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第32話

人のいなくなった席に、先ほど注文していたコーヒーとオレンジジュースが運ばれてきた。

白いカップから立ちのぼる湯気が、ふいに現実感を伴って視界に入り込む。


もう向かいに座る人はいない。

そう思って席を立とうとした、そのときだった。


「……茜音ちゃん」


向かいの椅子に、いつの間にか春奈が座っていた。

驚いて息を呑んだ茜音の声が、遅れて零れる。


「……お義姉さん……」


「二人で話をするって聞いてね。心配で、ついてきちゃった」


春奈は陸翔が注文していたコーヒーにスプーンを入れ、静かにかき混ぜる。


その瞬間、コーヒーの匂いがふわりと立ちのぼった。


——だめだ。


胃の奥が、きゅっと縮む。 次の瞬間、酸っぱいものが一気にこみ上げてきた。


茜音は反射的に口元を押さえ、椅子を引く音も気にせず立ち上がった。


「……っ、すみません……」


返事を待たずに、奥の洗面所へ駆け込む。 背後から、慌てた足音が続いた。


「……茜音ちゃん、大丈夫?」


背中に添えられた手が、ゆっくりとさすってくる。

吐き気が落ち着くまで、春奈は何も言わなかった。


しばらくして、茜音は蛇口をひねり、水で口を濯ぐ。

深く息を吸ってから、かすれた声で答えた。


「……だ、大丈夫です」


鏡越しに視線が重なる。 春奈は一瞬ためらってから、静かに言った。


「……ねえ。勘違いだったらごめんなさい。でも、茜音ちゃん……妊娠してるんじゃない?」


胸の奥が、きしりと音を立てた。


「最近、お酒も紅茶も飲まないでしょう。今日だってオレンジジュースだったし」


否定の言葉は浮かばなかった。 茜音は口元をぬぐい、ほんの小さく頷いた。


春奈の目が、はっきりと見開かれる。


「……いつ、分かったの?」


「……この間、体調が悪くて。病院に行ったときです」


「……どうして、話してくれなかったの?」


少し考えてから、茜音は微笑った。

自嘲でも、諦めでもない、淡い笑みだった。


「言ったら……離婚に、反対されそうだったから」


春奈は何も言わず、ただ息を吐いた。


「……産婦人科には?」


問いに、茜音は首を振る。


「……まだです」


「……そう」


短くそう言って、春奈は姿勢を正した。


「今日は、うちに帰りましょう。これからのこと、ちゃんと話さないと」


その言葉に、茜音は静かに頷いた。


洗面所を出ると、昨日対応してくれたフロアマネージャーの姿が目に入った。

一瞬だけ迷ってから、茜音は足を止める。


「お義姉さん、少し待っててもらえますか」


春奈にそう告げ、茜音はまっすぐマネージャーのもとへ向かった。


「昨日のお客様ですね」


「はい。……実は、こちらのピアノのお仕事に、応募したいと思っています」


逃げも、躊躇もない視線だった。 マネージャーは一拍置いてから、頷く。


「では、明日履歴書をお持ちいただけますか。時間は……ランチとディナーの間、十六時で」


「はい。よろしくお願いいたします」


深く頭を下げ、踵を返し、 入り口で待つ春奈のもとへ駆け寄った。

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