し合いの席では、紅茶ではなくオレンジジュースを選んだ。


——たまたま、では片づけられない。


話し合いを避けるような急な中断。

慰謝料もいらないという、あまりにも早い決断。

代理人を通すという、徹底した遮断。


——守るもの。 ——待てない。 ——取り返しがつかない。


啓介の言葉が、一本の線になって、陸翔の中で繋がっていく。


陸翔は立ち上がり、上着を掴むと、迷わず会社を出た。

向かったのは、茜音の実家だった。


インターホンを押すと、少し間を置いて、茜音の母の声が返ってくる。


「……どなたですか」


「陸翔です」


短い沈黙。 扉は開かなかった。


「申し訳ありませんが、茜音はここにいません。

それに、今後は弁護士を通してお話をすることになっているはずです」


静かで、しかし拒絶のはっきりした声だった。


「……お願いします。少しでいいんです」


陸翔は、思わず声を低くする。


「どうしても、話したいことがあるんです。茜音に会わせてください」


「陸翔さん」


母の声が、ほんのわずかに揺れた。


「本当に無理なんです。お願いです。

もう、あの子を自由にしてあげてください」


「……自由に?」


「これ以上、あの子を苦しめないでほしいのです」


胸の奥が、じわりと痛んだ。


考える前に、言葉が口をついて出ていた。


「茜音の…… 茜音のお腹には、俺の子供がいるんじゃないんですか?」


インターホンの向こうが、完全に沈黙する。


否定は、なかった。


「……とにかく、本当に茜音はここにいません」


返ってきた声は、先ほどよりも固く、守るような響きを帯びていた。


「どこにいるんですか?」


陸翔は食い下がる。


「陸翔さん」


母の声は、はっきりとしていた。


「あなたが、茜音の手を離したのです。 一度離した手は、もう戻らない」


「……」


「探さないでください。 あの子は、自分で決めて、前に進んでいます」


「お願いです……」


「これ以上、あの子を追わないで」


インターホンが切れる。


陸翔は、その場に立ち尽くした。


——否定されなかった。 ——困惑していた。

——そして、隠すよりも守る言い方だった。


茜音が、妊娠している。

その可能性は、もはや疑念ではなく、限りなく確信に近いものになっていた。


(……なら、どこにいる)


立ち尽くす陸翔のスマートホンが震える。


田口からだった。


「まもなく会議の時間です。お戻りください。」


「……わかった。すぐ戻る」


電話を切り、陸翔はもう一度だけ、実家の扉を見上げた。


その頃。


茜音は、自分の部屋のカーテンの隙間から、外を見ていた。


インターホン越しのやり取りは、すべて聞こえていた。


——気づいてしまった。


胸の奥が、静かにざわつく。


陸翔は、もう妊娠に辿り着いた。

確信まではしていなくても、戻れないところまで来ている。


きっと、またここに来る。 理由を探しに、答えを求めに。


陸翔の姿が見えなくなったのを確認すると、茜音は母のもとへ向かった。


「……また来ると困るから」


声は静かだった。


「しばらく、お義姉さんのマンションに戻ります」


母は、茜音をじっと見つめる。


「本当に、このままでいいの?」


茜音は迷わず頷いた。


「決めたことだから」


お腹に、そっと手を当てる。


「この子と生きるって、決めたの」


「何かあったら、すぐ連絡して」


「うん。心配しないで」


茜音は小さな鞄を持ち、家を出た。

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