第30話
櫻井に代理人をお願いしたことで、茜音の胸にのしかかっていた重たいものが、少しだけ軽くなっていた。
すべてが解決したわけではない。
それでも、これから先を一人で戦わなくていいのだと思うだけで、呼吸がしやすくなる。
――あとは、陸翔が離婚に応じてくれれば。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。
今まで通りなら、陸翔はすぐに離婚に応じるはずだ。
妊娠のことがばれなければ。
そんなとき、父から電話が入った。
「茜音、今どこだ?」
「弁護士さんとの話が終わって、これから帰ろうとしているところ」
「すまない。家に忘れ物をしてしまってな。
箱を一つ、指定したホテルまで届けてほしい」
少し意外だったが、茜音は快く引き受けた。
一度実家に戻り、父が言っていた箱を持ってホテルへ向かう。
ホテルの正面入口では、父の秘書が待っていた。
箱を手渡すと、丁寧に一礼される。
「先生からの伝言です。
『最上階のレストランからの景色が素晴らしい。少し遊んでいきなさい』と」
父らしい気遣いに、思わず小さく笑ってしまう。
せっかくだからと、茜音はエレベーターで最上階へ向かった。
全面ガラス張りのレストランは、夕暮れから夜へと移ろう街を映していた。
オレンジ色と群青が混ざり合い、やがて無数の灯りに変わっていく。
案内された席に腰を下ろし、メニューを開く。
反射的に紅茶を頼みかけて、はっとして言い直した。
「……オレンジジュースをお願いします」
グラスに注がれたオレンジ色を見つめながら、ゆっくり飲み干す。
喉を通る冷たさが、身体の内側を静かに整えていくようだった。
そろそろ帰ろうと席を立ったとき、壁際に貼られた一枚の紙が目に留まった。
――ピアノ伴奏者募集。
控えめで、小さな張り紙。
それなのに、なぜか視線が吸い寄せられた。
「ご興味がありますか?」
声をかけられ、茜音は驚いて振り向く。
マネージャーらしき男性が、穏やかな表情で立っていた。
「い、いえ……」
そう答えながらも、胸の奥がわずかに揺れる。
少しだけ迷い、思い切って口を開いた。
「……この募集、プロでなくても大丈夫なんですか?」
「ええ。一定の演奏レベルは必要ですが、プロである必要はありません。
採用の際には、実際に弾いていただきますが」
そう言って名刺を差し出される。
「フロアマネージャーです。ご興味があれば、いつでもご連絡ください」
続けて、レストランの片隅を指さした。
そこには、ほとんど照明の当たらない場所に、静かにピアノが置かれていた。
「うちは、演奏者が主役になる場所ではありません。
あくまでお客様が主体ですから」
「時々、有名になりたい方が応募されますが……そういう方には向かないんです」
その言葉に、茜音は慌てて首を振った。
「私、有名になりたいとか、そういうのは……」
「それなら、きっと向いていますよ」
優しくそう言われ、茜音は深く頭を下げた。
幼いころから習ってきたピアノ。
好きだったけれど、それを“仕事”にする発想はなかった。
結婚してからは、マンションに置くこともできず、
実家に帰ったときに、たまに弾く程度。
――ピアノを、職業に。
その響きが、胸の奥で静かに広がる。
不思議と、怖さはなかった。
名刺をそっとバッグにしまい、茜音はレストランを後にした。
夜風に吹かれながら、家路につく。
足取りは、ほんの少しだけ軽くなっていた。




