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第29話

翌日の午前中、父から一通のメッセージが届いた。


《離婚に強い弁護士をお願いした。  一度、直接話してみなさい》


連絡先の下には、弁護士事務所の名前と電話番号が記されている。


茜音はしばらく画面を見つめてから、 意を決して通話ボタンを押した。


数回のコールのあと、落ち着いた女性の声が応答した。


「はい、櫻井法律事務所です」


事情を簡単に伝えると、 その日の午後に時間を取れるという。


電話を切ったあと、 胸の奥に、わずかな緊張が残った。


午後、指定された弁護士事務所を訪れる。

ビルの中は静かで、外の喧騒が嘘のようだった。


応接室に案内され、しばらくすると、 一人の女性が入ってきた。


「初めまして。弁護士の櫻井美幸です」


三十代半ばくらいだろうか。 落ち着いた雰囲気で、柔らかい声だった。


名刺を受け取り、茜音も頭を下げる。


「今日は、よろしくお願いします」


「こちらこそ。  では、まず簡単にお話を聞かせてください」


櫻井は、ペンを手にしながら穏やかに言った。


「なぜ、離婚を考えるようになったのか。  話せる範囲で構いません」


茜音は一瞬、言葉を探した。


「……ここで話したことは、  家族に伝わりますか?」


その問いに、櫻井は少し考えてから聞き返した。


「ご家族というのは、  ご主人のことですか?」


「違います。  私の両親や兄のことです」


櫻井は小さく頷いた。


「ご安心ください。  離婚協議は、あくまでご主人と奥様の間の問題です」


「ご家族に、こちらからお話をすることはありません」


その言葉に、茜音は少し肩の力が抜けた。


「……ありがとうございます」


「では、改めてお聞きしますね」


櫻井の視線が、真っ直ぐに向けられる。


茜音は、ゆっくりと話し始めた。


「夫がお酒で体調を崩したと連絡があり、  迎えに行ったことがありました」


「そのとき、ホテルの部屋に行ったら……  ベッドに、女性がいました」


櫻井のペンが止まる。


「ご主人も、同じベッドに?」


「いいえ。  夫は、ベッドのそばに立っていました」


「それを見たのは、奥様だけですか?」


「いえ。  たまたま、主人の両親と一緒だったので……  両親も見ています」


櫻井は静かに頷き、メモを取った。


「……その後は?」


「先日、診察券を取りに自宅に戻ったら、  その女性が、家にいて……」


言葉が詰まる。


「私のパジャマを着ていました」


櫻井の表情が、ほんのわずかに曇った。


「そこで、主人が寝室から出てきて……」


それ以上は、言葉にできなかった。


「……辛いお話を、ありがとうございます」


櫻井は、そう言って軽く頭を下げた。


「……大丈夫です。  ごめんなさい」


話しているうちに、 自分が泣いていることに気づいた。


櫻井が、そっとティッシュを差し出す。


「……つらかったですね」


その一言が、胸に深く染みた。


少し間を置いてから、櫻井は言った。


「牧田様のお話を伺う限り、  離婚は可能です」


茜音は、思わず顔を上げた。


「不貞行為の立証が難しい部分はありますが、

 婚姻関係の継続が困難だと判断される事情は、十分にあります」


「ご主人が同意しない場合でも、  調停や裁判で進めることはできます」


その言葉に、 胸の奥に溜まっていた息が、少しだけ抜けた。


「……ありがとうございます」


「次に、慰謝料についてですが」


櫻井は、慎重に言葉を選ぶ。


「請求することは、可能です。

 ただし、金額や進め方については、戦略が必要になります」


「慰謝料……」


茜音は、その言葉を繰り返した。


正直、考えたことはなかった。


以前、陸翔は 「財産のほとんどを渡すから離婚してほしい」

と言ったことがある。


けれど今回は、 自分から切り出す離婚だ。


「結婚生活も、長くはありませんでしたし……  多くは望んでいません」


櫻井は、茜音の言葉を静かに受け止めた。


「分かりました。  ではまず、離婚成立を最優先に進めましょう」


「慰謝料については、  途中で方針を変えることもできます」


「今すぐ決めなくて構いません」


茜音は、小さく頷いた。


――まずは、離婚。


それだけで、今は十分だった。


「もしよろしければ、  今後は私が代理人として対応しますが……」


櫻井の問いに、茜音ははっきり答えた。


「お願いします」


その言葉を口にした瞬間、 初めて、現実が一歩進んだ気がした。

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