第36話
「社長、櫻井弁護士がいらっしゃいました」
田口がドアをノックして告げる。
陸翔は書類から目を離し、ゆっくりと息を吐いた。
——結局、茜音とは話ができなかった。
あの夜、席を立ってから今日まで、直接の連絡は一度もない。
胸の奥に溜まったままの違和感だけが、時間とともに重くなっていた。
目を閉じる。
……離婚は、本当に避けられないのだろうか。
「失礼します」
ドアが開き、櫻井が静かに入室した。
陸翔は立ち上がらず、ソファーに腰を下ろしたまま視線を向ける。
「話し合いができなかったことは、伺っております」
櫻井は淡々と切り出した。
「そのうえで、奥様からは 『今後の話し合いは、代理人を通したい』
とのご意向を預かっております」
代理人。 その言葉が、もはや選択肢ではないことを突きつけてくる。
「今後のご連絡は、私を通してください。
また、そちらも弁護士を立てられる場合は、その旨をご連絡いただければと」
一拍置いて、櫻井は続けた。
「奥様からの要求は、 『慰謝料は不要なので、離婚に応じてほしい』
というものです」
慰謝料はいらない。 陸翔の眉が、わずかに動いた。
条件としては、あまりにも潔すぎる。
引き留める余地すら残さない言い方だった。
「……それと」
櫻井は、小さな封筒を取り出し、机の上に置いた。
「こちらを奥様からお預かりしておりますので、お渡しします」
「……これは?」
「“返してほしいもの”としてお預かりしました。
詳細については、改めてご連絡いたします。本日はこれで失礼します」
櫻井は一礼し、そのまま部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
陸翔はしばらく封筒を見つめていたが、やがて手に取り、封を開けた。
小さな音とともに、何かが転がり落ちる。
慌てて拾い上げる。
——結婚指輪。
茜音の指に、当たり前のようにはまっていたもの。
掌にのせたまま、深いため息が零れる。
まだ封筒に重みが残っていることに気づき、慎重に中を覗く。
もう一つ。
婚約指輪だった。
「婚約指輪は、結婚してからもつけたいから。 シンプルなのがいいの」
そう言って、茜音は迷いなくそれを選んだ。
結婚してからも、結婚指輪と並べて、外すことはなかった。
——それを、返した。
陸翔は二つの指輪を強く握りしめ、そのままソファーに沈み込む。
——返された、ということは。 ——もう、戻らないということだ。
胸の奥が、じわじわと痛んだ。
「……社長」
田口の声に、意識を引き戻された。
「奥様のお兄様がいらっしゃっていますが、どうなさいますか?」
「……通してくれ。お茶を頼む」
そう答えた直後、低い声が重なった。
「別に時間は取らせない。そのままでいい」
啓介がオフィスに入り、ソファーに沈む陸翔を一瞥する。
「うちは、茜音の希望を全面的にかなえるつもりだ」
淡々とした口調だった。
「……お前がどう思おうとな」
陸翔は顔を上げる。
「どういう意味ですか」
啓介は少しだけ視線を逸らし、続けた。
「人はな、守るものができると強くなる」
一瞬の間。
「そして—— 迷っていられなくなる」
陸翔の胸が、わずかにざわつく。
低く、抑えた声。
「俺からお前に言えるのは、それだけだ」
啓介はそれ以上何も言わず、踵を返した。
陸翔は指輪を握りしめたまま、動けなかった。




